向き合う時(5)

 自己が溶け出して、自分と似たような感情と混じり合う。輪郭がないから、何処までが俺なのか分からない。否、『俺』で良かったんだっけ。『私』だったっけ。『ボク』だったっけ。『自分』だったっけ。

 流されていくと同時に、流していくような感覚。飲み込まれると同時に、飲み込んでいくような感覚。一人きりであって、一人じゃない。風邪を引いた時に見る夢のような、全てがあやふやな感覚。その中で感じるのは一つの想い。


 ――羨ましい。妬ましい。


 自分より優れているものを認められない。奪われてしまった大切なものを奪い返したい。自分は、ボクは、私は、俺は……嫉妬している。

 感情の中で揺蕩う。そもそも自分というものは何なのか。自分という概念はどういうことなのか、徐々にわからなくなっていく中で、異物感を感じた。

 口に入ってきた砂を噛んだ時のような、ポケットにものを入れた時のような、具体的な場所がわからないのに何処かが痒くなっているような。


 ――本当。


 懐かしい声。視界という概念すら忘れていた所に、映し出される光景。運動場。高校。体育祭。


 ――本当、見直した。『好きになれない』っていうのは訂正しても良いかな。


 視界が動いて一人の少女の姿が現れる。彼女は笑顔で、そんなことを言って、校庭にしゃがんでいた。

 声が、聞こえる。頭の中で響く。もう『音』はほとんど聞こえないのに。


 異物感。

 夜の公園。ジャージ姿の少年が両の拳を胸の位置へ持っていって軽く上下に振っている。彼は励ますような笑顔で訴えかけている。


 ――部活が終わったらこの公園で走り込みだ! 体育祭まではまだ時間あるだろ?


 異物感。

 オレンジ色に染まる屋上。長い影が平行線でふたつ伸びている。対峙している少年の目は深く暗く、真っ直ぐ陽光を受けいれる。


 ――俺は明日も明後日もお前に話しかける! 無視されようが敵視されようが!


 異物感。

 昼日中。転がる木の槍と自分自身の膝が映る。視界が動いて、川岸の地面に立つ人物を見上げている。


 ――まだわからなくっても良い。いつか自分のために、自分を危険に晒してでも戦う必要が出てくる日が来る。


 異物感。

 第七控室で金髪の剣士が肩に手を置いてくる。手のひらから伝わる暖かい温もりに少しだけ安心する。


 ――少年、ビビったら負けだぞー。お前もなにか目的があってここにいるんだろ?


 異物感。

 路地裏の一角。首元に突きつけられた長剣の刃。短髪の青年の言葉と眼差しから視界を逸らせない。


 ――お前は『何もない』と言った。だが、『何もない』というのは真実なのか?


 異物感。

 瓦礫の転がる王都。少女が、俺を見て訴える。


 ――例え自分の思うままに出来なかったとしても、自分を見失ったりしない。自分が自分であるために、戦っていたのが、ボクの知っている輝なんだ……!


 そして彼女は、手を差し伸べたんだ。


 ――自分を取り戻してよ、輝!


 異物感だ。溶け込んでいるはずの感情の奔流とは違うもの。嫉妬じゃない何か。どうしてそれがこんなに溢れてくる。どうして『声』が鳴り止まない。煩いくらいに止めどない。流されて、溶け出すことを許してはくれない。


 どうして、『俺』の輪郭が戻ってくる。『ボク』でも『私』でも『自分』でもない。『声』が、『俺』の形を再定義していく。


 幼稚な意地と脆いプライドばかりの俺が……利己主義者(エゴイスト)でしかないこんな平凡で愚かな俺が、かっこ悪く謝ってまで、心を清算して誰かと会いたいと思っている。

 それは確かにフルの言うように卑しくて醜い心かもしれない。都合が良いだけなのかもしれない。だけど。


「ぐ、うう……!」


 麻痺した声帯で声の限りに叫ぶ。言葉にはなっていない。喉が弱弱しく震えているだけだ。それでも……まだだ! 『俺』を繋ぎとめろ!


