そうして彼は、自分のために(1)
十月を過ぎたというのに、関東地方はまた、夏の熱を蒸し返していた。
数日前まではひやりと冷たさを感じる事もあって、すでに生徒たちは装いを新たにしていた。衣替えというやつである。
俺も他の生徒たちに倣ってベージュのカーディガンを羽織っていたのだが、着ていると暑さを感じる。
学園祭から数えると、戸上から呼び出されたのは一度だけで、更に幸運なことに呼び出された日は寒さが懐に滑り込むような日では無く、風邪も引かずにすんでいる。
ただ、その一度がかなり手厳しかった。
それは昨日のことだった。夜になっても生温い風がふいていた。
しばらく呼び出しがなかったせいか、たまった鬱憤を晴らすかのような激しいリンチだった。誰かの足が肺の辺りの急所に入ったらしく、呼吸をする度に強い痛みが走るようになってしまった。だから昨晩は家に辿り着いてからもほとんど寝れていない。
朝になってトイレに行くと、少し血が混じっていた。
ここまでしんどいのは初めてではないだろうか。痛みだけではなく、寝不足と疲労までもが苛んでくる。
だけど、下手に学校を休んだりして屋上の事をユウスケたちに気取られるわけにはいかない。今日も重い足取りで学校へ赴き、いつも通り自分の席へと着く。
学園祭から一週間と少しがたったが相変わらず級友たちは冷たいままだ。もう今更何とも思わない。思わないように頑張って意識している。
着席してふと違和感を感じた俺が隣の席を見るとユウスケがいなかった。いつもなら俺よりも早く来ていて俺に話しかけてくる。そういえば前田さんもいない。二人でどこかへ行っているのだろうか。
「……あの」
声をかけられて顔をあげる。クラスの女子が少し嫌悪感を含んだような表情で机の前に立っていた。
ような、ではなく本当にそうなのだろう。だけど言葉や雰囲気を見るに本人は嫌悪をぶつけようと積極的になっている様子ではない。あくまで裏にしまっているつもりらしい。
隠そうとしているものが垣間見えてしまうのは、鈍感になった俺でも堪らないものがある。
……俺も、無表情がひきつってしまう。
「……何ですか?」
「今日の放課後、冴島先生と面談らしいです。六時間目が終わったらすぐに職員室まで来い、との事です」
「……どうも……」
俺がぼそりと礼を言うと、その女子はさっさと他の友達の所へ戻っていった。他の友達と話し、笑い始めた。
不意に恐ろしくなる。
クラスの人たちが皆、俺の事を嘲笑っているような錯覚。朝の教室の和やかな笑い声が鋭利な刃物となって胸の奥へと突き刺さる。
俺は鈍くなったんだ。こんなもの、気にするな。
「……う」
動揺して変に呼吸をしたせいか、比喩ではなく現実に胸が痛くなった。声も漏れてしまう。
「く……」
駄目だ。押さえろ。目立つな。
そっと席を立ち上がり教室を出る。それからこの時間帯にはあまりひと気のない渡り廊下までそっと歩いて逃げて、掃除の行き届いた地べたに腰を下ろした。
本格的に痛い。肺の辺りのスジが思い切り傷つけられている。
今日も戸上に呼び出されたら死ぬかもしれない。自分でも大袈裟だとは思うけどそれほどの痛みだ。
……でも、誇りであり、俺の価値だ。
この痛みこそが、今や居場所の無くなった俺が唯一『自分』を確認出来るものなんだ。存在価値なんだ。
ぱたぱたと、誰かが駆けてくる足音が響いてきた。渡り廊下の曲がり角の向こうから誰かがやって来る。ここで座ってたら変に目立ってしまう。
まだ痛みはおさまらないけど、立たなくちゃ。
力を入れた鋭い刹那に目の前が真っ白になる。
「う! が、ああ……!」
立ち上がる瞬間の一瞬に信じられない激痛が走った。意味がないのはわかっているけど胸を押さえて呼吸を止めて、廊下の冷たい壁に寄りかかった。
足音が近づいてくる。痛がってる余裕はない。普通にしなきゃ。
「……久喜君!」
曲がり角から現れたのは新山さんだった。学園祭の帰りのあの時から一度も話してない。俺が乱暴に感情をぶつけたままだ。好きで嫌いで、だけど痛みに苦しむ姿を一番見せたくない人だ。
また胸が痛くなり、漏れ出そうになるうめき声をこらえる。壁に寄りかかったままずり落ちて膝をついた。
新山さんが近づく上履きの足音。俺の肩に手が置かれる。顔色を覗き込まれて反射的に俺はうつ向いて目を逸らす。
