そのとき彼は、想いを抱いた(7)
翌朝、俺は昨日と同じく走っていた。違うのはそれが自宅近くの住宅街ではなく通学路であることと、ジャージではなく制服を着ていること、そして、授業開始が数分後に迫っているということだ。
有り体に言うと、遅刻しそうなのである。
一応一生懸命部活動に励んでいることと、体育祭の前に走り込みをしていたおかげで、他の遅刻候補の生徒たちよりも速いスピードで通学路を駆けていく。昨日の早起きは何だったのだろうと悲しみながら校門を通過し、昇降口に飛び込む。
自分のクラスの靴箱の前で慌てて靴を履き替えていると、近くで靴を履き替える人の気配。それも、大胆不敵にも慌てている様子がない。
「ん……?」
俺以外にも遅刻しそうな人間が……しかも、遅刻しかけているのに悠々と落ち着いた様子の人間がいることに『どんな大物だ?』と内心感心しながら顔を向けると、見覚えのある茶髪の少女がいた。
……前田さんだ。
「あ、久喜君。本当に普段からこの時間なんだね」
「ああ、まあ……はは」
話しかけられて軽く動揺しながら笑う。昨日の戸上とのやり取りを思い出して、作った笑顔がひきつる。
……昨日の昼休みの後、流石に前田さん本人には言っていないものの、俺はユウスケに戸上についての話はしておいた。余計なお世話とは思ったが、戸上がロクな人間ではないと知っていて放っておくことは出来なかったからだ。
だけど、だとしたら、……どうして前田さんはこの時間にこんな場所にいるんだろう。
これも昨日知ったことではあるのだが、彼女はいつも朝早く――少なくとも俺よりはずっと早く――に登校している。ユウスケと一緒に。
でも彼女の側にはユウスケの姿は無いし、何よりこの時間の登校だ。何かおかしい。何かがあったと考えるのが普通だろう。
「前田さん、今日はどうして――」
率直に疑問をぶつけようとした瞬間、硬い金属音が校内に鳴り響いた。……始業のチャイムだ。今日の一時間目は英語……ではなく日本史。日本史の先生は時間に厳しい冴島先生と違い、チャイムが鳴り終わるまでに着席すれば許してくれる御仁なのだ。
「――悪い! あんまり遅刻増えるとしんどいから、先に行くね!」
俺はさっさとローファーを靴箱にぶち込み、もたもたと不器用に靴を履き替える前田さんを放って廊下を走り出した。
「何があったんだろうな……」
今朝の前田さんに関して、登校時間や同行者の不在以外にも、もう一つ普段と違う部分があった。
「何かあったんだろうな……」
前田さんの目が赤かった。見間違いでなければ、それが意味することは想像に難くない。
「……泣いてたのかな」
とりあえずはチャイムが鳴り終わるまでに無事に教室へたどり着くことが急務ではあるが、後ほど詳しくはユウスケに聞いておくべきだろう。
○
俺はなんとか滑り込みで間に合って、前田さんはあえなく遅刻とカウントされてしまった一時間目の日本史の授業が終わるや否や、すぐに俺は隣の席のユウスケに話しかけた。
「朝、昇降口で前田さんと会ったんだけど、お前ら今日は一緒じゃなかったんだな。前田さん、珍しく寝坊でもした?」
「……そうだな」
声が重たい。怒っているのかなんなのかわからないが、普段のユウスケの声色とだいぶ違う。
「ずいぶん機嫌悪いな」
「……そうだな」
その上、俺に顔を向けてこない。机に肘を立てて置き、頬杖をついて教室の前方をぼんやりと見ている。
