追跡(6)
狭い峡谷の空を幾つもの矢が舞う。半強制的に身体が強ばる。今は治癒の魔法も使えない。一撃が致命的。……空から、死が降ってくる。
「あ、ああ……」
バシリと、背中に衝撃があった。
「少年! 走るぞ!」
エレックの声。背中を叩かれたのか。おかげで我を取り戻した俺は、エレックの声に従って走り出す。
冷静になれ……!
俺は頭をフル回転させる。先程崖上を見た時にいた人影は数十程度。それに、左右の崖上にいたわけではなく、軍の進行方向の右側の崖のみにしかいなかった。であれば、その右側の崖下に潜り込むことで矢の雨は凌げる。
「こんなところで死ねるか……!」
一目散に崖下を目指す。俺の前方には先導するようにミアとエレックが走っている。走る道を作ってくれている。
盾や荷袋を掲げて身を護る体勢になっている他の戦士をすり抜けるようにして、俺はミアとエレックのあとに続き、命からがら崖下までたどり着く。運のいいことに、矢は一発も当たっていない。
崖を背にして振り返ると、一拍遅れて数十の矢が降り注いだ。盾の準備が間に合ったものはそのままそれで受け、中には器用に剣を振るって矢を弾き落としている猛者もいる。だが、防ぎきれずにこの荒れ地に身体を崩していく戦士もいた。首や肩の深いところに矢が刺さっている者もいる。……あれでは、助からないだろう。
数秒で矢の雨が止む。心拍数が上がって心臓の音がうるさい。崖を背にしたまま、俺は放心状態だった。
「ひ、い……!」
あんなに簡単に人が死んでいく。肺が引き攣る。呼吸が上手くいかない。視界がぼやけてくる。頭が回らない。
トン、と今度は優しく背中を叩かれた。
「輝、大丈夫。怖くない。息、すって」
ミアの声に従ってただ息を吸う。肺を膨らませる。苦しくなるくらい空気を吸い続けてから、また背中を叩かれる。
「息、吐いて」
長い時間をかけて体内の二酸化炭素を吐き出していく。もう一度吸う、吐く。視界が良くなってきた。頭もクリアになってくる。
「少年、落ち着いたら荷物下ろして身軽になれよ」
今度はエレックの声に従って荷物を地面に置き、右手にはグングニル。左手に小刀を持ってから、腰を落とす。
具合が悪いことに変わりはないが、最低ラインは確保出来た。
「あ、ありがとう。もう、大丈夫だ。戦える」
お礼を言うとエレックは俺を一目見て、首を横に振った。
「いや、少年はまだ無理だ。自分を守ることに専念してくれ」
情けなく思った。でも、否定できない。彼の言葉に安心してしまったからだ。俺の心は逃げたいと訴えている。生きたいと訴えている。
悔しさがこみ上げてきて、立ち上がる。直後、頭上……いや、崖の上から複数の雄叫びが聞こえた。
「エレック、上……!」
ミアが見上げる視線の先、崖上を睨んだエレックは「嘘だろ」と呟いた。
「降りてくるぞ! ミア、逃げろ! 少年を頼むぞ! 俺はどうとでも出来る!」
俺も状況を把握しようとして崖上を振り返る。その俺の視界には、信じられない光景が広がっていた。
……大勢の兵士が、崖を走って降りてきていた。
厳密に言うと、走っているわけではない。転がるようにしながら滑り降りてきているのだ。十メートル以上ありそうな高さから降りてくるなんて正気の沙汰とは思えない!
「輝! こっち!」
左手の手首を掴まれて、無理やり走らされる。転びかけながら前を向くと、ミアが戦士や矢ダルマになった『戦士だったもの』を避けながら俺を引っ張って走っている。
なんとか自力で走り出しながら、俺はミアに訴える。
「ミア! エレックがついてきてない!」
「わかってる! でも、走って!」
峡谷の反対側の崖まで走る。ミアも俺もすぐに振り向いた。先程まで崖上に並んでいた敵の兵士は一人も残っていない。全てが崖下まで滑り降りてきて強襲を仕掛けてきたのだ。
緊張しすぎて頭がおかしくなっているのか、俺は脳裏でぼんやりと、元の世界で観た歴史番組を思い出していた。
思い出したのは『逆落とし』。源平合戦における戦いの一つである一の谷の合戦で、九郎判官・源義経が切り立った崖を騎馬で駆け下りて平氏陣営へ強襲をかけたという逸話だ。
目の前で起こっていることはまさにそれである。こんな馬鹿げた作戦を考える人間が歴史上の登場人物以外にいるなんて衝撃だ。
反対側の崖下では土煙と怒号が上がっている。戦いはすでに始まっている。あの中に、エレックもいるんだ。
「輝、右!」
「え……!」
ミアの注意で右を向く。敵兵が剣を高く掲げて俺に向かって突っ込んで来ていた。何故だ。『逆落とし』は前方。右から敵兵が来るなんてありえない。
……いや、俺が崖上を見たときにいたのは精々数十人。義勇軍は千人近い人数だ。反乱軍も、たった数十人で挑んでくるはずがない。同時に複数箇所で『逆落とし』を決行しているんだ!
