そうして彼は、自分のために(3)

 藤谷に殴られた腹部に鈍痛が残っていた。肺の方の鋭い痛みは無くなっていた。額の打撲は腫れが引いた。肘は痛くない。

 ……心は空っぽだった。

 いつものように朝の細々とした準備を終えて学校へ向かう。しかし自分の教室の階についた辺りからいつもとは違う雰囲気を感じ始めた。

 明らかに生徒たちが俺の姿を見て表情を変え、こそこそと話している。


 教室のドアに手をかける頃にはこそこそという控え目な擬音ではなく、立派な騒々しさへと変わっていた。


 鋭利な刃物のような笑い声。鈍重な槌のような話し声。空の心へ踏み込むそれらを断ち切るように教室へと入った。


「は……」


 吐息がもれた。胃を直接掴まれたように無理矢理吐き気が上ってくる。


 俺の机は落書きにまみれ、引き出しからはゴミがはみ出していた。


 クラスの奴らは何事もないいつもの朝のまま。ポツンと一ヶ所場違いに傷んだ俺の机が置いてある。

 ――地獄だろうな。

 昨日の石田の言葉がすぐによみがえってきた。

 ある程度予想はしていた。もっと酷いことが起こることも少し考えていた。だけど予想と現実は違う。重みが全然違う。泣きそうになる程の悲しみの後、沸き上がってきたのは憤りだった。

 無言で自分の席まで行く。視線が集まるのを感じた。

 影で笑ってるんだろ? もっと面白くしてやるよ。

 俺は机を掴んで思い切り床に引き倒した。小さな雷のような、何かが割れる音が思ったよりも大きく教室に響く。近くの数人が悲鳴を上げた。遠くにいる奴らも話すのをやめて沈黙する。