「前田さんと喧嘩した?」
「……そうだな」
「あっ。教室の前扉から銃を持ったテロリストが侵入してきたぞ」
「……そうだな」
……駄目だ。暖簾に腕押し糠に釘。ユウスケは不機嫌なままで微動だにしない。
戸上からの告白に対する回答予定日は今日だ。前田さんがどう答えるつもりなのかはわからないが、今のユウスケの様子を見ていると嫌な予感がしてくる。
「……前田さんには、戸上についての話はしたのか」
「……そうだな」
「分かってんだよな……ユウスケ」
「……そうだな」
「前田さんが、戸上に玩具にされても良いのかよ」
ここに来てユウスケの体がピクリと反応した。頬杖をついていた彼は上体を起こして椅子の背もたれに寄りかかる。そして緩慢な動きで彼は天井を見上げると、小さく呟いた。
「……良くないけどさ」
「止めたんだよな」
「当たり前だろ。でも、言い方が悪かったかもしれない。喧嘩になっちゃったんだよ」
そして、彼は口元に笑みを浮かべた。自虐的なその表情に俺は息を呑む。
「……今日の朝、あいつ、喧嘩のあとで、戸上さんと付き合おうかなって言ってた」
ユウスケは目を閉じる。
「輝、もう放っといてくれよ」
そして彼は黙りこくってしまった。
それから彼は俺がどう頑張っても全く口を利いてくれなくなり、そのまま昼休みが来た。
……このままじゃいけない。
前田さんは今日の放課後、戸上に返事をするといっていた。戸上はこのまま行けば成功だともいっていたし、ユウスケいわく前田さんもそれを受け入れるのだろう。
とはいえ、俺が前田さんに直接何か言っても信じてもらえるかは怪しい。俺は前田さんとそんなに関わりが深いわけではないからだ。だからこそ、本当ならユウスケがどうにかするべきだが、今の状況を見るにそれも難しそうだ。
そしたら……俺が行くしか、ない。俺が、戸上に前田さんに手を出さないように頼みに行くしかない。
俺は得意の早食いで弁当を一気に食べ終えて教室を出た。廊下に出ると向かい側から購買のパンを手に藤谷が歩いてきていた。
「あ、輝。一緒に飯食おうぜ」
「……ごめん。もう食べちゃったから。でもユウスケはまだ飯食ってるよ」
「いや、食うの速えな! まだ昼休み始まって五分だぞ。……どっか行くのか?」
「まあ、うん。じゃ、後で」
疑問一杯の藤谷をそのままに俺は階段を上がり、上級生たちのいる階へとあがっていく。
戸上は何組だったか……? 不出来な脳細胞を総動員して思い出していく。
「あ……」
上級生たちが物珍しげに俺を見てくる廊下を進んでいると、俺の脳細胞より先に、俺の視神経が戸上の姿を見つけた。部活の先輩たち――戸上と、彼と同学年の二年生たち――と親しげに話している。
向こうも俺に気づいたようで、手を軽く振ってきた。
「お、久喜か。どうした?」
「こんにちは。あの、少し話があるんですが、ちょっと良いですか?」
「ん。……ああ、そうか。わかった。今行こう」
そう言って戸上は他の部活の先輩たちに「すぐ戻る」と言って俺についてきた。
俺は少し歩いて戸上をひと気のない渡り廊下まで連れ出す。
「……で、話って、前田ユミのことかな?」
戸上が笑いながら簡潔に切り出す。隠してもしょうがない。正面切って頼み込むためにも、俺は潔く頷いた。
「はい。あの子には手を出すのをやめて欲しいです」
「へえ……」
かなり不躾にぶつけてしまった。怒らせてしまっただろうか……?
