そうして彼は、自分のために(2)
急ぎ足で教室へ向かう。リノリウムの床が上履きに叩かれてリズムよく鳴る。
思ったより時間を食った。あそこまでハッキリぶつかってくる先生だとは思っていなかった。今までだって、言外に濁すくらいのものだったのに、どうして急に。
……嫌な予感がする。早く、屋上へ。俺の存在価値のあるところへ。
置いといたスクールバッグを回収するべく自分の教室の戸をスライドさせる。
それに、ユウスケにメールも送るのも忘れちゃいけないな――。
「――あ」
教室には、新山さんが一人で、俺の席の前で立っていた。ドアの音に気づいてか、新山さんが俺を見る。
俺は彼女の顔を見ないように無視して荷物のある俺の席へ近づいていく。だが、途中で新山さんに遮られた。
「退けよ」
声をかけるも動かない。苛々する。また心の内で熱湯の入った水風船が膨らみ始める。半解凍状態の『悪い気持ち』が徐々にとけ始めて露になってくる。
「聞いて」
「明日聞くから。退け」
こっちは急いでるんだ。戸上に俺が逃げたと思われたら今までの苦労が。『誰かのため』に耐えるという、俺の価値がなくなってしまう。
「……急ぐ必要無いよ」
新山さんは俺の心を読んだかのように呟いた。
「……どういうことだ?」
「聞いて」
「どういうことだって訊いてンだろ!」
俺の右側にあった机を蹴飛ばした。引き出しに何も入っていない放課後の机は軽くて勢いよく倒れた。新山さんも表情に怯えを滲ませる。
水風船なんて生温いものじゃない。瞬間的に、建物の解体現場の発破がかかったようだった。
「お願い。落ち着いて。聞いて」
「……じゃあ、早く、話せよ……!」
新山さんは息を飲む。そして、崩れるように言葉を吐き出し始めた。
「……耐えられなかった。久喜君が屋上でいたぶられているのを知ってから」
おい。
「何度も、痛みに耐える君を見た」
まさか。
「控えめだったけど、しっかりしていた。優しかった。人を見る目があった。そんな君は、今もう、見る影もなくなった」
やめろ。
「前、言ったよね。私がカズトくんに憧れてるって」
なんで。
「だから、君が嫌がってたのもあるけど、私もカズトくんのようになりたくて、カズトくん無しで君を助けようと思った」
俺の。
「……でも、結局私にはどうすることも出来なかった」
俺の誇り。
「夏休み、一度も顔を出さなくて」
俺の存在価値。
「劇で、あんなに笑われてて」
俺の意地。
「クラスで、皆に嫌われて」
俺の決意。
「心まで閉ざして」
俺を証明できる居場所。
「もう。耐えられない! だから、カズトくんと山吹さんに言った! 君は戸上のところに行く必要はない! 全部終わりにしてもらった!」
消された。壊れた。砕けた。破れた。失った。
――誰かのためでも、自分のためでも、覚悟を持って行動することがあなたの価値になる。その価値があなたを支えてくれる。
遠い耳鳴りのような音羽さんの声が、喪われていった。
俺を支えていた最後の声は聞こえなくなった。代わりに、誰かの叫び声が遠くからやってきた。
悲痛で、獰猛で、死に際の獣のような無様な音色。
「――うあああああ!」
俺の声だった。勢いに任せて新山さんに詰め寄る。襟をつかんで壁に叩きつける。
「苦し……やめ……」
「お前は! お前はァ!」
そのまま吊し上げた。軽い。新山さんの苦し気な顔。必死に俺の腕を叩く小さな冷たい手。
殺せる。新山さんの命は俺が握っている。
「はは……! はははははっ!」
可笑しい。可笑しすぎる。笑いが止まらない。腹の底が痙攣する。
「ははっ! 場所が無くなっちまったよ! 価値も消えた! 意義も失せた!」
あれだけ辛い思いをして耐えてきた事は最早藤谷のお手柄だ。一番大嫌いな藤谷の……!
ここまでやって、結局俺の価値は、藤谷に及ばない!
