第三楽章
六月の終わりは、あっという間にやって来る。
初夏の太陽は西へと傾き、茜色の空気の訪れとともに授業が終わる。生徒たちが散り散りに教室を去っていくのを眺めながら、修一は金城がクラスへとやって来るのを待った。やがて金城がメモ帳を片手に教室に現れると、二人は並んで歩き出し、音楽室のある北校舎を目指した。
「本当に、彼女が言ったようなことが起こると思うか?」
修一は平静を装ってそう尋ねた。金城は嘲るような笑みを浮かべながら、
「思わない」
とあっさり言った。
「だけどさあ、本当にそんなことが起こったら、これほど面白いことはないよ。新聞部としては無視するわけにはいかないね」
二人はやがて、北と南の校舎を繋ぐ渡り廊下に差し掛かった。その時だった。
「ピアノの音だ……」
修一は呟くように言い、金城の方を見る。金城も何も言わずに頷き、上の階にある音楽室の方向を眺めた。修一の耳に届く音には、聞き覚えがあった。別れの曲。ショパンの練習曲――それはつまり、この音楽の演奏者が南沢優であることの証拠だった。
「急ごう」
修一はそう言って、音楽室の方向に駆けだした。二人は間もなく部屋の前へと辿り着いたが、音楽室の扉は前回と異なり、ぴったりと閉じられていた。演奏はまだ続いていたが、中の様子は分からない。
「演奏が終わるまで待とう」
金城は小声でそう言った。
「彼女の話では、曲の終わりと共に消えてしまうんだろう? じっくり鑑賞しながら待とうじゃないか」
修一は何も言わなかった。待っていたら何かが起こるかもしれない。しかし、何かが起こってしまっていいのか。本当に噂通り、消えてしまったらどうするのか。
無論、極めて非科学的で荒唐無稽な話だと修一は理解していた。けれど、彼の記憶の中の南沢優は、淡く儚く、何かの拍子に消えてしまいそうな雰囲気を持っていた。
激情的な旋律、物悲しく穏やかな旋律。そして、音楽の終わり。
二人は急に静かになった音楽室に聞き耳を立てながら、待機を続けた。何かが起こったような物音はしない。沈黙。修一の心に萌した不安感は、時間とともにどんどん大きくなっていった。やがてしびれを切らした修一は、金城に先んじて音楽室の扉を開けた。そして、あっ、と短い悲鳴のような声を上げた。
それは内心、修一が想像していた通りの風景だった。音楽室の中には誰もいなかった。ピアノの前にも、部屋の隅にも、人影はない。そして、開け放たれたガラス窓から風が吹き込んで、ベージュ色のカーテンを棚引かせていた。
金城は青ざめた顔色を浮かべ、開け放たれた窓へと駆け寄った。修一も彼に続いて窓の外を見る。窓の外にベランダは無く、眼下には白いコンクリートの地面が広がっている。
「消えてしまった。彼女が消えてしまったぞ」
金城の声は動揺のせいか、微かに震えていた。
「どういうことだろう。確かについさっきまで、ピアノの音がしていたのに。誰も、音楽室の外に出ていくのを見かけなかったのに」
金城は信じられない、という表情で音楽室の外に向かって駆けだした。修一も呆然としたまま彼の後に続いたが、部屋の外に飛び出した金城は人影とぶつかって、一瞬体勢を崩した。
「危ないじゃないか。前を見ろ前を」
その人影は、数学教師の内村という男だった。修一は金城を助け起こしながら、尋ねる。
「内村先生! さっき廊下で、誰かとすれ違いませんでしたか?」
「なんのこっちゃ」
内村先生は慌て顔の二人を交互に見ながら、困惑顔で返答する。
「すれ違いはしたな。女の子だったが……」
「女の子!」
金城が上ずった声で言う。
「名前は分かりますか、その子の名前」
「ああん? ええと、三年生の南沢君だったと思うが……。君たち、彼女を知っているのかい?」
「そんなバカな」
金城は声を荒げた。
「……そんなわけありません。彼女はついさっきまで、ここでピアノを演奏していたんです。僕たちの目から逃れて帰れるわけ……」
内村先生は、事態を飲み込めない様子で目を白黒させていた。そして、一部始終を眺めてきた修一と金城も、ほとんど同じような状態だった。三人は誰もいなくなった音楽室の前で、ただただ言葉を失って佇んでいた。
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