狭い峡谷を抜けるために義勇軍全体が細く伸びているところを横から突いてきている。その中で『逆落とし』を成功させた部隊がそのまま散開。横からだけじゃない、前からも後ろからも攻め立てられている。
……安全な場所なんて、無い!
「う、うおおおおお!」
俺は向かってくる敵兵を正面に捉えて、槍と小刀を構える。
振り下ろされる敵兵の剣。兜で表情は見えない。俺は焦りながらもグングニルを横向きに構える。直後、がちり、と金属のぶつかる衝撃が走る。剣を受け止めた衝撃だ。
「くっそおおお!」
力任せに槍を振り抜く。一瞬浮いた敵兵の剣に小刀を押し当てて、その脇腹をグングニルの峰で思い切り殴り飛ばす。
地面に転がり、その勢いで兜の脱げた敵兵は俺を睨みつけて直ぐに立ち上がる。二十代くらいの短髪の男性だ。口内を切ったのか、血と唾の混じった液体を吐き捨てる。
「敵は……倒す……」
右手に剣を携え、再度、走り寄ってくる。……しかし、その足は途中で止まり、地面に崩れ落ちた。敵兵の腹から血まみれの剣が生えてきている。否、背後から刺されたのか。
事切れた敵兵が剣を取り落とすと、その腹からずるりと剣が抜かれて敵兵は支えを失い、地面に倒れた。その背後に立っていたのは、エレックだった。
「無事か! 少年! ミアは!」
ハッとして周囲を伺った。振り返ると、ミアが二人の兵士を相手取って戦っていた。しかし、彼女から攻撃はしない。サーカスのごとく敵の攻撃を避けては短剣でいなしてを繰り返している。
「……殺せないんだ……!」
ミアはきっと、その身で味わった悲劇を繰り返したくないという想いで敵を殺せない。だから自分から攻撃が出来ないんだ。
俺は両手の武器を握りしめる。
俺は違う。これからソラたちの中から一人を殺さなきゃいけない運命にある。……一人も二人も変わるものか。殺すときは、今なんだ。
「いい。やめろ。……少年は手を出すな」
エレックが俺の前に出る。そしてあっという間にミアと二人の敵兵の間に割り込むと、ものの五秒程度で敵兵二人を斬り殺してしまった。
遅れてミアとエレックの元へと駆け寄っていく。エレックは剣を振って、刃についた血を弾き飛ばす。そして、俺とミアを見た。遠くを見るような不思議な目をしていた。
「ミアも気づいてるかもしれないが……少し、気になることがある。今から俺は一人で敵の司令官を探しに行く。この規模の襲撃を成功させている以上、どこかに統率者がいるはずだ」
ミアは言葉なしにうなずく。状況の飲み込めない俺は二人の顔を交互に見てから首を小さく横に振った。
「いや、バラけないほうが良いんじゃないか。被害は大きいかもしれないけど、しばらくすれば義勇軍が勝つ。それまで生き残るほうが大事だ。……立ち回りが重要だって、エレックも言ってたじゃないか!」
「悪い、少年。……事情が変わった。ミアと行動するんだ」
エレックの目が据わっている。こうなってしまった人間はもう、話なぞ聞いてはくれない。
「少年。敵を殺すまでは油断するなよ。殺すまでこいつらは動き続ける。……ミアも、わかってるよな」
「……うん。わかった」
ミアの返事を聞くや否や、エレックは戦場へと走り去ってしまった。
去り際に言っていたエレックの言葉。『敵を殺すまでは油断するなよ』。それは、敵を殺せということの裏返しなのだろうか。
「輝。行こう。後方のほうが、戦況が落ち着いてる」
「い、良いのか、エレックを行かせて……」
「……大丈夫。輝にもいつか、理由は話すね」
そしてミアは、笑ってみせる。それはひどくぎこちない笑顔で、笑顔なのに、あまり見たくない表情だった。
何も答えることが出来ずにいると、「ついてきて」と一言、ミアは走り始めた。俺はただミアについていく。すぐ横で刃物が振り回されている戦場を駆け抜ける。
命がどんどんと潰えていく。俺が人一人を殺す殺さないと悩んでいるのを嘲笑うかのように、周囲では敵兵と義勇兵が武器を振るい続けていた。そしてそこに存在している俺の命の危うさも、同様に儚くて頼りないものだと感じた。
