そのとき彼は、想いを抱いた(6)

 その日俺は珍しく、朝早くに起きていた。窓の外から小鳥のさえずりや、夏の始まりを知らせるヒグラシの鳴き声が聴こえてくる。

 毎日のように遅刻ギリギリの登校を繰り返している俺としては驚きの快適な目覚めで、いつもより二時間も早いのに二度寝する気にもならない。

 する事がなくて二階の自室から居間へ降りていくと、母さんが俺の弁当を作っている。


「おはよー」


「えっ! あ、輝? どうしたのこんな早くに」


 早く起きた俺を見て俺以上に驚いていた。そんなに寝起き悪いか、普段の俺は。……いや、悪いな。


「目、覚めちゃって。……折角だしちょっと走ってこようかな」


 俺は寝室に戻ってジャージに着替え、家を出て朝の住宅街を走り出した。


「はっ、はっ」


 体育祭が終わってからも、俺は時折自宅の周辺を走り込んだりしている。残念ながら習慣にこそならなかったが、趣味程度にはなっている。

 ……結局、体育祭の一年生部門はうちのクラスが優勝した。

 それまで同学年内で目立つ存在だった山吹さんと藤谷だったが、この体育祭を機に全校生徒の中でも有名人になり、しばらくはその二人の姿を見ようと教室に押しかけてくる上級生は後が絶えない状態だった。

 それから時間も経ち、梅雨を挟んでそんな騒動も落ち着いてきた。

 大きいイベント事もなく、俺は日々授業と部活動に身をやつしてダラダラと時間を過ごしている。


「そろそろ、学校行くかな……」


 一通り走り終わった俺は自宅へ戻り、シャワーで汗を流して朝食を貪る。それからたっぷりの時間の余裕を持って家を出発した。

 電車通学の俺は学校の最寄りまでの十数分を四角い鉄の箱の中で揺られて、疲れた顔のスーツの大人たちと一緒に移動する。

 駅から学校までの道のりはそこまで長くはなく、普段俺が登校する時間であれば焦った様子の同校生が走っている姿を見かけるのだが、今日は違う。普段から早めに登校しているのだろう勤勉な生徒がまばらに歩いて居るくらいだ。


「……む」


 そんな中で俺は、前方でゆっくり歩いている男女のカップルを見つけた。制服が一緒なのでうちの学校の生徒で間違いない。

 邪魔だな……朝からいちゃつきやがって……。

 恋人が出来た事のない俺は僻みながら歩くスピードを上げる。ゆっくり歩く彼らの後ろについていくのは不愉快だし、追い抜いてやろう。

 高校に入学する前に、高校生になったら自分にも自然と恋人が出来るのだろうかとぼんやり思い描いたことがある。現実にはそんなことはなくて、中学生の頃から変わらず『年齢イコール彼女いない歴』という状態だ。

 そんな俺だが、中学時代に気になっていた女の子はいた。彼女は今や、話すことも会うことも出来ない存在になってしまったけれど。


「……朝から考えることじゃないか……。……ん?」


 足早に歩く俺は、前方のカップルの様子を見て目を凝らす。徐々に距離が縮まっていき、その男子生徒の方に見慣れた雰囲気を感じた。いや、見慣れたというか、あのもっさりとした天然パーマは……。


「あ……」


 ユウスケだ。隣に居るのは……前田さんか。

 二人は近所に住んでいるのだと聞いたことがある。もしかしたら今までもこうやって登校していたのかもしれない。

 何はなくとも噂話を好む同年代が集まる場所へ男女二人で毎朝連れ立って行くというのは中々勇気のいることだ。意識しすぎなのかもしれないが、そういう年頃なのだから仕方あるまい。

 ……それはそれとして……。

 無理に追い抜こうとして俺の存在がバレるのは気まずいな……。別のルートから登校しよう。

 俺はそっと足を止めようとした。右足のローファーが、地面に引っ掛かる。……あれ。転ぶ。


「うわっ」


 俺は慌てて左足を前に出して、転倒を阻止した。


「あぶねー」


 そう何度も転んでられるか。石田の言っていた『ドジっ子』というのが本当になってしまう。断じて俺は『ドジっ子』などではない。


「あれ……輝?」


「ん、何? ……あ」


 前を見ると、ユウスケと前田さんが振り返って俺を驚いた顔で見ていた。そりゃ、あれだけドタバタ声を出してたら見つかろうものだ。


「……お、おはよー」


 前言撤回。俺は『ドジっ子』なのかもしれない。



 見つかってしまった俺は話の流れで二人の登校に加わることになり、ちょっと気まずい思いを感じながら教室へ。到着すると、前田さんは既に登校していた他の女子のグループへ混じっていき、俺とユウスケは大人しく席についた。