「……な、んで。ここに」
「クラスの人が、君の挙動が可笑しいって、笑ってたから。追いかけてきた。……早く保健室行こう」
笑ってたから、か。最悪だ。
「いい……! 大丈夫だから……! 放っといてくれ……!」
「だけど……」
「触んなッ」
渾身の力で肩に置かれていた新山さんの手を弾く。動いた拍子に鈍く肺のあたりが痛むが、耐えられないほどではない。時間とともに胸の痛みが引いてきている。俺は壁に手をついてもう一度立ち上がる。
背を壁に預け、新山さんと対峙する。
弾かれた手を自分で握って、新山さんは俺を見つめていた。その目は責めるでもなく、哀れむでもなく。
「痛がって、こんなに。戸上が、原因なんだろ……もう、見てられない」
バレている。でも、俺から認めるわけにはいかない。……『誰かのため』に耐え続けるという、藤谷にも負けない俺の価値を、守るために。
「見ろだなんて、言ってない」
俺がそう言って廊下を歩き始めると、新山さんも並んで歩いてきた。
「……君はどうして耐えるんだ」
意地と誇り、存在価値。それから、藤谷に頼りたくないという決意にも似たような意地。
心の中で即答して、それから口を開く。
「新山さんこそどうして俺にこだわる。さっさと藤谷の所へでも行って、楽しくやっていればいいだろ」
嫌味のように言った。言葉にしてみて気づく。俺は藤谷の事が嫌いだ。今さらだけど、本当に。
新山さんが前へ回り込んできた。ぶつからないように俺は足を止める。彼女の小さな口が動いた。
「……君がカズトくんに頼れないのは、カズトくんへの嫉妬と劣等感なんだ?」
「嫉妬……? 劣等感……?」
「君はカズトくんの事になると、急に意固地になる。……心の中で、自分とカズトくんを比べてるんだろ?」
「……はは」
笑えてくる。強く笑うと胸が痛むから控えめに。
俺が藤谷に嫉妬している? 劣等感を抱いている? ……俺は藤谷を羨んでるようにみえるのか。藤谷のようになりたいようにみえるのか。
……ふざけるな。大概にしろ。
華奢で小柄な新山さんへ、赤黒く煮えたぎった感情が膨らむ。奇怪な水風船が体の芯で不愉快に揺れて大きくなるようだ。おまけにその水風船は熱湯が入っているのか、近くに置いてある凍り漬けの『悪意』を解凍しだした。
ここに居てはいけない。ここに居たらぶつけてしまう。それは想像するだけでも自己嫌悪してしまいそうになる光景だ。
「ぐ……」
口内に違和感を感じた。口が開かない。無意識の内に、歯を割らんばかりに食いしばっていた。そうやって何とか、悪意を発散しないようにこらえている。そんな自分に驚くと同時に怖くなる。
悪意の実現を、それをしてしまったら人として終わりだ。
「ふうう……」
閉じた歯の隙間から空気を抜く。
今俺は彼女をどんな表情で見ているんだろう。新山さんの青白い顔に乗っている大きなつり目は瞳孔を開いてしまっていた。
彼女は、怯えていた。
ギリギリで自分にストップをかけて、絶好調にはやる動悸をそのままに俺は新山さんの横を通りすぎた。
いや、ほとんど逃げたと言っても変わりはないだろう。
○
結局ユウスケも前田さんも一時間目の開始には間に合っていなかった。
前田さんはどのタイミングで教室に入ってきたのか良くわからない。俺がずっとうつ向いて自分の机の木目をにらんでいたからだ。
ユウスケの方は一時間目と二時間目の間の休み時間に教室に入ってきて、俺がクラスの奴らの不躾な視線を浴びていたら声をかけてきた。
今日放課後遊ぼうぜ、と明るい調子を出して言う。鈍い俺にもわかった。無理やりに明るく振る舞っている。
ユウスケの元気がない理由まではわからないし、再びユウスケの問題に踏み込むほどの余裕はもう俺には存在しない。
「考えとくよ」
俺は今にも戸上からの呼び出しメールを受け取って鳴り出しそうな携帯の存在感を、ポケットの中に感じながら返事をする。
ユウスケの面持ちがかたくなった。
「……用事か?」
「ユウスケこそ、今日は部活だろ」
確か、そうだ。ユウスケのバスケ部は上下関係ユルかったりする寛容な部活だけど、ほぼ毎日練習がある。
「サボる」
三文字で切り捨てられた。
そこまで言ってくれるのなら、遊びに行くのは悪くないかも知れない。でも、戸上が昨日の酷い呼び出しに免じて、今日は勘弁してくれるだろうか。