「あははははは……可笑しすぎるだろ! 可笑しいだろ! 馬鹿みたいだ! 新山さんも笑えよ、ははっ!」
笑いすぎて力が入らない。新山さんを吊るす両腕が下がる。俺の膝が曲がる。襟を掴んだまま、すがるように俺は膝をついて笑う。
駄目だ。止まらない。頬の内側を噛んでも、戸上の顔を思い出しても、腹がよじれてどうにかなりそうだ。いや、もうどうにかなっているのかもしれない。
可笑しい。滑稽だ。馬鹿だ。
「あははは! ふふ……! ふ……。あれ、何だ?」
ようやく笑いが落ち着いてきたと思ったら、視界がぼやけ始めた。俺の意思を無視して勝手に涙が流れる。
何だよ。せっかく面白おかしく笑ってたのに。
「久喜、君」
「俺の居場所は、屋上にしかなかった。『誰かのため』に耐えるという俺の価値は、屋上にしかなかった」
うつむいたまま俺は新山さんの襟を強く握る。水分は顎から床へ落ちて砕けた。
「楽しいか……! 人の誇りを、価値を、居場所を奪うのは……!」
「そんなつもりじゃ……!」
「黙れよ……!」
もう一度立ち上がり新山さんを壁に押し付ける。沸々と燃え盛ってきた。半解凍の悪意はとっくに氷を吹き飛ばし、すぐそこにいた。
今さら、俺の価値だとか、藤谷に勝つとか、もう関係ない。
俺は手をこまねいて待っていたその悪意に火を付けた。
「……新山さんが、居場所になれよ」
「……え?」
さらに両腕に力を入れると、新山さんのシャツの第二ボタンまでが千切れた。鎖骨。細い肩。なまめかしい白い肌が露になった。
「いやっ! やめてっ!」
「やめないよ……! やめてたまるか……!」
これは怒りなのか。これは恋慕なのか。これは劣情なのか。これは憎悪なのか。わからない。俺には何も、わからない!
新山さんが全身を滅茶苦茶に動かしてもがき始める。その膝が腹や肺に当たって激痛が走る。
「いてえな……! 大人しくしろ……!」
左手一本で、自分でも器用に新山さんの両腕を壁に押さえつける。右の拳を握った。あんまり暴れられたらうざったい。少し、わからせてやる。
……悲鳴が上がったら面倒だな。多目的室に連れて行ったほうが良かったか。
「カズトくんっ……! 助けて……!」
右の拳を引いた直後、教室の扉が乱暴に開かれた。
「……輝」
俺の名を呼ぶその声色に、震えがあった。絶望があった。失望があった。
俺は左手の力を抜き、新山さんを解放する。新山さんはその場で床にぺたんと座り込み、自分を抱くようにして小さくなる。
右の拳を握ったまま振り返った。
「……何か用か? 藤谷」
教室には藤谷を先頭に、山吹さんと前田さんが入ってきた。
藤谷はその睫毛の長い目を瞠って俺と新山さんの姿をとらえる。山吹さんは鋭い怒りの表情、前田さんは今にも泣きそうで申し訳なさそうな表情。
「……何やってんだよ、輝」
藤谷が一歩一歩近づいてくる。俺も小さく丸まる新山さんを背後に放って藤谷の方へ歩き始めた。
お互いに一歩半の距離を置いて足を止めた。
ここまで近いと藤谷の眼球が硬い蛍光灯の光を反射する様子まで見てとれる。失望から生じる怒りか、随分と鼻息が荒い。
だけど、それはきっと俺も同じだ。
そして、怒りで生まれたこの溝は埋まらない。
「新山に、全部聞いた」
藤谷が重い口を開く。
「戸上に全て吐かせた。お前をずっと痛め付けていた事も、前田の写真の事も」
「携帯は壊した。戸上のパソコンに残るデータも『そっちの人間』を雇って抹消した。抜かりはない。万に一つもない。安心するがいい」
藤谷の右後ろで山吹さんが腕を組みながら補足する。
本当に、俺の誇りと存在価値は徹底的に叩き潰されたんだ。握っていた右手の力が抜けた。
「あの……」
さっきから教室の入り口で動かない前田さんが話し始めた。
「今まで……ごめんなさい。私も、ユウスケも何も知らなくて……。だから、その……」
ショートボブを揺らして前田さんが俺を見た。目が赤かった。
「私たち、別れたから……。久喜くんの苦しみも知らないで付き合ってたなんて、申し訳無さすぎるから」
繕うように痛々しい笑顔が前田さんの顔を飾る。
言っていることを理解できなくて思考が止まった。だけど、思い当たる節はあった。
そうだ、今朝二人とも揃って遅刻してきた。別れ話でもしてたのか。……だとしたらユウスケが急に今日、俺を遊びに誘ったのは罪悪感からか。
俺の方を向いていた藤谷は驚いた表情で前田さんを振り返る。別れたことは藤谷も知らなかったみたいだ。
「どういうことだ? そんな話聞いてな――」
「――黙れ。藤谷」
俺は藤谷の言葉を遮る。そして前田さんに向き直って続けた。
「二人で相談して別れるのは勝手だ」
自分の声が自分で思う以上に戦慄いていた。
「だけどそれに俺を巻き込むな。俺を理由にするな。喧嘩だとか、すれ違いだとか、そういうので勝手に別れろ!」
「おい! 輝!」
藤谷が喚く。知るか。
「俺はお前らの関係を守ろうと耐えたんだ。今、俺を理由に別れるって言うのは、俺の苦労を全て無条件で否定することだ!」
感情が高ぶって声色にがなりが混じっていく。怯えた前田さんは涙を流し始めた。
「だけど、私も、ユウスケも!」
ふざけんなふざけんなふざけんな!