恐る恐る戸上の顔を見上げる。だが、俺の予想に反して彼はいつもの優しい笑顔を崩さないままだった。
もしかしたら、大丈夫かもしれない。何事もなく収まるかもしれない。
淡い希望が俺の中で芽吹き始めたとき、彼は口を開いた。
「ところで、何で前田ユミは駄目なのかな? 久喜の好きな人だったか?」
「あ、いや。違います。俺じゃなくて、俺の友達が……」
素直にそう言うと、戸上の笑顔が一瞬凍りついた。直後笑顔は崩れ、真顔になる。生物というよりは、機械や鉱物のような無機質さが表面化していく。
「……俺に向かって反抗心持つとは、……それも自分じゃなくて誰かのためとは……。そんな人間、久喜が初めてだな……」
声は、その表情以上に無機質な感触だった。背筋に冷たいものが走る。俺は思わず息を止める。
そう。『これ』だ。『この感じ』だ。俺が戸上をただの苦手以上に思っていたのは……不気味だとすら感じていたのは、『この感じ』を時折感じるからだったんだ。
沈黙が俺の中で戸上に対する恐怖を殖やしていく。俺は止まっていた呼吸を再開し、掠れるように声を出した。
「……え、と」
言葉を探す。一体ここから俺は何を言えばいいんだ。
プレッシャーの中でふやけ始める脳を空転させていると、不意に戸上がいつものような優しい笑顔に戻る。
目の前の戸上はいつもと変わりない。さっきの冷たさは俺の勘違いだとすら祈りたくなるほどに。
「……悪いが久喜。それはお前じゃなくて、その『お前の友達とやら』が俺に直談判するべきじゃないのか?」
「あ、それは、そうですが……」
「まあいいよ。じゃあこうしよう。俺は今日の十六時半、多目的教室で前田ユミに返事を貰うことになってる。何か言いたいことがあるならそこに直接来ればいい」
「……わかりました」
俺はなんとか言葉を絞り出し、教室へ戻るべく戸上に背を向け歩き出した。
……とりあえずユウスケを放課後多目的教室にどうにか連れていこう。ユウスケ次第だけど。
「ああ、あともう一つ」
何か思い出したような戸上の言葉に俺は振り向く。戸上が、意地悪く笑っていた。
「来て良いのは、直接俺に話をしにきたお前だけだ、久喜。この約束は、絶対に破るなよ」
○
とうとう何もできないままで放課後がやって来た。ユウスケは引き続き全く口をきいてくれないまま、部活動へ向かってしまった。
放課後に俺が多目的教室に行くことは伝えなかった。律儀に戸上の約束を守っているというよりは、……実際、戸上に恐怖を感じたから約束を守っただけだ。
兎にも角にも、授業の終わりから大体一時間後という中途半端な時間まで俺は動くことはできなくなってしまった。仕方なく、溜まっている遅刻課題の英語プリントでもやってやろうと机に向かう。
視界の端では前田さんが教室から早々に出ていった。どこかで時間を潰すつもりなのだろうか。
放課後の教室はゆっくりと時間を進めていく。
無駄に教室に残ってだらだらとしている生徒や掃除当番の生徒も徐々に帰宅していき、ひと気がなくなった頃になってプリントを解き終わった。
「まだ、時間あるな。折角だ。提出しに行くか……」
単なる暇つぶしが理由ではあるが、事実としては放課後まで居残って英語プリントを片付けたのだし、冴島先生には厭味ったらしく提出してやろう。
……そもそも遅刻するなと言われれば返す言葉は無いが。
「あと四十分か……。本当、微妙な時間指定だな……」
うだうだと職員室へ向かう。遠くから吹奏楽部の奏でる管楽器の音色や運動部の掛け声が聞こえてきて、そこに夕日が交じる。
職員室の前までたどり着くと俺はノックをしてから扉を開き、冴島先生の顔を探す。ノートパソコンを前に眼鏡をかけてモニターへ睨みを効かせている彼女の姿を見つけて俺は近づいていった。
彼女は俺に気がつくと掛けていた眼鏡を外して視線をこちらに寄越してくる。
「久喜か。どうした。遅刻課題でもこなしてきたか?」
「その通りです、先生」
言ってから俺はプリントを差し出す。冴島先生は目を丸くして、その安っぽい紙を受け取った。
「冗談のつもりだったが、本当に遅刻課題の提出だとはな。……どうした、熱でもあるのか」
一体この先生の中で俺はどんな酷い評価を受けているのだろう……と、考えるまでもないことは、俺が今提出したものがあくまで遅刻の罰則としての課題であることから明白だった。
少し真面目に通学するか……。しかし、朝は弱いんだよな、どうも。
「熱があるのかも知れないですね。早々に帰って寝ることにします。今日は部活も無いですし」
「そういえば、久喜は部活やってたな……何部だったか」
俺の中の意地悪な部分が働いて、俺は小さく微笑んだ。