 俺は今度は椅子を掴んだ。思いっ切り振り上げて――女子の甲高い叫び声があがる――さっき引き倒した机に叩きつける。スチール製の椅子の脚が曲がった。足りない。

 俺は何度も繰り返し椅子を振り上げては振り下ろす。次第に椅子は変形し、座の部分の木の板が割れたところでぐちゃぐちゃになった椅子を放り投げる。


「はあ、はあ」


 途中から必死になりすぎて周りが見えなかった。既にクラスに悲鳴を上げるものはなく、ただ俺から距離をおいて息を飲む。

 笑えよ。ほら、早く。

 俺は歯をくいしばり、教室を飛び出した。

 走り出す。俺の居場所へ。俺の拠り所へ。



 今日も朝は早かった。部活の朝練があるからだ。今日の朝は場所が無くて体育館の一角でちょっとした筋トレしか出来なかった。まあ、一年生だし、仕方ない。

 ユウスケが体育館の逆サイドにあるバスケットコートから楽しそうに手を振ってくる。俺も苦笑しながら小さく手を振り返した。

 ユウスケはその返事のように軽くレイアップでシュートを決めた。さすがバスケ部。簡単そうに決める。


「よーし。そろそろ解散だな。一年は道具片付けとけよー!」


 戸上先輩がうちの部に号令を出す。俺を含め数人の一年で談笑しながら道具を片す。

 片付けを終え、皆はさっさと着替えるらしいので更衣室へ。俺は喉が渇いていたので体育館前の水道へ一人で向かった。

 冷たい水で喉を潤し、汗の流れる顔を洗う。気持ちいい。


「あ」


 タオルを忘れた。顔をびしょ濡れにしたまま更衣室まで戻るしかないか。


「……ほら」


 目の前に白地に水色の水玉模様のタオルが差し出された。ありがたく受け取って水気をとり目を開くと、新山さんが立っていた。


「ありがとう新山さん。助かるよ」


「君はそそっかしいからね……」


 あきれる新山さん。口元が緩んでいた。俺も笑顔になってしまう。


「何、笑ってるの?」


「え、あ、いや……」


 何とか誤魔化さないと。新山さんの笑顔を見て嬉しくなったからなんて言えるはずもない。

 慌てる俺の視界に、グラウンドでサッカー部と一緒にボールを追いかけるカズトの姿が見えた。マネージャーと並んでメガホンを握る山吹さんも見つけた。


「あれ、藤谷ってサッカー部入ったの?」


「話そらさない……。カズトくんは練習試合の助っ人だろ」


「ああ、そっか……」


 藤谷と山吹さんは頼まれてよく二人でうちの学校の部活に喝を入れにいく。藤谷は技術指導。山吹さんは戦術やトレーニングメニューの指導だ。


「すごいよなあ。俺には……出来ないよ」


「こら」


 背伸びした新山さんにぺちんと額を叩かれた。柔らかい指先の感触に、撫でられたかのような錯覚を覚える。


「劣等感感じたらだめだよ? 君は君のやり方でちゃんとやればいいだけ」


「うん。……ありがとう」


 怒られてしまった。そうだ。自分なりにやっていけばいい。気負う必要なんてないんだった。


「あー、おはよー!」


 間延びした声。登校してきた前田さんが挨拶をしてきたんだ。新山さんも俺もそれぞれ朝の挨拶を返す。


「前田さんは、ユウスケかな? もう少しで練習終わると思うよ」


 そう言うと前田さんは少し顔を赤らめて笑った。

 ユウスケと前田さんはつい最近付き合い始めたばかりだ。近くにいると幸せオーラにあてられそうになる。


「わかったー。ありがとうー」


 ふんわりとお礼を言い、去る刹那に前田さんはとんでもない発言を残していった。


「二人も付き合えばいいのにー。じゃああとでねー」


 発つ鳥が後を濁しに濁して行った。

 新山さんの固まった表情が真っ赤になっていく。


「私、今日は先に教室行くよ」


 ぎこちない歩き方で歩き始めてしまった。


「ちょ、タオルは?」


「後で、返して」


 そう言って行ってしまった。後ろ姿でも最後まで耳が真っ赤だった。

 水玉タオルを握って立ち尽くしていると「青春だな」と笑う声。振り向いた先にいる声の主は冴島先生。からかわれたようで腹がたった俺は言い返す。


「先生って思ったより『熱血教師』ですよね」


 熱血教師のところに嫌味なアクセントを入れたつもりだったが、冴島先生は満更でも無さそうだった。


「揶揄したのだろうが悪くない響きだ。とにかく。皆が楽しそうなのが一番いい。それはそうと久喜、早く着替えないと遅刻するぞ」


「え、あ!」


 校舎に貼りついている大きな時計を見るといつの間にやら授業開始まで後十分程になっていた。

 俺は新山さんのタオルを片手に更衣室まで駆け出す。

 青い空の太陽が眩しかった。ずっと走れるような気がした。



 最初に目に入ってきたのは赤い景色だ。

 スクールバッグを枕に仰向けになっていた俺は、屋上の荒いコンクリートから上体を起こして伸びをする。立ち上がる。

 制服についた埃を払い手すりの方へと歩んで行く。

 嫌味な夢を見た。幸せな夢というのは、見たら不幸な気持ちになる。


 手すりまでたどりつくと、泣きたくなるような絶景だった。


 オレンジ色の夕陽に照らされて街の家々は暖かな光を反射する。あの家々の一つずつにそれぞれが元々持っている光もあるんだろう。眼に染みるそれに俺はわずかに下を向き目を逸らす。