俺がやってきた事を本当に真っ白にさせる訳にはいかないんだよ!
「お前に意見する資格はない! ユウスケは駅前の古本屋だ! さっさとユウスケの所へ行けよ! ……じゃなきゃ。……じゃなきゃ、一生恨む……!」
泣きながら前田さんは唇を噛み締めた。泣いて赤くなった目に深みが現れた。
「ごめんなさい……、許してください……! ……ありがとう」
彼女は短く頭を下げると身を翻して教室を飛び出していった。
後は前田さん次第だ。付いて行ってユウスケに同じ台詞を吐き捨てるような程には面倒を見切れない。
元よりそんな余裕はない。
俺は両手を握る。固く、硬く。衝撃で崩れないように。相手にぶつけるために。
「あああああ!」
藤谷を睨んで狙いを定める。右拳を引いた。大きい一歩で距離を詰めた。左腕を引き付けるように引いて肩を入れた。
「……あ、ぶね!」
真っ直ぐに突き出した拳は気付いて咄嗟に飛び退いた藤谷に避けられた。
「藤谷、お前は、ユウスケと前田さんがこうなる事を考えたか?」
俺は両腕を上げて、慣れないファイティングポーズを取った。
藤谷の目に動揺が現れる。だがすぐに彼は山吹さんを庇うように下がらせて俺と向き合った。
「俺には……わからなかった」
だろうな。でも、本当はそんなこと、俺だってどうでもいい。俺がこれから両腕を掲げる理由は一つだけだ。
唯一つ、藤谷に勝つことが出来た『誰かのため』という俺の価値。それを失った分を埋めるため。あの整った気に食わない顔にお見舞いせずに終わらせるなんて出来ない。
「俺と一対一で喧嘩しろ」
「輝……」
「俺は本気だ。応じないなら新山さんが無事じゃなくなる……!」
渋々。緩慢な動作で藤谷も構えた。
「これしか無いのかよ、輝……!」
奴が言い終わる前には走り出していた。机と机との間の狭い道を駆ける。
「うああっ!」
転倒しそうになる程の前傾姿勢を取ったまま、飛びかかった。
藤谷の構えが動く。腰を低く落とし、右腕を引いた。
「くっそ……!」
そして彼は気をためる。この一連の動作は見たことがあった。
そうだ。戸上の取り巻きの一人がふざけて俺を殴る時に似ている。彼は確か『空手』の正拳突きだと言っていた。
ふざけている割には重くて次の日にも響くようなパンチだった。
藤谷は俺が飛びかかるのに合わせて放とうとしているのだろう。だけど俺には『見えた』。ボクシングの真似事のような殴打と比べると、遥か下から潜り込むようにのびてくるその軌道は何度も何度も屋上で味わった物だ。
俺は左手を、内側から外側へ、上から下へ叩きつけるように渾身の力を込めて払う。足りない速度は上半身を左へ捻ることで補う。
勢いを殺さぬまま、藤谷の正拳突きをかわして懐まで飛び込んだ。
今から右腕を引いて殴る程の時間はない。俺は迫る藤谷の顔面に、右肘を突き出した。
「ぐ……!」
藤谷が痛みに表情を歪める。手応えがあった。肘で顎を打ち抜いた。藤谷の頭が揺れる。今だ。体勢を立て直す隙はない。
俺は藤谷の襟元を掴み、頭を思いきり引いた。
刹那、藤谷の顔を見て色々な記憶を思い出す。
転倒して保健室まで連れていって貰った事。
一緒に走る練習をした事。
彼にバトンを渡した事。
間一髪で駆け付けて佐藤と斉藤を叩き伏せてくれた事。
しょっちゅう昼食を一緒に食った事。
学園祭を取り仕切っていた事。
劇で対峙した事。
戸上に抗議していた事。
差し出された、アップルサイダーの缶。
脳裏に浮かぶ全てを叩き壊すように、引いた頭を藤谷の顔ど真ん中目掛けて――。
「うあああああ!」
――叩きつけた。
「……あ……」
藤谷の漏らした声は微かだった。衝撃で俺の視界が一瞬白くなっただけだった。
俺が掴んでいた襟元を放すと藤谷はふらふらと後ずさってそのまま仰向けに倒れる。慌てて山吹さんが藤谷に駆けつける。
額のうずきと共にその様子を見下ろした。
……俺の勝ちだ。だけど、まだ終わらない。
「邪魔だ。山吹さん」
俺は言って藤谷へ近づいていく。
憎しみがおさまらない。殴りたい。蹴りたい。俺の居場所を奪った奴を叩きのめして、最低限の誇りを、俺の価値を取り戻せ。
「……カズトをやるなら、私を先にやれ」
山吹さんが藤谷に抱きつくようにして庇う。俺は足を止めない。
「それも、良いかもな」