「くそ。……くそ!」
「……く! 輝、止まって」
ミアの言葉で足を止める。目の前に二人の敵兵がいた。俺たちに武器の切っ先を向けている。明確に狙いを定めている。この横を素通りするのは難しそうだ。
ミアは俺に目配せした。
「……通るだけだから、殺さなくていい。一人任せるね」
言ってから、剣を構えた右の兵士に突っ込んでいくミアに俺は無言でうなずき、グングニルと小刀を構える。左に立ちはだかるは戦斧を手にした大男。
二度目の戦闘だ。俺も、さっきよりも落ち着いてはいる。恐怖はあるが、今度は相手の動きから目をそらさない。
「うおおおお!」
いつも訓練に付き合って貰っているミアやエレックの動きより、遥かに緩慢な動きで敵の斧が動く。俺はしっかり土を踏みしめ、加速した。そして相手の斧に速さが乗る前にグングニルで持ち手を突く。手甲に弾かれるも、敵兵も斧を取り落とす。
「ぐっ……」
唸り声をあげる敵兵。俺はそのまま肩から体ごと突っ込んで体当たり。鎧にぶつかっていったせいで肩が痛くなったが、相手を転倒させることが出来た。
軽装の俺はそのまますぐに立ち上がる。仰向けに転ぶ相手の首筋にグングニルの刃先を突きつけた。鋭い切っ先が首筋に触れて、赤い血が一筋。ここから力を入れれば、この敵兵の命は簡単に終わるだろう。
「……う」
俺と大男の視線が交わる。彼の日焼けした顔に、恐怖の色が浮かんでいた。
「……くそ!」
俺は槍を引いて、首元ではなく膝に向けて峰を打ち付けた。
「ぐあああああ!」
男の悲鳴と、厭な手応えが手に残る。
医療の整っていないこの世界だ。もしかしたらこの男は、俺が膝を壊したせいでもう走れなくなるかもしれない。それでも、俺が生き残るためだ。
……ごめん。
「輝!」
ミアに呼ばれて彼女の方を見る。ミアが対峙していた方の敵兵は肩から出血しながら逃げ出しているところだった。腕に力が入らなくなってしまっているのか、剣も持たずによろよろと走っている。
……ミアも、生き残るために人を傷つけたんだ。殺しはしなかったけれど、あのまま戦場から逃げおおせることが出来るかはわからない。武器すら持てない状況では、他の義勇軍の戦士にトドメを刺されてもおかしくはない。
「……! 輝!」
俺を見ていたミアの目が、突然見開かれた。いや、俺を見ているわけではない。彼女が見ているのはその後ろ――。
「――何、が」
殺気を感じて振り向く。さっき膝を砕いたはずの大男が、斧を拾って斬りかかってきていた。
「な……!」
身体が動かない、いや、動いてももう間に合わない! ……躊躇ったのが悪かったんだ。確実に、殺していれば!
油断していたのかもしれない。殺さずに戦いを切り抜けようというのが甘かったのかもしれない。
死が俺に迫る――。
「させない……!」
――大男と俺との間に、一人の影が立ちはだかった。小さなその影は俺の代わりに斧の一撃を背中に受け、……俺に向かって、倒れかかってきた。
「……ミ、ア」
俺はその影の名を呼ぶ。彼女の小さな身体を抱きとめてから、その向こうで大男が別の戦士に首を刎ねられて地に伏せるのが見える。
俺はミアを抱きとめた手を見た。黒くて真っ赤な血にまみれていて、太陽の光に反射してきらめいていた。
「あ、きら……よかった……」
俺の腕の中でミアがそう呟いたのが聞こえた。黒の艶やかな髪が揺れる。
そして、彼女は俺を見て、申し訳なさそうに、笑う。何かを言おうと口を動かして、そのまま目を閉じた。
「何だよ……これ……嘘だ……」
真っ白だ。感情が心を被って頭の中を支配し始める。考える器官が塗り潰される。怒りを覚えて、その向けるべき刃の先にいる大男も首から冗談みたいな量の血を流しているのを見て、その怒りさえ冷めていく。
腕の中で動かなくなっていく少女の重みだけが、真っ白になった俺を現実世界とつなぎとめていた。
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