 そうだ! 俺には嫉妬以外にもこんなにある!


 誰かを想ったことも、誰かと心を通わせたことも、誰かに想いをぶつけられたことも、誰かに教わったことも、誰かを信頼したことも、誰かに助けられたことも、……誰かと過ごしたいと思ったことも、『嫉妬』とは関係ない!


 視界の霧が晴れていく。体の感覚がまた俺に繋ぎ直される。握る武器の冷たさも、鼻をくすぐる前髪の感触も、目の前にいる俺と同じ姿の人間が映る視界も。


「あ、うああ……!」


 俺は嫉妬を否定するあまりそればかりになっていた。付け入る隙を与えないために嫉妬ばかりを見張っていた。だから見えていなかったんだ。俺が手に入れてきた、大切で様々な感情が。

 俺は誰かと比較することでしか存在できない嫉妬心の塊ではない。俺には俺だけの感情がある。『何も無い』のではない。俺を定義するためのものがある。


 自分が、自分であるため――。


『どれだけ逃げる理由を作ってみても、どうにも腑に落ちないんだ。ここで逃げたら、駄目な気がするんだよ。……俺が、俺じゃなくなってしまいそうなんだ』


 ――その、覚悟を!


 口が動く。喉が鳴る。想いを形にするための言葉を、俺は紡ぐ。


「確かに俺を支えていたのは嫉妬だ。……だけど! 俺は嫉妬だけの人間じゃない! 醜くても、汚くても、弱くても、確かに抱いた心がある。それも全部、俺だ。俺なんだ……! 全部含めて、本当の、俺なんだ!」


 顔を上げ、クリアになってきた自分の眼で目の前のフルに焦点を合わせる。今までよりも遥かに明瞭に世界を感じる。空気も、匂いも、俺の存在も!


「ふ……」


 フルは、笑っていた。よく見ると制服の裾からはみ出す彼の腕が透けていた。さっきまであんなにしっかり握りしめられていた彼の両の拳はほどかれて力無く垂れている。


「お前……」


 フルの笑みは、今までの意地の悪い笑みじゃない。柔らかい笑み。目にかかるほど長い前髪が揺れている。その奥で目を細めている。


「良くやった。君は最後まで嫉妬に心を許すことはなかった。……負けだ。醜い感情はここで君の旅立ちを見送っていくとしよう」


 その様子を見て俺はやっと気づいた。俺は槍と小刀を地面に落とし、足早に奴に詰め寄る。そしてまだ透けていないその制服のシャツの襟をつかんだ。まだ身体の感覚が完全ではないのか足がもつれてしまい、襟元をつかんだまま若干寄り掛かるような形になった。

 彼はそんな俺を見下ろす。


「なんだよ……。どうした、君の勝ちだぜ。不満か?」


 彼を見上げる。視線が交差する。

 やはりそうだ。俺の気付きは間違いじゃない。何故ここに在るのか、その理由はわからないけれど。でも目の前にいるこの存在は、……違う。


「お前、フルじゃないだろ」


 奴は一瞬驚いた表情をしてから柔らかく問いかけてきた。


「へえ、根拠は?」


「フルは、俺に化ける時あくまで昔の俺になるんだ。あの頃の俺は、そんなに髪長くねえよ」


 鏡を見るかのように全てが今の俺と同じ。頬の擦り傷までもが一緒だ。

 少しふらついてから脚に力を入れて自力でしっかり立ち、彼の襟を掴む腕をそっと下した。そして今度は俺が拳を握る。


「お前は、俺だ……。俺が『醜い』と罵って無理矢理封じ込めてきた、嫉妬の感情だ。そうだろ?」


 俺の目の前にいる『嫉妬』が透けていく手でその前髪に触れた。「迂闊だった」と漏らしてからもう一度笑って首を横に振った。


「いや、違う。多分、気づいて欲しかったんだろうな。醜いと罵られても、消えていく前にもう一度」


「これから何度だって気づき続けるさ」


 俺は間髪入れずに言った。奴は不思議そうな顔をする。


「見送るだなんて、消えるだなんて寂しいことを言うな。お前は俺だ。どうしようもなく俺だ。いくら他の感情が増えたって、そこに変わりはないんだ。嫉妬は間違いなく俺の感情なんだ」