「副担任とはいえ、自分のクラスの生徒の部活動くらいは把握しておいたほうが良いんじゃないですかね、先生」
ちょっとした反撃のつもりだ。だが冴島先生には微塵も効果がないのは、彼女の表情に変わりがないことから伺い知れた。
「そうだな……。私が久喜のことで知っているのは、遅刻が多いこと――」
途中までそう言ってから彼女は俺を見て、変えなかった表情を微笑みへと変えていく。
「――それと、体育祭の時の出来事の通り、思ったより足が速くて、結構仲間想いの優しい人間だ、ということぐらいか」
不意打ちに顔が火照る。おだてられるというのは、時として怒られるよりも遥かに質(たち)が悪い。……情けないが俺の完敗である。
新任の教師とはいっても俺より年上の女性だということを忘れていた。人生経験じゃまだまだ勝てっこない。
「さすが先生、赤点の回答から及第点の回答に持っていくとは」
「ふふ。久喜も次のテストは及第点以上で頼むよ」
そして彼女はその手のプリントをひらひらと振ってみせる。
「これだけ課題やってたら問題ないかな?」
これは、敵わないな……。
どっと疲れた俺は「期待しててください」と返して職員室を立ち去った。
「酷い目にあった」
自業自得ではあるものの、そんな感想を呟いて携帯を開き時計を見ると、あと三十分ほどで戸上との約束の時間になっていた。
今日の一番の問題はこっちだ。どうやって切り抜けたものかな……。
「優しい、ね」
……うぬぼれと言われるかも知れないが、あながち間違いでは無いのかも知れない。ただのお節介でしか無いのは事実だが。ユウスケには体育祭での借りもある。悪い方向に進まずに済む可能性があるのなら、ちょっと部活の先輩と対峙するくらい、お安い御用さ。
「……あれ」
聞き慣れた声がした。俺は携帯の画面から声の方へと視線を向ける。そこには女生徒が一人。クラスメイトの新山さんが書類を持って突っ立っていた。……いっつも書類持ってるな、この娘。
自分の鼓動が少し早くなった気がしながらも、それを気取られないように俺は携帯を閉じてポケットにしまい込む。
「新山さんも職員室に、用事?」
「……そう。『も』ってことは、久喜君も?」
「いや、まあ……。遅刻課題をね」
「ふうん……? 普段の君は、居残ってまで課題やるほど殊勝な人間じゃないと思ってたけど……?」
俺の本性がバレバレである。
一体新山さんの中で俺はどんな酷い評価を受けているのだろう……と、考えるまでもないことは、俺がさっき提出したものがあくまで遅刻の罰則としての課題であることから明白だと、冴島先生の時と同じように思った。
「ちょっと待ち合わせしてて、その時間までの暇つぶしだよ。……まだ三十分くらいあるけどさ。新山さんは?」
「私は、生徒会の手伝い……」
「へえ……。新山さん、生徒会志望だったんだ」
この学校では、生徒会に入れるのは二年生からである。一年生の中で生徒会を志望している人間は『見習い』として手伝いから始まるのだ。
彼女が行っている『手伝い』というのも、そういった活動の一環なのだろう。そういえば、藤谷や山吹さんも同じだったか。
「そう。……それにしても、変な時間に待ち合わせなんだね」
「へ? ああ、まあ、たしかにそうだ」
おかげで中途半端な時間を潰すために英語の課題なんてものに手を出してしまったくらいである。
それから新山さんは首をかしげる。
「……相手の方に、用事でもあったのかもね」
「……そう、だね」
言われて、何かが引っかかる。確かにこの時間指定はおかしいかも知れない。
告白の返事を他の生徒に見られたくない。だから少し時間をずらさせてほしい……みたいな理由は作れなくはない。だけど、それなら前田さんはどこへ行ってしまったのだろう。だらだら教室にいるでもなく、俺と同じく遅刻課題に取り組むでもなく……。
冷静になればなるほどに違和感が生まれてくる。
「あ……、じゃあ、俺、これで……」
「……? わかった。さよなら」
気もそぞろに新山さんに別れを告げて、自分の教室へと戻り始める。
歩きながらも俺は考えを少しづつ深めていく。
上級生の授業終わりの時間が遅いのか。いや、それはない。一年生と同じ時間帯で終わるはずだ。普段の部活動であっても上級生は俺たち一年生と同じタイミングで集まってくる。
じゃあ、逆に、嘘の時間を教えられていた……?
止めようとしていた俺を邪魔に思った戸上が体よく追い払うために……?
「……なんか」
違和感はすでに、嫌な予感にまで膨れ上がっていた。
俺は多目的室へ向かって駆け出した。
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