……いや、あり得ない。変な希望は持たない方が身のためだ。
どうにかユウスケを誤魔化そう。そこで俺の脳が今朝の出来事を思い出した。
「……俺、冴島先生に放課後呼び出されてるんだけど」
あの嫌悪感の女子を思い出しながら言う。事実だ。嘘じゃないからバレることもない。
ユウスケが表情を緩めた。幾らかいつもの気楽な雰囲気に近くなる。
「美人新任教師と秘密の放課後課外授業か。羨ましいねえ」
「そうか、代わってくれるのか」
「いやあまさか。じゃあ輝のヒトシゴトが終わるまで駅前の古本屋で立ち読みして待ってるよ」
「……長引きそうだったらメールするから先に帰ってくれ」
「了解」
戸上から呼び出されたらもちろん遊べない。否応なしに先に帰ってくれというメールを打つ羽目になるだろう。
だけど、そんな打ちたくもないメールを打つ予定は早くも三時間目の終わりには出来てしまった。
――放課後、屋上。
シンプルないつもの一行が液晶に浮かび上がった。
○
六時間目の数学を何とかやり過ごす。ただでさえ数学だけは苦手なのに、この高校は元々レベルが高い。鉛筆ルーレットで入学した俺の学力じゃ数学にまで手が回らなかった。訳もわからず黒板の文字をノートへ移すので精一杯。
放課後に突入する頃には肺の痛みは薄れてきていた。これなら今日の戸上たちの『屋上』も耐えられる気がする。何より、俺の価値だ。多少の我慢をしてでも行くべきだ。
さあ、さっさと冴島先生の用事を片付けよう。
今月頭に二冊目に突入した計算ノートだとか、中学時代から使っている傷だらけのシャーペンだとかの筆記用具をいそいそとしまい、鞄を机の上に置いて席を立つ。
名前を呼ばれて振り返るとユウスケがスクールバッグを肩にひっかけて手を振っていた。
「じゃ、後でな」
「……うん」
うなずいて、俺は教室を出た。廊下には浮わついた放課後の空気が溢れていた。
部活を始めるものやぐだぐだ友人と駄弁るもの。その隙間を幽霊のようにすり抜けて昇降口へと降りていくもの。
笑顔と、愛想笑いと、無表情。
品数の少ない表情を眺めるのをやめて、俺も一体の幽霊となって職員室へと抜けていった。
職員室へ着くと、俺は冴島先生によって空き教室へと連れていかれた。
冴島先生はシャツにスリムなチノパン、カーディガンを羽織っている。色は暗く落ち着いていて地味な印象を受けるが、新任の若い教師なので油断したら学生と間違えてしまいそうだ。
「座ってくれ」
教室の真ん中の長机を指し示して言う。
この教室は普段学生が使えない場所だ。教員用の会議室として普段は使われている。学生用の机は一つもなく、会議に使う長机や食堂の予備らしき大きなテーブルもあった。
俺は静かにパイプ椅子を引き、座る。冴島先生は向かいにパイプ椅子を持っていき、腰かけた。
一、二メートルの距離を開けて目を合わせる。冴島先生は普段と変わらない鋭い切れ長な目を俺へ据える。
呼び出された理由は何だ。色々有りすぎて、俺には検討をつけるのが難しい。
冴島先生は何も言わない。俺も無言でその表情を見ていたら早くも逃げ出したくなってきた。
怒っているのか何なのか。それすらわからなくなってきた。単に目を合わせているのが辛い。
ユウスケの言うように美人といえば美人だが、きつめの顔つきと鋭い視線。成績の悪いときはしょっちゅう怒られていた事を思い出すと、身構えずにはいられない。
俺はついに視線を落とし、机の下の自分の両手を見た。手がだらしなく伸びたベージュのカーディガンの裾から控え目に出てきて軽く左右を組んでいる。
いまだに無言が続くのでどんどん居づらくなってくる。
左右の手の親指を互いにぶつけないようにぐるぐる回し出す。あまり誉められた態度ではないけど、申し訳なさそうに始まった手遊びは止まらない。
「久喜」
止まった、手が。名前を呼ばれて、吃驚して。
顎を上げて冴島先生の顔を盗み見る。口元が引き締まっていた。さっきまでともすれば学生に見えた冴島先生は、歴とした大人の見た目をしていた。
「……はい」
「お前は、馬鹿ではないよな。察しも良さそうだ。別段、問題のある性格をしているわけでもなかった」
何を言っているんだ。この先生は。
思わずちゃんと顔をあげて冴島先生の目を見た。冗談を言う目でも、雰囲気でもない。
