ある音楽の終わりについて
赤河令
第一楽章
長い廊下を一人歩いていた時、宇方修一はふと立ち止まった。
彼はどこからか、ピアノの音が聞こえてくることに気が付いた。
……別に奇妙なことではない。放課後の校舎を歩いていて、楽器の音が耳に入るなんて不思議なことでも何でもない。
けれどもその旋律は、音楽に大して興味のない修一でさえ、思わず足を止めてしまうような力があった。素人でもハッキリと分かるほど、上手だ。
美しく穏やかな音の連続が、閑散とした放課後の空気の中を流れていく。修一はなんだかそわそわと落ち着かず、人影疎らな廊下をクルリと見回した。
誰が演奏しているのだろうか、と彼は思った。
ピアノの音は、校舎の隅にある音楽室から流れてくるに違いない。気が付けば彼の足は、ごく自然と音楽室の方向へと歩き出していた――これには修一自身も驚いた。抗いがたい力に引っ張られているような感覚。
普段は超能力やオカルト話を一笑に付している修一だが、この時ばかりはある種の、非科学的作用の存在を認めたくなる気分だった。
音楽失の扉は、獲物を誘い込むように少しだけ開いていた。修一はそろそろと首を突っ込んで、部屋の中を見渡した。
一人の生徒が黒いグランドピアノの前に座り、演奏をしているのが見える。それ以外に人の気配は無い。
楽譜立ての陰に隠れて、演奏者の顔は分からない。けれど、ペダルを頻りに踏んでいるスラっとした足元から、その人物が女子生徒であることだけは辛うじて分かった。
曲は穏やかさと激しさを交えながら響き続け、最後に長い余韻を残して終わった。そうして後には、夕方特有の静けさが戻ってくる。
修一は拍手の一つでも送りたい気分を抑えて、そっとその場を離れようと考えた。彼女が自分の存在に気が付く前に。けれどもその決意を行動に移すのには、一テンポばかり遅かった。
ピアノの前の女子生徒が、突然声を掛けてきたのだ。
「どうでしたか?」
修一はぎょっとした。動揺のあまり、危うく前のめりに倒れ込むところだった。
彼女は椅子からフワッと立ち上がり、ピアノの陰から修一の前に姿を現した。彼女は頭だけを音楽室に差し込んで慌てている、極めて間抜けな修一の姿をぼんやりと眺めると、クスクスと笑った。
「別れの曲っていうんですよ。ショパンの書いた練習曲です。知ってますか?」
「……」
切れ長の目、わずかに紅潮した頬、肩まで伸びた髪、いつか見た宗教画のような穏やかな微笑。それは修一にとって、まったく初めて見る顔だった。
修一は体勢を整えると、観念して音楽室の中に足を踏み入れた。彼女と向かい合った。彼女のジトリとした視線が全身を舐めた。修一は何か、気の利いたことを言おうとしたけれど、その瞳に気圧されて声が出ないのだ。
「ああ、ごめんなさい」
先に沈黙を破ったのは彼女だった。
「急に声を掛けてしまって。驚かせてしまいました?」
「いえ、いえ。勝手に覗いてしまって済みません。つい、上手だったので」
「フフ、ありがとうございます」
彼女は少し照れ臭そうに微笑むと、修一の顔を改めて眺めてから、
「宇方修一さん……」
と呟くように言った。
「なんで……僕の名前を?」
「……あなたの顔、廊下の掲示板で見かけたものですから。確か、今度の生徒会の選挙に出てましたよね」
「ああ」
正面玄関に備え付けられた掲示板には、修一の顔と名前が書かれたポスターが張り出されている。生徒会長候補、宇方修一。ポスターの中の彼の顔は、選挙のポスターに似つかわしくない苦笑を浮かべている。
今回の選挙は、修一以外の候補は出ていない。そして修一自身、担任と周囲の生徒に担がれて出馬したに過ぎない。
彼自身はその手の広報活動に微塵も興味がなかったのだが、彼の友人である金城という同級生が余計な世話を焼き始めたのだった。掲示板に貼られているポスターは、金城が妙なやる気を発揮して作成されたものである。
「しかしまあ、よく覚えていますね、あんなもの」
「私、記憶力はいいんです」
彼女はクスリと笑ってから、更に続ける。
「一方的に名前を知っているのも、公平ではないですね。私、南沢優といいます。三年生です」
三年生。自分より一つ学年が上。なるほど見ない顔なわけだ……。
と、南沢優は修一から視線を外し、窓際に向かって歩いて行った。それから、少し物憂げな表情で窓の外を眺めた。ピアノの音が絶えた音楽室は怖い程に静かだった。
「……他には誰もいないんですか?」
修一はなんとはなしにそう尋ねた。ひょっとしたら優のまとっている寂しげな雰囲気がその問いを浮かばせたのかもしれない。
「ええ、そうなんです」
優は修一の方をちらと見て答える。
「この時間、あまり一人でピアノの演奏をしない方がいいのですけれど」
「そうなんですか?」
修一は驚いて聞き返す。
「そうなんです。ご存じでないですか? この音楽室に伝わる、恐ろしい話……」
優は悪戯っぽく笑い、修一は首を横に振る。
「実はこの音楽室、言い伝えのようなものがありましてね。放課後、独り寂しくピアノの演奏をしていると、曲の終わりと共に超常現象的な何かに連れ去られてしまうんだとか」
「はあ」
なるほど、ありがちな話だな──修一は表情こそ変えなかったが、そう思った。
どこの学校にでも一つや二つありそうな、怪談話の類。金城が聞いたら喜ぶだろうな、と少し馬鹿にしたような感情を潜ませて、修一は優の言葉を聞いていた。もちろん優の方だって、真剣に話をしているわけではあるまい――少なくとも修一の目にはそう映った。
「今日は、曲の終わり際にあなたが尋ねてきました。もしかしたら、間一髪だったのかもしれません。あなたが覗き込んでこなかったら……」
「面白い話ですが……」
修一は苦笑を浮かべる。
「ところで、そんな言い伝えを知っていて、あえてこんな時間に一人で演奏を?」
修一は少し捻くれた質問を投げてみた。そして、彼女は再び微笑みを浮かべると、答えた。
「さあ、なぜでしょうね? けれど、もしその話が本当なら、是非とも体験してみたい……そんな風に思いますね」
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