 教室にはあまり人がいない。着席時刻よりはそれなりに早い時間だからだ。


「お前変な噂流すなよ」


 席に荷物を置いたユウスケが小声で俺に念を押す。俺は「ハイハイ」と適当に返事を返した。

 ちらりと前田さんの方を見る。いつもと変わらず、間延びした声で話している。彼女と話をしている女子のグループの様子は普段と変わりない。男連れで登校していることに騒ぐ様子は無さそうだ。それはつまり、ユウスケと前田さんのそんな関係が当たり前であると認識されているということ。

 ……ちょっとカマでもかけてやろうか。

 意地悪な気持ちになった俺はユウスケの肩を叩く。


「それにしても――」


 そして、顔を近づけて小声になった。


「――いつから付き合ってたの?」


「だから違うって! マジで変な言いふらし方とかすんなよ?」


 ムキになるユウスケ。耳まで赤い。何とも微笑ましい。……この様子だと、特定の関係までは行ってないのか。でも、ユウスケの方の気持ちは大体察することが出来た。


「しないよ。……でも、見た感じ、今までも一緒に登校はしてるんだよね?」


「……まあ。近所だし」


 何度目になるかわからない『近所』というワードを入れ込みながら、むくれたようにユウスケは頷く。

 それにしても、春に入学してから暑くなり始めた今日に至るまで、季節一つ分を一緒に通り過ぎたというのに全く知らなかったな……。


「久喜君は知らないでしょ。いつも学校くるの遅刻寸前だから」


「あ、新山さん」


 なにがしかのプリントを手にした新山さんが話しかけてきた。何となく少し緊張してしまう。

 彼女は普段と変わらぬ無表情。俺ももう慣れてきた。


「おはよう。珍しく早いんだ? はいこれ。この前の遅刻の分」


 そう言うと新山さんは手に持っているプリントを手渡してくる。俺はそれを受け取って内容を改め、げんなりする。

 我らがクラスの副担任でもあり英語の担当教師でもある冴島先生は、授業に遅れた生徒に罰則としての追加課題を授けてくるのだ。毎回どっからか引っ張ってきた英文の和訳を求められるので、地味にストレスである。そもそも遅刻するなという話ではあるが。

 新山さんは自分の仕事が済んだと認識して席へ戻っていく。俺はそれを見送ってから盛大に溜息。


「ふふふ」


 隣の席で事の顛末を見ていたユウスケがほくそ笑む。ユウスケをからかった俺へ天罰が下ったとばかりの上機嫌だ。この野郎。


「そんだけ遅刻課題やってたら英語の成績良くなりそうなものだねえ、久喜くぅん」


 俺が英語を苦手科目としているのを知っていてこの態度である。


「ち……次のテスト、見てなよ」


 教科書とノート、英語の辞書を鞄から取り出して早速プリントを眺める。……うん、わからん。時間もかかりそうだ。

 高いハードルを前にして集中力のスイッチが入らなさそうだとすんなり諦めた俺は、シャーペンを手の内でくるくる回しながらユウスケに話しかける。


「ひとつ。訊いていい?」


「ん? 何だ? わかんねー文法でもあったか?」


「……ユウスケさ。前田さんにいつ告るの?」


 さっきのお返しだ。効果のほどは充分だったようで、ユウスケは再び耳を赤くし、明らかに挙動不審になり始めた。恐らく彼の視線の先には前田さんたちの女子グループがあるのだろう。


「ぷっ」


 そんな彼の初(うぶ)な様子がおかしくて、俺は吹き出す。ユウスケは更に赤くなって、それから全てを受け入れたように深く息を吐いた。


「……もう降参だ。……バレてると思うけど、俺はユミが好きだし、あいつと登校したいから朝早く起きてる」


「いきなり素直だね」


「だから、ホントに秘密で頼むよ、な? 何ならその課題、俺が代わりにやっても良いから!」


 両手を合わせて頼み込んでくるユウスケを見ていたら罪悪感が湧いてきた。少しやりすぎただろうか。

 俺は「大丈夫、秘密にするって。課題もバレるから良いよ」と返した。それから回していたシャーペンを止めて、机に置く。


「まあ、応援するよ。応援はタダだし」


「何かテキトーだな……ほんとに大丈夫か」


 ユウスケはわずかに不満そうだ。俺はへらへらと笑いを返す。

 すると突然教室の扉が開いて冴島先生が入ってきた。まだ授業の時間ではないのに何事だろうと思っていたら、先生は新山さんと二言三言話してまた教室の出口へ向かう。

 何かしらの伝達事項だったのかな……。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、教室を出ようとした先生と目が合う。


