死にたがり達の旅
織倉未然
第1話 白銀の線路
(01/09) 隣室の銃声
宿に着いたのは、街に明かりが灯りはじめた頃だった。路地の入り組んだ先にあり、すっかり崖に溶け込んでいた。壁中が
混んでいる風ではない。
他の旅人に聞いた通り、身だしなみを整えずとも部屋を借りることができた。以前訪れた国では、髪と髭が浮浪者のようだという理由から、宿泊させてもらえないことがあった。連日の野宿が
「シャワーは部屋にあります。夜の十時まで」
「ありがとう」
シャワーが部屋の中にあるだなんて、かなり久しぶりだ。
「洗濯のサービスはなし。部屋着はレンタル。露店に行けば安い」
無愛想だが、親切だった。
もう一度私は礼を言って、階段に向かう。
「あ、おじさん」
一瞬自分のことだと気づかなかった。私はまだ二〇代に入ったばかりで――しかし彼の方がずっと若く、髭も髪も短く刈り込んである。私は先日、顔を洗う時に川に映った自分の姿を思い出した。確かにおじさん、かもしれない。
「その腰の。剣?」
「ああ、これ」
「見せてくれない? ルームサービスするよ。果物とか、お酒とか」
私は腰の剣をベルトから外して、テーブルの上に置いた。
「ルームサービスはいらない。ただ私がここに来たことは黙っていてくれ」
少年はきらきらした目で、剣を眺めていた。鞘を両手で持ち上げ、その重さに驚く。抜いてみて良いか、と目で伺ってくるので、頷いてみせた。嬉しそうに彼は柄に手をかける。顔を真っ赤にするが、剣は抜けない。
「魔法がかかっているんだ」と私は言った。
「じゃあ騎士様なの?」
昔はね、と言いかけて、私は思いとどまった。
記録に残らない者を騎士とは言わない。
「盗品かもしれないだろ」と代わりに言う。
「聞かなかったことにする」と少年は言った。「おじさん、こう言っちゃ悪いけど、悪そうなひとに見えないし」
それは久しぶりに聞く賛辞だった。そう思うようにした。
テーブルの上から剣を取り、再びベルトに収める。
「五階だね」と確認する。
「端の部屋。お客様はもう一人いるけど、気にしないで」
「騒ぐ気はないよ」
「ごゆっくり」と少年は言って、またあくびをした。
・・・♪・・・
私の名前は、イェリック・パスランド。
かつてはさる国の騎士団に所属していたが、ある事情から除籍された。そのことはあまり思い出したくないし、その必要もない。
私は死ぬ場所を探して旅をしている。
その理由については、おいおい語る機会も出てくるだろう。
とりあえずの目安としては、今あたる旅銀が尽きるまでは、生きて方々を見て回ろうと思っている。それまでも、王の使いとしてあちらこちらを行き来していたが、それはあくまで任務であったので、あまり自分の好きなように滞在することができなかった。
騎士団の記録からも抹消されたことで、私は何者でもなくなった。元々、大した家柄でもない。パスランドというのも、知り合いの魔法使いに与えられた偽の名前だ。私が生まれた時から持ってきている名前は、イェリックの方だけだったが、これもこの世界にゴマンといる。
私を示すものといえば、それはこの剣である。
今テーブルの上に置かれた長剣。銘はアウグスタ――当時懇意にしていた魔法使いの名前だ。これのせいで、私は今になっても、八月になれば、あの魔法使いの誕生日が八月のどこかであることを思い出す。具体的な日付は忘れてしまった。あの魔法使いの女と会わなくなってから、もう何年も経つ。
それもまた、私が旅のはじめに置いてきたものの一つだった。
もとより死ぬための旅だ。
記録がどこにも残っていない今、後は私が、自分のことを忘れてしまえば、旅は完成する。そのためには、この剣こそ処分すべきなのだろうが、なかなかできないでいた。思い入れがあるから、ということもある。ただ、この剣を失ってしまえば、本当に私が私でなくなるようで恐ろしいのだ。
剣だけを信じて生きてきた私が、この剣を失ってしまえば、その時私は私でいられるのだろうか。一度は決めた、死ぬための旅も完遂することができなくなるのではないか。
できれば、私はこのアウグスタと一緒に死にたいと思う。
背嚢をベッドの脇におろして、靴紐も解かずベッドに横たわる。
今日はよく歩いた。少し寝て、夕食を食べに行こう。そう思ったのが最後だった。睡魔があっという間に押し寄せてきて、私は眠ってしまった。
嫌な夢を見た気がして目を覚ますと、隣の部屋からブツブツと呟いている声が聞こえてきた。
女の声だった。
それだけで十分不吉だった。
このご時世、まともな人間は一人で旅をしない。危険が多いからだ。一人旅をするのは、自分の力を過信しているか、自暴自棄になった者かに限られる。私の場合は、その両方だ。しかし、自分と同じような人間がそう多くいるとも思えなかった。
しかも、それがまだ若い女とくれば、これは不吉以外のものではない。
女騎士、まずい。
魔法使い、まずい。
女の皮を被った物の怪、これもまずい。
この宿の関係者――それもまずそうだ。
だいたい、こんなケースを構成するまともな女というのがいるわけないのだ。
私はテーブルの上に投げたままの剣を見た。いざとなれば、これを抜こう。鍵は閉めただろうか。体はまだだるく、お腹は空いていたが、我慢できない程ではなかった。
