第一章:迷子
銀のペンダント(1)
【迷子】〔まい・ご〕
自身の居場所が分からなくなったり、自宅や目的地にたどり着けなくなった人。同行者とはぐれてしまった人。もしくは、その状態。
○
高校一年生の冬の話だ。
昼下がりの校内に鐘の音が鳴り響く。いや、それは適当な表現ではない。録音されたチャイムの乾いた音がスピーカーから流れている。
何かの始まりと終わりを決定づけるのにこれほどぴったりな音は無いだろう。無機質で、容赦がない。俺の居眠りが終了させられたのもその容赦の無さゆえだろう。多分。
「今日はここまでだな」
寝ぼけたまま、声のした方を向く。黒板に描かれた図形の横に難解な数式を綴っていた数学教師の手が黒板からチョークを離すところだった。教師のその行動を合図にしたかのように生徒達も筆記用具をしまう。
「ここは重要だから各自復習すること」
数学教師は手早く荷物をまとめて教室を去っていく。生徒たちもそうではあるけれど、チャイムの音を一番心待ちにしていたのは、もしかしたら彼かも知れない。顔もだいぶ疲れていたようだし。
「今のヤツわかった?」
「あー疲れたぁー」
「やっと帰れるぜ……」
本日最後の授業である六時間目の数学が終わり、思い思いのことを口にしながら一息つく生徒達。クラス中の会話が重なり、若干のけたたましさが生まれる。
これもいつもの光景。先程のチャイムと同様に、変わらない日常。およそどこの高校でも見られる光景なんだろう。
「……あー、授業料もったいねえ……」
俺は大きく欠伸をしつつ腕をぐーっと上におしやって体を伸ばす。
そして無駄な抵抗だとはわかっているが、黒板の難解な数式や解説を真っ白なノートに写すべくペンを握る。しかし、すぐに俺の脳が内容の理解を拒んだ。
一応日本語なのに……読めるのに理解が出来ないというのはとても複雑な感情だ。それほどまでに書いてあることが理解できない。
もう、いいか……。ノートももう少しで切れそうだし。
俺は文字の羅列をノートに写すのを諦めて、ペンを机の上に放り投げた。
数学は苦手だ。式や解法の暗記を強いられるので、普段から勉強をする習慣の身についていない俺には難易度が高い。現代文を始めとした『その場で答えを探すもの』は得意なのだが、こと数学においては授業の内容についていけずに寝てしまう事が多い。ふて寝だといわれても反論出来ない。我ながら、情けない。
頭が良い奴が羨ましいな。
ちくちくするような劣等感を覚えながら前の方に座る男子の方をちらっと見た。今の授業についての質問を数人の女子生徒に受けているその男子の名前は、藤谷。うちのクラスというか、学年の男子で一番頭が良かったような気がする。
寝起きの倦怠感の中で呆けていると突然教室のドアが開き、うちのクラスの担任の先生が入ってきた。
「ホームルーム始めんぞー! 席つけー!」
担任の呼び掛けに、教室内に散らばっていた生徒が素早く席についた。
教師の言うことを素直に受け取ろうとしない現代人な生徒達が、この担任の言うことには従ってるのだから、うちの担任はまだ信用が有るんだろうな。
今回の場合は『疲れているから早く帰りたい』っていうのが大きな理由なのかもしれないけれど。
その信用の有るらしい担任は教壇に立つと、生徒がみんな席についたのを見て、出席名簿を開いた。
終礼前のホームルームの始まりだ。これが終われば自由になる。
「ま、皆も早く帰りたいだろうしさっさとホームルーム終わらすから静かにしてろよー。……まず明日の――」
それからは適当な連絡の類が教師と生徒の双方から垂れ流され、受け取ったのか受け流したのかわからないような雑な訊き方をしていた俺は、時折聞こえてくる春休みや終業式の話で、今年度ももう終わりだなあ、などと呑気なことを考えていた。
「――よし。連絡は以上だな」
担任はその手に持っていた備忘録らしきプリントを教卓の上に置いて生徒に改めて向き直る。そして生徒皆が待ちに待った一言。
「じゃこれで終わりまーす。号令よろしく!」
担任の許可を受けた一番前の席の男子が自ら立ち上がりながら号令を掛ける。
「きりぃーつ」
生徒達が起立する時に引いた椅子がやかましく音をたてる。今日は掃除がないので椅子は机の上にあげなくても良いようだ。
俺は周りに倣い、スクールバックを肩にかけて立ち上がった。
「礼ー」
気の抜けたような号令と同時に「さよならー」や「オレ今日部活」等定番の言葉で教室が埋め尽される。
「数学、どうすっかな」
本当に難しかった。お陰でたっぷりふて寝させてもらったけど、どうにかしないとな。
俺がそうやって今更のように一人ぼやいてると隣の席の男子に「そりゃ授業寝てたら難しいだろ」と笑われながら指摘された。
悔しいけど、反論出来ない。俺は何も言わずに教室を出た。
時刻を確認しようと、ポケットから携帯を取り出す。引っかかったのか、一緒に生徒手帳が飛び出してきた。
手帳には引きつった笑いを浮かべた黒髪の男子生徒の顔写真と、氏名欄に「久喜(くき) 輝(あきら)」の名前。