「……ん、おや。久喜、珍しく早いな」


 そして目線が教科書やノート、辞書が広げられている俺の机に行く。


「予習も完璧、というやつだな。珍しいことは重なるもんだ」


「あ、いや」


 何か勘違いをしている。俺がやろうとしていたのは予習ではなく遅刻課題だ。同時に嫌なことを思い出す。

 ……そう言えばこの後の一時間目の英語の授業、宿題が出てたっけ……。……今日の授業で取り扱う範囲の教科書和訳だったっけ……。

 冴島先生は、幾人かの男子生徒を魅了した綺麗な笑顔で続ける。


「遠慮するな、今日は沢山当ててやる。楽しみにしてるぞ」


「………………はい」


 この後、朝の僅かな時間を教科書の和訳に充てて必死に取り組んだものの間に合わなかった俺が、一時間目から大恥をかきまくったのは言うまでもない。



 大恥をかいた後、授業をいくつかこなして昼休みとなった。


「酷い目にあったな……」


 俺は書類を手にひと気のない渡り廊下を歩いていく。毎度のごとく職員室へ向かっている……というわけではなく、この昼休みに俺は、所属している部活の先輩である戸上さんに頼まれていた書類を渡さなくてばならないのだった。

 戸上さんは俺のひとつ上、つまり二年生で、引退した三年生の先輩から新部長に任命されていた。人望があるし、うちの部の若干血気盛んな厳つい部員たちをまとめあげられるのは彼ぐらいのものだろう。

 でも俺は、戸上さん自体は正直苦手だった。

 少しばかり『やんちゃ』な彼と、大人しめの俺はそもそも反りが合わないというのもあり、苦手な要素はいくつもあるのだが、その中でも一番の要素は女癖の悪さだった。

 女子のいるところでは爽やかなスポーツマンだけど、男で集まって話すときは決まって誰をヤるだかヤっただかの話を好んでしている。それだけなら趣味が合わないだけで済むけど、戸上さんは同時に何人と付き合えるのかという『チャレンジ』をしていると声高に言っていた。ここまで来ると本当に胸くそ悪い。

 あと、それだけじゃない。戸上さんは何か、読めないんだ。女癖の悪さも『チャレンジ』の話もただの表面的なものに思えてしまうような何かがある。

 はっきりした根拠はない。でも確かに得体の知れない不気味さがあるんだ。


「――ね、ダメかな? ユミのこと、本当に好きなんだ」


 ひと気がない、と思っていた渡り廊下の突き当たり曲がり角から男の甘い声がした。


「なんだ……?」


 俺は歩くスピードを落とし、足音を隠して好奇心でそっと覗き込む。視線の先には、茶髪に緩いパーマを当てている髪型の背の高い男。後ろ姿でわかる……戸上さんだ。それとその正面にいる女子は……前田さん……?

 とんでもないところに出くわしてしまった。戸上さんが前田さんに告白している状況だ。今朝、ユウスケの話を聞いていただけに、前田さんの返答が気になってしまう。

 耳をそばだてていると、前田さんの頼りない声が聞こえた。


「……ごめんなさい。返事はすぐには出来ないです。……明日、放課後まで、待っててください」


 それからぱたぱたと廊下を走り去る足音。話の流れ的には前田さんが去ったのだろう。

 ……どうしたものだろうか。書類を届けるのは後にするか……?

 悩んでいると、笑い声が響く。戸上さんのものだ。


「ふふ……居るんだろ? 久喜かな? 影でバレバレ」


 心臓が縮こまりそうになりながら、廊下の床を見た。窓から入ってくる光を遮る俺の情けない影が落ちている。

 これでは隠れている方が心象も悪い。俺は渋々戸上さんの前に姿を現した。


「よお、やっぱり久喜か。今の見てた?」


「あ、いや。……すいません。見てました」


「何で謝るんだよ。……あれは押せばイケる感じだわ。何、飽きたらお前にも使わせてやるって」


 飽きたら? 使う? 意味がわからない。


「えっと……?」


 首をかしげると、戸上さんは何かに気づいてから邪悪に笑う。


「そっか。そういえば、久喜は呼んでもいっつも来ないもんな、『カラオケ』」


 戸上さんたちが良く部活の後にカラオケに行くのは知っている。俺は歌を人前で歌う趣味は無いし、聞いている音楽もあまりメジャーなものではないから、何かと理由をつけて辞退していた。

 戸上さんが話す内容から考えるに、彼らはその『カラオケ』とやらで悪いことをしている。……想像するのも、躊躇われるような。


「い、や……あの」


「お礼は良いよ。これ書類だろ? サンキュ。じゃな」


 そう言って戸上さんは俺の手から書類をとって二年の教室へと歩いていった。

 ……充分わかった。例え演じているのだとしても戸上さんは、いや、戸上はロクな人間じゃない。あの男と前田さんが付き合って幸せになれるわけがない。

 ユウスケにこのことを伝えなきゃ。……まだ充分間に合う。

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