(11)
のんびりと歩いているうちに、護国神社の赤い鳥居のたもとに差し掛かった。先ほど見てきた教会や、ずっと遠くにあるお寺と、祀られているものの性質などは違うが、そういえばこれだって宗教施設には違いない。
しかし私は護国神社には参詣せず、実家の前も素通りして坂を降りた。今日は、夜に外で父と会う約束をしているが、家に立ち寄るとは言っていない。こういう時はちょっと立ち寄ったから、と挨拶だけでもして行っても構わないのだろうが、兄はおろか父とも顔を合わせたい気分ではなかった。
坂の下の有名なカレー店で昼食を摂り、腹ごなしも兼ねて歩いてホテルまで戻った。きちんと整えられたベッドに横になった。少し一休みでも、と思っただけで、本格的に寝てしまうつもりでなかった。しかし、ほんのわずかうたた寝をした。時間にして30分程度だろうか。しかしその眠りも快適なものではなかった。
海の底から何か黒くて大きなものが這い上がってくる。あの磯臭さを連れて。
そんな、断片的なイメージのような短い夢を見た。
一体何が来るというのだろうか、と不思議に思ったが、海から上がってくるあの強烈な磯臭さの原因がわかったような気がして、だから、妙に腑に落ちたような心地もした。
父は、待ち合わせ時間の5分前に、ホテルの前に来た。私は、おそらく父は早めに来るだろう、と予想して、その更に5分前から外に出て待っていた。待ち合わせなどをすると父は必ず、測ったように5分前に到着する。もともとそういう性分なのか、長年の役所勤めで培われたものなのかはわからないが、父は時間に正確できっちりとしていて、それは美点なのだろうが、私には、どうにも堅苦しく感じられる。
「このホテル、食事はどうなんだ?」歩きながら訊いてくる父に「うーん……いい方だと思うよ」と答えた。そうして、ベッドの寝心地がどうだとか、他愛ない話をしながら父について歩いた。
父に連れられて入ったのは、駅前の電車通りから1本入ったところにある、観光客はまず入らないであろう、煤けた感じのする小さな居酒屋だった。4人掛けのテーブルが2卓と、何席かのカウンター席。席数はわずかにそれだけで、キャパシティの面でも、観光客向けの商売を考えていないことは明らかだった。父が一番奥まったテーブル席に座ったので、その向かい側に腰かけた。テーブルの上にメニュー表はなく、手書きのメニューが壁にべたべたと貼ってある。
おしぼりとお通しを運んできた、あまり愛想のない女性店員に父がビールを注文した。お前も飲むだろう、と訊かれて頷いた。ビールは正直なところあまり好きではないが、この際、酒の種類はなんでもよかった。父は続けていくつか料理を注文した。私は、特にこれといって食べたいものがあるわけではなかったから、黙って上の空で父の声を聞いた。
乾杯らしいこともしないまま、私はビールをちびちびと飲んだ。お通しはキュウリと魚の和え物で、どんなものだろうかと思いながら食べてみると、なかなかおいしかった。観光客が寄り付かないこういう店の方が、得てして料理はおいしいものなのかもしれない。
店員は、刺身とサラダを皮切りに、次々と料理を運んでくる。明らかに、2人分としては多すぎる分量だ。誰がこんなに食べるというのだ。こんなことなら、父が注文していた時にもっとその内容をしっかり聞いて、やんわり止めるべきだったか。
私の後悔と困惑を知ってか知らずか、父は「ほら。たくさん食え。ここの料理はうまいんだ」と勧めてくるので、曖昧に頷いて適当に料理を何品かつまんだ。
30分ほど経った頃だろうか。私が2杯目として注文した梅ロックを飲んでいると、父が唐突に切り出した。
「お前、こっちに戻ってこないか」
「なんで」私は笑った。「こっちには仕事ないっしょ」
そんなことより、異様な姿に成り果てた兄、昨日話していた「神様」のことの方を知りたい。そう思うのだが、父はこの話題をまだ続けるつもりのようだ。
「俺の口利きで、役所の仕事なら用意できるぞ。お前、今でも契約だか派遣だかなんだろ。大きな声では言えねぇが、俺が頼めば正規の職員に捻じ込むこともできる。こっちで役所勤めする方が生活が安定するんでねぇか。それに」
更に何か言いかけた父を遮って、
「正直、すごくいい話だとは思う。でも……関東に住んで20年も経つと、やっぱりもう、こっちでは暮らせないよ」
そう答えた。役所の正規職員として働くことができるというのは、確かに魅力的な話ではあった。生活だって安定するのは確かだろう。しかし、安定した仕事だけがあればそれで満足して暮らしていけるというものでもない。それに、そういうあからさまなコネで安定を得るというのも気が引ける。
「そうか」とあっさり引き下がった父は、その後、「この先を考えるとこっちにいるのがいいと思うんだが。まだその時ではないということか」と呟くように言った。
「その時、って、何」と問うと、父はそれには答えずに聞き返してきた。
「お前、函館市の人口はどのくらいか、知っているか」
この土地の地理や歴史に関しては小学校でみっちりと習ったし、今でも折りに触れて情報をチェックしている。だから、大体の数値は頭に入っている。
「ん。30万は随分前に割って、今は27万とか?」
「公式には、そうだな」
「公式には、って、どういうこと?」
飲めない酒を随分早いペースで飲んでいるから、既に頭は働かなくなってきているが、それでも、父がまたよくわからないことを言い出そうとしていることはわかった。
「市は嘘をついてるってことだ。本当は、函館の人口は20万もいねぇ。考えてみろ。こんな寂れた町のどこに、30万近くも住んでいると思う?」
「いや……美原とかそっちの方に、たくさん住んでるんじゃないの?」
ベイエリアや実家のある西部地区、そして、この店のある函館駅前地区は時代の移り変わりとともに函館の中心市街地の座を明け渡し、今は郊外の方に多くの人が住んでいるはずだ。そうではないのか。
「違う。どこだって変わらねぇ。この町の人口は世間が思うよりずっと少ねぇ」
父は、強い口調で断言した。
「その話が本当だとして、じゃあなんで市が嘘の人口データを公表してるの? なんでわざわざそんな嘘を? そういうの、よくないでしょうに」
店員に声を掛け、更に追加の梅ロックを注文した後、向き直って問うと、
「それはな。この町の本当の成り立ち、今の姿を、隠すためだ」
父は、答えた。
「お前に教えてやる。この町のことだけでなく、母親のこと、アレ――敬一郎のことも。――全部」
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