向き合う時(4)

 華奢な肩、印象的な目、綺麗な口元。彼女は笑っている。何度見せてくれたことがあっただろうか。何度俺に向けてくれたことがあっただろうか。その表情は。


「にい、や……」


 俺には手が届かなかった。彼女の想いの矛先は全て『藤谷カズト』に向けられていた。抑えきれるものではない。記憶が舞い戻る。劣等感と苦い後悔が付き纏う記憶が。


「ねえ、久喜君」


「やめろ……! その姿で喋るな……!」


 笑顔の新山さんが近づいてくる。一歩、一歩。小さい身体でも毅然とした足取りは俺の記憶にあるそのままだ。距離を取りたくても体が上手く動かない。思考が上手く回らない。彼女の笑顔に見とれてしまう。

 偽りだとわかっている。こいつはフルだ。俺の脳から記憶を抜いて再現しているだけだ。本物の新山さんじゃない。だけど。

 一秒でも長くその笑顔を見ていたい。数えるほどしか見たことのないそれを。俺に向けられることがなくなった柔らかい笑顔を。


「溺れてしまうのも、幸せだろ?」


 新山さんはブラウスのボタンを一つ外して俺に寄りかかってきた。軽い。柔らかなその感触。俺の口だけが酸欠の金魚のように無為に開閉する。声が、出ない。


「私が、君の居場所になってあげようか」


 俺の欲しかった言葉が新山さんの口から出てきている。恋慕、劣等感、憎しみ、後悔、罪悪感、怒り、そして、その根幹にあるもの。『嫉妬』――。


「――は、離れろっ」


 新山さんを、……違う! フルを! フルを振りほどいて俺は後ずさる。新山さんの姿の、白い首もとに目が行く。行ってしまう。

 フルは笑顔で首を傾げる。


「面白い程囚われてるね、久喜君。……そうだ。ねえ。君が何でミアを大切に想っているのか。その理由を教えてあげようか」


「うるせえ! 黙れ!」


 新山さんの声で、聞きたく無いのに耳に入ってくる。音が、姿が、無理やり言葉を押し込んでくる。

 フルが笑う。新山さんの声で笑う。


「ふふ……。ミアは似てるからだよね。雰囲気が、私に。君にとってのミアは、単なる私の代わりだろ?」


「違う! ミアは、大切な!」


「『都合の良いヒロイン』ってところかな?」


「なっ……!」


 息が止まった。新山さんの姿は胸元をはだけたまま、直立不動で俺を見る。視線に耐えきれず更に後ずさる。歌うように彼女は言う。


「君が名前を与えて、君が守って、君を慕って、君を守って、そして君を裏切ることは無い」


「……う、る。さい……」


 饒舌な新山さんの顔。言い返す言葉が上手く見つからない。

 俺は心の何処かでミアの事をそんな風に考えていたのかもしれない。だから反論出来ないのか。……こんな、醜い心。受け入れるな。切り捨てろ。

 これを認めてしまったら、俺がここにいる意味が……。ミアともう一度会って話したいと思ったからこそ手にした意志が、崩れてしまう。


「君が私に求めていたものを、君はミアに求めようとしているだけだろう?」


 フルが自らの首元に手をやって、その襟を掴んだ。

 ……俺があの時彼女を吊るし上げるために掴んだ、その襟を。


「私のことを傷つけておいて、随分都合がいいよね……。……いや、ああ、そうか。君は結局、ミアも傷つけてしまったんだよね」


「だから、それを取り戻すために……俺は……」


 細い声が喉から漏れる。自信のない不確かな声。足元がぐらつく。軽いめまいを感じる。


「きっと同じだよ。どうせ君は結局、ミアに謝ることは出来ない。私に対してそうだったように。……それに、ミアには狛江ソラも、エレックもいる。君はもう必要ない」


 フルが自らの襟元を掴んだまま、俺を睨む。


「私が、君ではなく、『彼』を必要としたように」


「う、る……さ……」


「……まあ、いいよ。でも、本当は自分でもわかってるだろ? ……君がどんなに想っても――」


 フルが襟から手を離す。同時に、再びその姿が銀色の光に包まれる。その姿は新山さんの体躯より、大きく。


「――届かないこと。叶わないこと――」


 予想出来た。フルは奴に成る気だ。俺の嫌いな。大っ嫌いな!