拾って軽く埃を叩いてから、思い出す。
もう少しで高校二年生だ。ということは新たな通学定期を購入するためにも生徒手帳を二年生用のものに変えてもらわなければならない。いつ変えてもらえるんだろう。
「あ」
電車の定期より先に、数学のノートが切れそうなんだった。今日みたいに寝てるばっかりだったら使わないとは思うけど……買っとくか。
俺は生徒手帳をしまうと、携帯で時刻を確認し、買い物をしてから電車に乗ることを決めて学校を後にした。
○
俺の家がある峰尾町方面に向けて走る電車は相変わらず心地好い揺れを乗客たちに与えつづけている。それは、油断をしたら眠ってしまうほどだ。俺は愛用のヘッドフォンで音楽を聴きながら電車の席の角に座っていた。
何気無く自分が座っている方と逆の方の窓を見てみると、町の建物の間から差すオレンジの夕日が眩しい。日が長くなってきたとはいえ、日が落ちるのが早い。帰宅ラッシュには時間が早いので車内はがら空き。ちらほらと他の同校の学生がいるくらいだ。
降車駅である峰尾町駅に着くころには同校の人間もいなくなり、気がつけば車両内に自分ひとりとなっていた。
珍しいな。普段なら数人は乗ってるのに。
若干の違和感を感じたその時、車両感を移動するための扉が開く音がした。ヘッドフォン越しに聞こえるそのやかましい音に気を取られ、思わずそちらの方を見てしまう。
車両に入ってきたのは、気の良さそうな男性の老人だった。
髪も髭も白くはあるが、背筋がしゃんとしている。身に纏うスーツとハットが似合っており、格好いい。老紳士、と呼ぶにふさわしいだろう。
何となく目で追っていると、それに気付いたからだろうか、彼は俺の方に近づいてきた。気まずいので慌てて目をそらす。そしてそのまま自分の足元に視線を固定する。しかし、老紳士の履いていた靴が俺の目の前で止まるのを視界に捉えて、俺は諦めて顔を上げた。
俺を笑顔で見据える老紳士とばっちり目が合う。彼は、その皺くちゃの指で自らの耳元を指さした。
ヘッドフォンを外せ、ということだろう。
確かに不躾な視線を送ってしまったのは確かだ。俺は観念して再生中の音楽を止めて耳に当てていた装置を外す。
老紳士はにこやかな表情のまま、すぐに話しかけてきた。
「やあ、少年。少し良いかね?」
「え、あ。はい……」
曖昧な返事を返すと、老紳士はゆっくりと頷いて「失礼」と一言。俺の隣に座ってくる。
「な、何か用でしょうか……?」
「いやなに、ちょっとお願いごとがあるんだ」
彼は老いた人間特有の枯れた声で話ながら、隣に座る俺に拳程度の大きさの小さな桐の箱を差し出してきた。
「開けて」
「は、はあ……」
敵意は感じなかったので、桐の箱を受け取って蓋を外す。中には銀色のリングがトップにあしらわれたペンダントのようなものが入っている。
「それ、取り出せるかな?」
「え、あ……まあ」
俺は桐の箱に入っているペンダントのリングの部分を摘む。静電気か何かで一瞬ばちりとした痛みを感じたものの、無事に取り出せた。
綺麗なペンダントだ。細い銀色の鎖の先についているリングはよく見ると、小さな模様が彫られていた。文字のようにも見えたが、日本語でも英語でもない。
「……これで良いですか?」
確認しようと隣の老紳士の方を見ると、少し驚いたような表情をしていた。
「成る程……。ううん。成る程。……これは君に預けよう」
「いや、そんな事いきなり言われても……」
別に目利きができるほどこういった宝飾品の類を見てきた経験があるわけでもないので、本物の銀なのかはわからないが、桐の箱に入れられていたんだ。貴重品であることには違いあるまい。
桐の箱に戻して老紳士に突き返そうとしたら、箱ごと押し返された。
「これはね。今の私には必要ないものなんだ。君が持たないといけない」
「は……?」
何を言っているのかよくわからなかった。
気味が悪い。もしかしたら、なんか怪しい人に絡まれてしまったのかもしれない。見た目が格好のいい老紳士だから油断していた。桐の箱は席に置いて、別の車両に行こう。
「君の目を見てピンときたよ。今日の出会いは偶然だが、必然でもあったのだろう。こういうものは必然で受け渡されないといけないからね」
訝る俺のことを無視して一人話す老紳士。俺は無言で立ち上がり、老紳士の隣に桐の箱を置いた。
やばい人だ。さっさと逃げなきゃ。
俺は「そういうの間に合ってるんで」と短く言って踵を返し、歩き出す。
「逃げられると思うかね! 少年よ! 『縁』は出来た! もう運命は確定した!」
背後から老紳士の嬉しそうな声が聞こえてきて、驚いてびくりと反応してしまう。
宗教か? 狂人か? それとも単なるアルツハイマーか?
何にせよこれ以上関わるのは避けたい。何より、怖い。
「ついてねえな……」
それから俺が車両を移動するまで、老紳士は大きな声で嬉しそうに笑っていた。
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