まだ壁の向こうから女のつぶやきは聞こえてくる。
しかし、わたしはもう一眠りすることにした。
まぶたを閉じて、できるだけ何も考えないようにする。明日になっても続くようなら、この宿を引き払おう。それを最後の思考にすべく、わたしは大きく息をしながら、数字を数えるようにする。そうすればよく眠れるのだ。騎士の仕事をしていた頃は、この方法に幾度救われたことか。
一……二……
そして銃声が轟いた。
・・・♪・・・
寝る直前に、大きな音がして、飛び起きた経験はないだろうか。それは爆発のように聞こえたりする。起きてみると当然、何事もなく、ただ心臓がバクバク鳴り、頭が混乱していたりする。私にはこの症状があった。それほど頻度は高くなかったし、仕事柄、実際にそういう音が聞こえる機会も多かったので、医者にかかったことはない。
けれども、今回、私は飛び上がって、いつものように慌てた。急いでテーブルの上の剣を掴み、柄がちゃんと抜けることを確認する。ベッドの淵に腰掛けたままで、何者がやってきても太刀打ちできるよう、呼吸を整える。一つ、二つ、と深呼吸をする間に、思考にも冷静さが戻ってきていた。
今のはいつもの症状だろうか。
それとも――
「ああクソッ! あの野郎! 混ぜやがった!」
隣の部屋から怒号が聞こえてきた。
眠りに落ちる前に聞いていた、つぶやき声と同じ声に聞こえた。
私は窓の外を見た。もう日はすっかり沈んでいて、暗かった。しかし深夜ではなかった。夕食には遅いが、酒を飲むには悪くない時間だ。だから、この時間に起こされたことには感謝すべきなのかもしれなかった。
だが、私はふつふつと怒りがこみ上げてくるのを感じていた。
このはた迷惑な隣人のせいで、わたしは起こされたことになるのか?
文句の一つも言ってやろう、と私は自分の部屋を飛び出し、隣の部屋のドアを蹴破った。
「騒がしいぞ!」
我ながらもっと何か言い方があったんじゃないか、と思うが、口に出してしまったものは仕方ない。
私が見たのは、汚れ放題の部屋だった。布の長い服があちらこちらに脱ぎ捨てられている。たたむということを知らないらしい。あとは本、日記帳、スナックの類(この街に来たときに私も食べた)。宝の山には程遠かった。
窓のそばに肘掛椅子があり、そこに一人の女が腰掛けていた。頭の半分が吹き飛んでいて、窓に赤いものがべったりとついており、彼女の頭の中身から壁の肉片までを、白い月光が包んでいた。もっとも、それは月光ではなく、彼女の髪の毛かもしれない。白い金髪の麗しい少女。残っている方の右目は――真っ赤で、それは闇の中でもしっかりと紅に輝いていた。
「なんだあんた」と彼女は言う。
「私の名前は――」
「私ってあんた、騎士様? わたしを殺しに来たってわけ?」
彼女は乱暴に首を振る。すると窓に張り付いていた髪と肉片が落ち、緩慢な様子で頭の中に戻っていく。
それを見れば一目瞭然だった。
どんな負傷も立ちどころに癒してしまう、不老不死の存在。
私は腰の剣に手をかけた。
その様子を見て、少女は不敵に笑う。
「わたしと殺る気? 勇ましいね」
言いながら、彼女は髪を救う。すでに傷口は塞がっていて、白銀の髪も水のように流れる。
「でもさ、あんたの目を見ればわかるよ、人間」
少女は椅子から身を起こし、立ち上がる。
そうすると、私よりだいぶ背が低いことがわかる。童女というほどではないが、齢で数えて十四、十五といった程度だった。
「あんたのその目は死にたがりの目だ。死に場所を探している。違うか?」
「私の心を読むか」
「鏡を見ろって言ってるんだよ、人間。騎士っぽい
だらだらと話しはじめるこの少女に、しかし私は気を緩めることができなかった。
伝説通りの存在なのだとしたら、この空間の全てを味方につけることができるのだ。何が起こるかわからない、ということだけがわかっている。
「ねぇ、死にたがり」
「イェリックだ」
「知ってる。その剣はイェリック・パスランドの者だ――そう書いてあるじゃん、柄にさ」
こいつ、魔術文字が読めるのか。
「そこでさ、イェリック。わたしと取引しない?」
「私の血は渡さん。そしてお前が、伝承通りのやつなら、人民のためにもここでお前を討つ」
私は剣の柄を握る手を強める。
「クク」と少女は笑った。
「騎士道精神ね。いや何、わたしはあんたなんかの血はいらないよ。最近はグルメでね、人間共の作る食べ物の方がよっぽど性に合っているって気づいたんだ。だから、あんたの言う”人民”とやらにも興味はない。実際、ここ数世紀は人の子一人、食べてないよ」
「でも、お前みたいなやつは、人間の血を吸わないと死ぬんじゃないのか?」
「死ぬよ」さらりと少女は言う。
「そこらへん、あんたと同じなんだよ、イェリック・パスランド。死にたがりの元騎士様。わたしは死にたがりの吸血鬼。だから名前だって教えちゃう。本当の名前だぜ、聞き逃すなよ――」
これが死にたがりの私と、死にたがりの吸血鬼、フランチェスカ・ヴァン・ティエリコとの出会いだった。
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