 俺は、学校の屋上の手すりに寄りかかり、夕焼けの街を見下ろしていた。


「痛え……」


 腹に鈍い痛みを感じる。寝起きで、頭がしっかり働かない。

 それでも家に帰らずこの場所にいるのは、『藤谷カズト』がここに来ると思っているからだ。


「……俺は、自分が一番大切だ。『自分のため』が、一番なんだ」


 噛み締めるように呟いて、もう一度遠くを見渡した。


 ようやく分かった。俺は『誰かのため』と自分に言い聞かせ続けてきた。でもそれは違う。本当は『自分のため』だった。

 俺の価値を求めて、俺の居場所を求めて、俺の存在意義を求めて――。


「戸上も、とんだ人選ミスだ」


 ――そんな風に考えていた俺が掲げていた『誰かのため』なんて、嘘でしか無い。真実は、『自分のため』。

 そして、俺はそれである種満たされていた。それを壊したのが、『誰かのため』に行動した人間。それは、藤谷カズトであり、新山ヒカリであり、山吹桜華であり……。


「『誰かのため』なんて、俺は認めない」


 呟いてから、再び夕景に目を向ける。遠くの空をカラスが飛んでいる。夕陽に黒い羽を照らされても恥じることなく飛んでいる。


 教室に居場所の無かった俺は屋上へ逃げてきた。そして屋上の物陰に身を潜め、気づいたら寝てしまっていた。やっぱりまだ、寝不足気味だったのだろう。

 屋上の扉が開く重い音がした。


「ここにいたのか」


 振り返った俺は手すりに背を預けた。声の主は見なくてもわかっていた。そう、藤谷カズトだ。奴は一歩一歩を踏みしめるようにして歩いてくる。


「何か、用?」


 心のどこかで待っていたのに、俺はそう訊くと、藤谷は足を止めた。


「クラスの皆には言って聞かせた。俺の意識が戻らなくて少し間に合わなかったけど、もう皆あんな事はしない」


 意識が戻らなくて……ってことは、昨日からずっと気絶してたのか。良い気味だ。

 それに、後からいくら言い聞かせたところで。


「関係ないよ。終わらない。陰で始まるだけだ。それに俺は、これからはお前らを無視していくつもりだよ」


「……もう」


「何だ?」


「もう、あの頃には戻れないのか? 体育祭の頃には」


 藤谷のその言葉は問いではなかった。願いだった。

 その願いは、さっきまで見ていた俺の夢の残滓と重なってしまう。まるでそれは願いが夢と同じもので、どちらも叶わないものであると示すようだ。


「言わなくても、わかるだろ?」


 静かに言った。

 不思議と落ち着いていた。昨日感じた激しい感情はない。体の芯に重なるように一体化した静かな感情があるだけだ。


「学校には、これからも来てくれるか」


 藤谷が言う。恐る恐る、という表現がしっくりくる様子で。

 俺はうなずいた。うなずく俺を見て藤谷はうれしそうな顔になる。俺の冷たい怒りは未だに腹の底で揺れている。


「明日も明後日も、休まない。……俺も意地がある。お前には、負けない」


 藤谷は嬉しそうな表情を悲しそうなものへと変えてゆく。


「……何で、こうなっちまったんだよ……!」


「……どんなつもりで、お前は戸上を倒した?」


 訊くと真っ直ぐに顔を上げて藤谷は答える。


「俺は輝の、ユウスケの、前田の、新山の……。……友達の為に動いた」


 俺は笑みをこぼした。あまり誉められたタイミングでの笑いでは無かったように思う。それでも止まらなかった。止める気もなかった。

 友達のため……『誰かのため』、か。でもそれはきっと、俺が抱いた『誰かのため』とは違う。


「……もしかしたら、戸上は分かってたのかもな……」


 藤谷には聞こえないよう小さく呟く。屋上を強い風が凪いだ。言葉は流されてゆく。

 俺の言う『誰かのため』は嘘だって、戸上はどこかで気づいてたのかも知れない。だからこそ、俺を試したのだろうか。

 ……今更、確認しようもないことだ。


「お前のその『誰かのため』で、俺は救われなかった」


「輝、それは……!」


「事実だ」


 俺が今ようやく確信した『自分のため』という信仰と、藤谷が信じ続ける『誰かのため』という信仰の溝は深いと感じた。きっと此方と彼方は相容れないのだろう。


「もう行ってくれないか? 俺はもう少しここにいたい。……明日からはお前も敵だ」


「それは違う!」


 藤谷が叫ぶ。


「俺は明日も明後日もお前に話しかける! 無視されようが敵視されようが!」


 お前が認めてくれるまで、と付け足す。オレンジに反射する藤谷の目は深く暗く、真っ直ぐ陽光を受けいれる。

 彼方の岸から呼びかける藤谷の悲痛な声。彼は彼の信じるものの為に橋を架ける努力を惜しむことはないだろう。だが俺は、例え橋を架けようものなら容赦なく崩しにかかるだろう。

 俺は俺の信じるものを信じ続けたいから。彼を認めたくないから。もっと率直にいうのなら、俺は彼を認めるのが悔しいんだ。

 俺の欲しいものを全て持っていて、それに対して拗ねる俺にも手を差し伸べる藤谷を認めたくない。

 子供な俺の、幼稚な抵抗。

 だけれど、幼稚だから、劣っているからと押し潰されてしまうのはやっぱり気にくわない。正論ではない。正義とは程遠い。ただの意地。


「……好きにしろ」


 視線に耐えきれず、俺は藤谷に背を向けて手すりに寄りかかり、橙の町並みを見下ろす。

 しばらくすると屋上のドアが閉まる重い音が響いた。藤谷が帰ったんだろう。


 ……藤谷の太陽の様な視線を見続けることは出来なかった。眩しさの前に、無様に平伏すしかなかった。

 それなのに、藤谷たちの『誰かのため』という優しさを無条件で受け入れることは俺の意地が許さない。俺が許せるのは、『自分のため』という想いだけ。


 夕陽に目が眩み、俺は手すりを掴んで二本の足でしゃんと立った。俯くと、二本の足から広がるように延びる黒い影が見えて、そこに言い様のない安堵を覚える。

 俺には太陽は眩しすぎて、まともに見れるのは影だけだ。



 そして夕焼けの光は、この異世界においても同じだった。もちろん影も、同じだった。

 湖の街、ハリアが徐々に近づいてくる。馬車は揺れ、俺は目を細めて赤と黒のコントラストを眺めている。

 ……何のことはない。よくある話だ。意地になってしまった男のくだらない話だ。だけど、俺はあの時に気づいたんだ。

 自分のため。それこそが、俺の信念足り得るものだと。

 ミアも、エレックも、一樹もソラたちも、今頃は戦っているのだろうが……全て、俺とは関係のないことだ。

 俺には、俺が『自分のため』として行ってきたことを否定することは出来ない。それを否定するのであれば、それはもう、藤谷カズトと同じく、敵だ。


「これから、どうしようか……。……あ」


 この先のことを考えてぼんやりと思い出す。

 カイルの死体を探して、アクセサリーを奪っておけばよかった。彼のアクセサリーを入手すれば、元の世界に帰れたのかもしれないのに。でも、もう三日以上経っている。後の祭りか。


 これからどうしようか。全然、気力が湧いてこない。

 理由はわかりきっている。だけど、少し休みたいと思っている。


 夕日と、地面に落ちる影だけは、変わらない。

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