 彼は目を大きくして、涙を浮かべていた。だが、俺の目頭も少しだけ熱い。俺たちは鏡のようにきっと同じになっている。


「何度も殺した。悪かった。もう二度と嫉妬(おまえ)を捨てていかない。嫉妬(おまえ)は俺の、大切な心だ。……消えないでくれ!」


 震えながら『嫉妬』は涙をこぼして大袈裟に笑った。


「ふふっ。そうだ。俺はその言葉が聞きたかったんだ。『久喜輝の嫉妬』は認めて欲しかったから、捨てないで欲しかったから、居場所が欲しかったから」


 俺は右の拳を突き出す。ほぼ同時に向かいから彼の透けた右腕が突き出された。拳と透けた腕が重なった瞬間に自分の中に『嫉妬』が戻ってきた感覚がした。俺自身が、本当の俺に戻ったような感覚。

 汚いところもあるだろう。綺麗なところもあるだろう。それを全てひっくるめて、俺だ。


 飲み込まれはしない。だけど、俺は嫉妬を受け入れる。自分が自分であるために必要な俺の一部なんだ。


「また、世話になる」


「ああ……宜しくな」


 突然、大きなガラスが割れたような爆音が響いた。驚いた俺は目をつむる。

 音が止むと同時に全身を包んでいた空気がわずかに変容した。それはちょうど建物から屋外へ出た時の感覚と似ていた。


「……『心鏡』を破られたのは初めてだ」


 低い男の声だ。俺は目を開いて声の方を向く。

 遺跡のようなくすんだ景色に変わりはない。ただ一つ。視界にはさっきまでいなかった背の高い男が現れていた。魔法使い風の黒いローブを着ている。しかしその手には杖ではなく槍があった。俺は彼の威容に覚えがある。それにこの遺跡の由来を考えるならば多分彼は……。


「イッソス……か?」


 当てずっぽうな俺の言葉に男は微笑んだ。しかし首を横に振る。


「残念、私は『月の王』。だがこの姿は正真正銘イッソスのもので間違いない」


 確か王都で読んだ手記の内容からしてイッソスはローマの人だったか。見た目の特徴である顔の彫りの深さからもそれは感じられる。『月の王』だろうが『フル』だろうが変わらない。いつの時代も奴は人の姿を乗っ取って生きてるんだ。

 彼は続ける。


「先ほどの魔法……『心鏡』は対象の心を具現化するものだ。もちろん私が扱えば『嫉妬』の感情を映し出す」


 対峙したのが俺自身の嫉妬であったこと。鏡合わせのような姿……いや、姿だけじゃない。頬の傷も、もしかしたら腹部への打撃も。……全てが鏡合わせだったんだ。


「……ああ。苦戦したよ」


 だけど、おかげで得たものもある。今の俺なら嫉妬に溺れはしない。封じ込めることもしない。そう易易と体を奪われることはないと断言できる。

 慎重に数歩後ずさりグングニルと小刀を拾って握り直す。こいつが不審な動きをしたらその瞬間に踏み込んで一撃お見舞いしてやる。

 だが、対する彼は俺の送る敵意など気にもしない様子であった。


「そんな目で見るな」


 鼻で笑うようにして彼は言った。ついで「合格だ」とも。


「『心鏡』の解除条件は二つ。嫉妬を認めることと嫉妬に溺れないこと。認めるだけでは溺れてしまう。溺れないだけでは嫉妬と対話は出来まい。いや、簡単なように見えて中々難しい事でね。そもそも『月の首飾り』……ああ、『銀のペンダント』か。それに選ばれる者は悉く嫉妬に呪われている。君は上手く折り合いを付けられたみたいだな」