 銀色の光が淡くなるにつれ中が見えてくる。比例するように俺の中でも沸々と抑えの効かない感情が暴れ始めた。


「――いつだってお前の大切な人には、お前以上に大切な人間がいるんだもんな、輝」


「……『藤谷カズト』……!」


 モデルの様な長身、容姿。俺を救い出した男。俺を叩き落とした男。皆に好かれて、それでも嫌味は無くて、嫉妬に狂った俺を最後まで心配してきた男。

 フルは『藤谷カズト』に姿を変えた。

 ああ、目障りだ。と、ごく自然に思った。


「……叩き潰す」


 柄を握る両手に力が入る。俺は即座に地面を蹴り出した。真っ直ぐ数歩踏み込んで近づき、グングニルを振りかぶり、乱暴に振り下ろす。藤谷カズトは半身になって器用に避けてくる。そうだ。こいつには剣道の心得があった。雑な剣筋では捉えられない。だけど……。


「それがどうした!」


 俺はこの世界で血と泥に塗れて戦った。その経験が力を与えてくれた。負けない。負けるわけにはいかない。今の俺なら、藤谷カズトにも勝つことができる!

 振り下ろしたグングニルを返して振り抜く。続けて小刀での刺突。どちらもかわされるが、俺には三つ目の攻撃がある。


「喰らえ!」


 右脚を跳ね上げて腰を入れ、体重を乗せる。……蹴りだ。

 真っ直ぐに突き進む前蹴りが藤谷カズトの鳩尾へと滑り込んでいく。ブーツが沈み込んでいき、確かな手応えとともに藤谷カズトを突き飛ばす。


「ぐうっ……」


 藤谷カズトの鈍い悲鳴。血がのぼった頭を快感が駆け巡る。肺を潰すような閉塞感が晴れる。俺はグングニルの柄を短く持ち、振りかぶりながら藤谷カズトへ詰め寄っていく。

 体勢を立て直す暇は与えない。このまま、一気に――。


「――焦ったな、輝」


 予想に反して藤谷カズトは退くのではなく前に出てきた。そして、振りかぶっていたグングニルの柄が掴まれた。そのまま引っ張られ俺の体が引きつけられる。彼は腰を落として拳を構えた。


「『あの時』の一撃だ」


 気をためるかのような呼吸とともに、低い位置から滑り込むような軌跡。這うような低さで殆ど見えないその拳が俺の腹部へ入っていく。


「ぐあっ」


 勢いで一メートル程後退してしまう。追いかけるようにして、熱くて重い鉛玉が通り抜けたような痛みが走る。腰から力が抜けて、武器を取り落した俺は石舞台のひやりとした床に手をついた。

 腹に手を当てた。鈍い吐き気と気持ち悪い冷や汗が出てくる。バットで殴られたのかと思うほどの重い一撃。


「うっ……ええ」


 藤谷カズトは『あの時の一撃』と言った。新山さんに手をかけた後、教室に駆けつけた藤谷カズトが俺に放った突きを思い出す。あの時は捌くことが出来たが、当たっていたら今の俺のように跪いてしまったのだろう。

 ……腰を落とした必殺の一撃。空手の正拳突きだ。


「……いっつ……。くそ……。馬鹿か……俺は……」


 熱を持つ腹部の痛みとは反対に、頭が冷めていく。俺は何を勘違いしているんだ。目の前にいるのは藤谷カズトじゃない。フルだ。


「……空手まで出来るなんてな、驚いた」


「輝の記憶を参考にしてもらってるだけだぜ」


「話し方まで似せるなんて、本当に最悪だ」


 俺は武器を拾い、震える脚に活を入れて立ち上がる。藤谷カズトの姿をしたフルと互いに向き合う。やる気が無いのかフルは槍を作ろうとはしない。銀色の風もまとわずに藤谷カズトの目で俺を見る。


「さて。良い具合に思い出してきたんじゃないのか? ……嫉妬を、さ」


「あ……。……くそ……!」


 やられた。簡単に囚われた。新山さんになったのも藤谷カズトになったのも奴の作戦だ。俺はフルの手のひらの上で転がされてる。弄ばれている。

 でも、だとしたら何かがおかしい。


「どういうつもりだ? 今、俺は嫉妬に我を失いかけた。それなのに何故俺の身体に干渉してこない」


 不意にフルは口元を緩めた。何故、そんなに悲しそうな目をするんだ。


「友達を守る為にリンチされ。新山ヒカリは『俺』に想いを向けたままで、お前の方を向きやしない。終いには新山ヒカリに頼まれたその『俺』によって戸上から解放される始末」