藤谷は山吹さんを大事にしていた。大事なものを壊される苦しみを藤谷にも味わわせてやる。
「やめて」
何か軽いものが腰に絡まってきた。新山さんが両腕を回して俺を引き留めている。
「カズトくんを傷つけないで。カズトくんだって苦しんでた。……君の為に。だから、もうやめて」
腰に巻き付く腕が震えて締め付ける力が強くなった。
「私がっ、君の居場所になるから……! 許して……!」
「……離せ」
もがいて新山さんの腕をほどく。
「何なんだよ……!」
俺は。
「こんなことがしたかった訳じゃないのに……!」
気づけば教室には失神した藤谷と、怯える山吹さんと、泣きじゃくる新山さんがいた。
そして俺は、その光景の中で立ち尽くしていた。
「もう、いいよ……」
近くにあった自分の机からスクールバッグを引ったくる。動かない三人を教室に残して去った。
もういい。終わりだ。何もかも。帰ろう。寝よう。
「どこ行くんだよ……久喜……!」
廊下の後ろから声をかけられた。振り向くとモップを持った男子が一人と女子が二人。三人ともクラスのやつだ。近くで掃除をしてて駆けつけたのか。
その非難の目付きを見るに、教室の中の現状をある程度察しているんだろう。
相手は武器を持っている。素人の俺が行ったら叩きのめされて終わる。自然と薄ら笑いが浮かんだ。俺らしい。勝てやしないだろうな。
俺はモップ男子に向き直る。モップ男子はモップを突き出すようにして身構えた。
「やめとけよ」
言葉は廊下の向こうから聞こえてきた。モップ男子たちの後ろから気だるそうな態度の石田が歩み出てきた。
「だけどカズトが!」
「あいつは久喜をボコったらお前を嫌うだろうよ。そういう奴だ」
モップ男子を言葉で抑えながら石田が近づいてくる。その軽い見た目と普段の言動からは想像出来ない『重さ』を感じる。
「まあ俺はあいつに嫌われても別に良いからな。久喜は連れてくぜ。それで我慢しろ」
「……わかった」
モップ男子が渋々納得した声を出す。二人の女子は最早何もしゃべらない。藤谷に嫌われるという言葉が重かったんだろう。
「久喜、ついてこい」
「……ああ」
もう自棄だ。モップだろうが石田だろうが変わりはない。
俺は前を進む石田について歩き始めた。階段を降り、一階の昇降口に近い渡り廊下まで進む。ここも放課後には人影がなくなる場所だ。
渡り廊下の中腹で石田が立ち止まって振り返ってきた。
「藤谷カズトに勝ったんだな」
「……だったら何だよ」
石田が腕を組む。そして鼻で笑った。
「スカッとする。俺も新山さんが好きだからね」
「……『も』ってどういう」
「お前『も』新山さんが好きなんだろ? 違うのか?」
石田は普段教室で恋愛の話をして騒ぐ時のような笑顔を見せる。不愉快だけど大当たり。俺は石田と反対に顔をしかめた。
「そうだよ。好きだ。でも……もう、関係ない」
好きな人に手を挙げた。無理やり襲おうとした。そんな俺には想い、慕う資格もない。
石田は急に笑顔を引っ込めて、つまらなさそうな顔をする。
「ま、これこそ関係ない話だったな」
「……うん」
相変わらず空気は重い。これでいい。居心地の悪さが逆に安心できる。
石田がもう一度口を開いた。
「スカッとさせてもらったお礼にアドバイスさせて貰うと、武器持った奴に素手で歯向かうのはやめとけ。打ち所が悪いと死ぬぞ」
「それで、助けてくれたってか」
「それは罪悪感からだ。俺はお前が戸上さんにやられてるのを隠す手伝いをしてたからな」
だが、と石田はかぶりを振った。
「今までと変わらない。俺はお前の仲間じゃないし、同情もしない。礼もいらない。俺に話しかけてきても無視する。前と全く同じだ」
「ああ、わかってるよ」
石田は冷たかった。けれども藤谷より遥かに好感が持てた。それが何故かはわからない。もしかしたら、彼も『自分のため』を一番に生きている、わかりやすい人間だからかも知れない。
「話は終わりだ。帰れ」
「言われなくても」
俺は石田を追い越して、昇降口へと向かい始める。追いかけるように小さい声が飛んできた。
「……明日からは地獄だろうな。休学を勧めるよ」
同情しないと言っていた彼の、同情を感じる言葉を背に受けて俺は渡り廊下を去った。
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