 俺は槍を握る力を緩めた。彼から悪意も戦意も感じない。それどころかこの異様なほど落ち着いた雰囲気。戦うにしても、『フル』だとしても違和感を覚える。


「……お前は本当にあの『フル』か?」


「ふむ。君は『フル』と呼ぶのか……。君がそう名付けたようにも見えぬから、少なくとも二度は代が変わっているようだな」


 彼は顎に手を当てた。考える素振りを見せながら遠くを見ている。ややオーバー気味なボディランゲージが欧米人風の見た目に似合う。


「それを説明するには君が我々のシステムについて何処まで知っているかが肝要ではあるが……。そうだな、一つ言えるのは私は君の知っている『フル』ではないという事」


 彼は右手の槍から手を放す。奴の槍は銀色の光となり空中に溶け出してしまう。


「もう一つ言えるのはそう。私が君に対して力を提供するという事だ」


「どういうことだ?」


「私は月の王。嫉妬の者。『心鏡』を破ったのなら信頼できる。嫉妬を蔑ろにしないと信じられる。ならばその心に応えよう」


 月の王は俺に背を向ける。「付いてこい」と言って石舞台を進み、祭壇らしきもののある方へ階段を上っていった。


「あ、ちょ……」


 僅かに呆けていた俺も慌ててその後を追いかける。階段を上りきり祭壇らしきものへたどりつく。俺はすでに待ち構えていた月の王の右隣に並んだ。

 祭壇は手前にある大きな机のようなものと、その奥に安置されたいくつかの石像で成っていた。石像はかなり写実的に作られている。塗料が落ちた石材の乳白色さえ見えなければマネキンを見る時のような気味の悪い気分になれただろう。

 眺めていると月の王は俺に視線を送ってきた。


「奥の像はどうでもいい。『銀の首飾り』を出してここへ乗せてくれ」


 彼が言いながら指差したのは手前の大きな机らしきものだった。

 石で組まれた台座の上に鈍いオレンジ色の金属で出来た板があり、高さは丁度腰のあたり。板の大きさは学校の机四つ分ほどで四隅に手のひらサイズの燭台がはめ込まれている。もちろん魔法か何かで灯が点されていて、板の中央には円が刻まれている。

 ここに置けばいいのか。

 俺は懐から出したペンダントを、そのチェーンがはみ出ないように円の内にそっと置いた。

 するとペンダントは光り、隣にいる月の王も淡い銀色を帯びつつ、その足や指先などの末端からペンダントに吸い込まれていくようにして消えていく。

 ペンダントに精霊が再び宿る。……厳密に言えばこの『月の王』と前の『フル』は別物らしいから再びというのはおかしいのか。


「……全く、理解が追い付かないよ」


 目の前で起こっていることについていけずに呟いてしまう。そんな俺を見て月の王は微笑う。


「大丈夫だ。疑問があるなら答えてあげよう。不満があるなら聞いてあげよう。でもそれには少々時間がかかる」


 ペンダントに吸い込まれていきながら月の王は言った。


「今、君は急いでいるのだろう。だとすれば君は話を聞くより走るべきだ」


 直感的に心が読まれてることを察した。だけど、確かに彼が言う通りそれも今はどうでもいいことかもしれない。

 今の俺にとって重要なのは、もっと別のことだ。


「……うん。そうだな。力を貸してくれてありがとう」


 銀色の光となって徐々に消えていく彼に礼を述べた。

 消えていく間際、彼は笑顔を真顔に引き戻して、それから真摯な目で俺を見る。


「嫉妬を拒絶する限り、君と私は敵だ。嫉妬に流される限り、君は私と同一だ。そして……嫉妬を受け入れてくれる限り、君と私は盟友だ」


 その声を最後に光は止み、燭台の火は消え、ついで神殿内の明かりも全て無くなった。

 暗闇にとり残された俺は一瞬焦ったものの、すぐに落ち着いた。理由は単純。俺の目の前でペンダントが淡い銀色に輝き始めたからだ。


 いつか、俺の胸元で輝いていた時のように。

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