 俺はだらしなく武器を持ったまま、フルの前で立ち尽くした。


「自棄になって新山ヒカリを襲い。それを邪魔した『俺』を倒し。それが知れて今度はちゃちな悪戯の標的だ」


 そうだ。そんな事もあった。今だって元の世界に戻れば、学校に行けば、傷みに傷みきった俺の机がある。冷え切って薄ら寒い居場所がある。


「それでもお前は壊れなかった。決して特別強い心の持ち主でも無い。凡庸も凡庸。幾らでも替えの効く人間。そんな人間が、そこまで追い詰められても壊れなかった。どうしてだ?」


 フルはまたもや銀色の光に包まれる。数秒後にはその姿は制服姿の俺に戻っていた。


「どうして手を差し伸べる藤谷カズトに抗い続けられた? どうして拒絶されても逃げずに戦い続けられた? 仲間も居ない。力も無い。そんなお前が! どうして! ……もう、わかるだろ! 分かっているんだろ!」


 制服姿の俺は語気を荒げて叫ぶように語る。俺の目を見て、訴えるように。


「――『嫉妬』だろ! お前を支えていたのは!」


 もう俺にはフルの言葉を聞き流す事は出来なくなっていた。


 わかってるよ。わかってるんだ。ずっと前からわかっていたんだ。俺の立脚点はそこに有る。嫉妬があったから俺はここにいる。

 嫉妬があったから俺は藤谷カズトに対して意地になった。狛江ソラの言葉と反対の事をしようとした。

 元の世界に戻る理由だって藤谷カズトへの意地だ。紐解いていけば、俺の行動の原点は全て嫉妬(そこ)だ。


 ああ。俺がそんな風に考えていることなんて奴にはお見通しだろう。


「……その、通りだ。フル。いつだって誰かと自分を比べては劣等感に苛まれた。そして、不相応に高いプライドを保つために反発してきた」


 フルは俺を見極めるかのような視線を送ってくる。彼の手は固く拳が握られていて、その必死な姿を見ると場違いに可笑しく思う。お前の勝ちだよ。何でそんなに必死になってるんだよ。


「藤谷カズトが正しいとか、狛江ソラが間違ってるとか、本当は、俺にはそんなのどうでも良かったんだ。ただ俺が気に食わないから反発した。それはやっぱり、平凡で凡庸な『持たざる者』ゆえの嫉妬が根底にあった」


 声を発しながら整理していく。今言ってることの結論が何処にたどり着くのか、自分でさえもわからない。だけど続ける。目の前にいる、自分の姿をした者を前にして逃げるわけにはいかないと思った。

 ……自分と向き合うことをサボってきた、ツケを払う時なのかもしれない。


「そこに自発的な俺はいなかった。ずっと受け身だった。そう……最初から、俺を支えていたのは『嫉妬』だ。俺はそれを……『認める』よ」


 言葉にした瞬間、体中を電気のようなものが走った。


「ぐっ……!」


 唐突に頭がぼうっとしてきた。視界も悪くなり、たかだか三メートルやそこらしか離れていないはずのフルの姿がおぼろげになる。体の感覚も薄まっていく。すでに指先の触覚は全く機能していない。ついでカビ臭いすえた匂いも松明の火がはぜる音も遠くなる。

 どうやら嫉妬に体を奪われる条件は『言葉にすること』だったみたいだ。


 このまま乗っ取られるのか、俺は。……必然だったのかもな。元より俺には嫉妬以外に何もなかったんだ、何も。精霊とやらを従えるなんて、そんなことができる器ではなかった。

 きっとここでフルと対峙せずにヒュルーに向かっていったとして、無事にミアたちの元へたどり着いたとしても結果は変わらなかったと思う。

 自分自身にすら向き合うことの出来なかった人間が、誰かと向き合えるもんか。


「……あ……」


 力が抜けていく。体表の感覚が引き伸ばされていく。引き伸ばされて薄まっていく自身の輪郭を感じる。自分が溶け出して消えていくのが分かる。でも、それも良いか。俺には何も無いんだ。フルに身体を委ねて、フルとひとつになろう。


 必死に足掻いてみたけど、ここが『平凡で格好悪い人間』の限界だよ。


「さ、ごに……。話し……かった、な……」


 かすれる声。いよいよ暗くなる景色。必死に俺は思い出そうとする。ミアの笑顔を、最期の景色として。


 最期に、……。

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