「他の教科はわからないが、私の英語の授業も良くこなしている。山吹や藤谷には敵わないが――まあ、あの二人は例外だが――それ以外の生徒の中では一二を争うようになった」
また、藤谷カズトの名前だ。あきれる程まとわりついてくる。
「久喜。そんなお前が何で、『こんな』になっている?」
「『こんな』って、何だよ」
初めて冴島先生が顔を伏せた。
「……クラスで……あまり良い目で見られていないように見える」
消え入るような声だった。気を使われているようで妙に腹がたった。
「はっきり言えよ。『嫌われてる』って」
噛み締めるような渋さで冴島先生がうつ向いたままもう一度口を開く。
「……理由に、心当たりはないのか?」
俺が嫌な雰囲気を出しているのに心を折らず、必死に訊いてくる。
「無い。第一こういうのは副担じゃなくて担任が出てくるんじゃないのか」
「学年主任と部活の顧問とで時間がないみたいで……」
言いながら小さい声が震え始めた。俺はハッとして冴島先生の顔を覗き込む。
……目が潤んでいる。
大人に見えた冴島先生が、急に小さく見えた。弱々しい、ただの女子に見えた。
「あるんでしょう……理由が……?」
口をわなつかせて訊く。普段の毅然とした口調すら崩してしまっている。
この人も、社会に出て一年目なのだということを思い出す。どれだけ芯が強くても、俺と同じ、ただの一年生。
居たたまれなくなって俺も少し溢してしまった。
「……理由は、あるけど……でも……」
「私には言えない?」
彼女は湿度の高い視線で俺を見る。
……俺はこんなところで何をしてるんだ。何で泣かせているんだ。何で泣いている冴島先生の向かいに座っているんだ。
さっさと用事を済ませて、ユウスケにメールして、屋上へ行くだけのつもりなのに。
「あの……」
「……頼りない……?」
「はあ?」
突然顔を近づけて、冴島先生はすがるように言った。その薄い唇を動かして。
「私は、頼りない?」
どこかで聞いた言葉だ、と思った。
「あ……」
迸るようにフラッシュバックするのは、あの日のあの時の廊下での言い合い。……初めて戸上たちにリンチされた翌日の、新山さんとの言い合いだ。
藤谷を頼れと言う新山さん。その様子を見て俺は、意地になった。「俺は頼りないか?」と、卑怯な問いを新山さんにぶつけた。
俺を心配する新山さんが、俺に対して「頼りない」と言い捨てる事が出来ないことを知っていてそう言った。
あれから時間は経った。だけどあの時よりもさらに、藤谷に頼る気持ちは薄れている。彼を頼らない決意は強くなっている。
もちろん、泣き顔の冴島先生に、あの時の俺のような卑怯な心づもりが無いのは読み取れる。きっと、一教師として心底生徒を心配してくれているんだ。
だけど、それが何だ。それがどうした。ただそれだけの事だ。
ユウスケと前田さんを守れるのは、『誰かのため』に何かを出来るのは俺だ。
目の前の冴島先生でも藤谷でもない。俺だ。俺だけだ。だからこそ、俺の価値だ。
「俺は……」
水気が足りなくなってねばつく口を開いた。
冴島先生の表情が変わる。
ありがとう。話してくれるの。出来る限りの事をするわ。
……きっとそんなことを思っているんだろうな。
「……俺は、頼りないか」
卑怯な感情で俺は言う。
「そんな、こと……」
冴島先生が口ごもる様子は、あの日の新山さんと重なった。
俺の前で泣いてしまうような冴島先生には「お前は頼りない」と俺にはっきりと言うような精神力なんて存在しないと、俺はわかってて言った。
全て承知の上で、俺が卑怯なだけだ。
「先生は、俺が……自分の生徒が信用出来ないのか?」
もうこれ以上ここにいる必要もないだろう。この先生には何もできない。それがわかる。
俺はゆっくりと席を立つ。見上げてくる先生に、追い撃ち。
「俺は大丈夫、自分で何とか出来る。信用してくれ。あんたの生徒だろ」
言い放って、教室のドアに触れる。振り返った。冴島先生は声を殺して震えていた。
「……ああ」
あと、もう一言必要だ。
「敬語つかわなくて、すみませんでした」
廊下に出て、ドアを閉める。
あの先生は、生徒と同じ目線で話して、泣くから、敬語をつかい忘れてしまった。
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