Perfume
一条紫
第1話クリード・グリーンアイリッシュ・ツイード
「前髪伸びたね。」
予防用のマスクから漏れた低い声に反応して、思い出したように口角が少し上がってしまう。
「これ頑張って上げてるの。ほら、ここに本物の前髪があるでしょ。」
「あっ本当だ。こっちの方がギャルっぽい。」
直接的な言葉はなくても彼が私の小さなイメチェンを気に入ったことはすぐにわかった。
「はいこれ、チョコ。」
なんとなく照れくさくって、季節行事の名前は伏せながら遅刻の原因の品を渡すと、彼は少し驚いた顔をしたもののすぐに目尻にしわをよせた。 「ありがと。じゃ、行こっか。」
二人で会うのは久しぶりだったが、うっすらと感じていた緊張感は渋谷の街の喧騒に連れ去られてしまった。
初めて彼に会った時のことは、完璧とは言えないまでもよく覚えている。大学を卒業してからも定期的に会う数少ない友達に誘われた飲み会。渋谷。ど定番。駅からしばらく歩いて、さらに地下に降りたチェーン店。電波の届かなそうな奥の席から、友人に手を振る数人の人影が見えた。そのうちの一人、恐ろしく細いシルエットと肌の白さを際立たせる黒のニットを纏った男と目が合った。
「私今日帰らないな。」
直感でそう思った。
「何飲む?俺、ビール。」
彼から手渡されたメニューを一応チラッと見て私も同じものを注文する。今日一日何もしていないのにお疲れ様、と言うのは少し違和感があったが、土曜の道玄坂を歩くのは一苦労だったな、と自分を納得させて冷たいグラスを彼のより少し下に軽く当てた。
「ここ、オススメの料理があるんだよ。あ、これこれ、おでんと牛すじ!それと〜オムレツも!」
彼が提案するメニューに頷くだけで注文を済ませる。彼が気を遣って食べたいものを聞いてきても、これと言っては浮かんでこない。
と言うのも、彼と会うのは大抵私含め数人の飲み会か、彼が泥酔して鬼電してきたときに介抱のために飛んでいくパターンが多く、こんな風に二人でしっぽり飲むのは二回目だったから。
一杯目のグラスが空になり彼が好きな日本酒を注文した時、また今日もベロベロに酔ってしまったらどうしよう、という考えが浮かんだ自分に嫌気がさした。私は何を考えているんだろう、と。
「今日は大丈夫だよ。」
私の考えを見透かしたように、目を細めながら彼は言った。
一軒目は先日お世話になった分、と彼がご馳走してくれて私たちは定番のカラオケへ向かった。 「相変わらず歌が上手いね。」
この人は本当に柔らかい話し方をするな、なんて思いながら少し照れたようにお礼を言う。私こそ泥酔してマイクを離さない時以外の彼の歌が大好きだ。
飲み会のたびに彼が歌った歌はダウンロードしているし、彼のことが好きで好きでたまらなかった時に聴いていた歌は、イントロを聴くだけで胸の奥が今でもキュッとなる。一滴の水も通らないくらいに。彼の歌を聴きながら彼の肩に後頭部を預け、首筋の匂いを嗅いでみる。うん、今日もいい匂い。この時だけは彼が私だけのものになった気がして、好きだ。
「本当にいい匂い、駿さんの香水って。この匂いをかぐと駿さんを思い出す。」
「へえ、なんか嬉しいな。それってこの香水を俺のものにできてるってことだよね。」
俺のもの、ねぇ。男のひとってなんでも自分の手中に入れたがる。
どんな歌が好きかで、その人がどんな人なのか大体予測できる気がする。この人は飲み会ではノリがいい曲をよく歌うけど、二人の時はしんみりとした、そう遠くはないのにもう二度と同じ気持ちにはなれない、そんな日々を綴った歌を歌うことが多い。
友人の「先輩は落ち着く気なんてないよ、まだまだ遊びたいんだよ。」という言葉が、お酒で流れが早くなった血液とともに目頭のあたりをぐるぐると巡る。こんな繊細な歌を歌う人がそんな人な訳がない、と言う願望にも似た敵対心と共に。
カラオケを出た後は当然のように道玄坂を登って、十字路の角にあるコンビニでお酒や水を買う。それから細い路地に入って、クラブの入場待ちの列を横目に今日泊まる宿を探す。もう何度彼とこの流れを繰り返しただろう。ここに来るまでに幾度か、今日は帰ろうなんて言われたらどうしようかという不安が頭をよぎった。元々私は彼と今以上の関係を望んでいないのかもしれない。それか、仕事も休みでテレビもつまらない土曜の夜に一人家にいることが嫌なのか。いつからか自分の気持ちを隠すことに精一杯で、本当の気持ちに気づけなくなってしまった。
部屋に着くと、先ほどまでの渋谷の騒々しさが嘘のように思えた。コートをかける彼を横目にベッドに腰掛け、今日アプリに追加した歌を目でなぞる。今日もいい歌を歌ってたなあ。ライブラリが充実していくのが嬉しかった。まるで彼と深いところで繋がれていくようで。
『二人は無力で力のない生き物、交わって繋いでる儚さ。』
ふと、彼が歌った歌にこんな歌詞のものがあったことを思い出す。これは今でも私の胸から酸素を奪う歌の一つだ。彼はきっと意味なんて考えていないし、考えていたら歌わないだろう。だってこれ思いっきり私たちのことだから。でもなんとも思ってないから歌えるのかな。なんてことを思いながら、昔ほどは痛まなくなった自分の胸に少しの不安を覚えた。心の痛みも慣れていくものらしい。大人になるってこんなこと?
未来に希望を持ち続けられるように考え事をやめて、タバコに火をつけ、ベッドに寝そべる。元々お酒は強くないから、ソファで缶ビールを開ける彼の隣で、ついでに買ったチューハイに口をつける気も起きない。
「紫は本当にタバコが好きだね。お酒もよく飲んでるみたいだし。体に気をつけなよ。」
「駿さんほどじゃないよ、でもありがと。」
そう言いながら、タバコよりも、お酒よりも、私の心の健康を損ねてるのはあなただよ、なんて心の中でつぶやく。
タバコを吸い込んだ時の、ジジッ…という音が好きだ。禁煙していた時も、映画のワンシーンでこの音が聞こえてしまうと、タバコを吸いたいという欲求に勝てなかった。私は本当に自分の欲求に勝てないなあとつくづく思う。彼と初めて会った時も、そう。
酔いが少し冷めたタイミングでシャワーを浴びて、彼を待つ間に缶チューハイに口をつけてみた。分散した熱が再び顔に集中する。半分ほど体に流し込んだところで軽い眠気に襲われてベッドに寝転び、眠らないようにと今日何本目か分からないタバコを口にする。禁止されている寝タバコって何でこんなに美味しいんだろう。乾かすのがめんどくさいからと洗わなかった髪から、ふわっと彼の匂いが香ってきた。タバコとまざると大好きな匂いが完璧になる。
「待った?」なんて言いながら髪を濡らした彼が私の顔を覗き込む。本人は無意識だろうが、この人は行動の節々に私のツボを刺激してくる癖を持っている。髪をかけあげながら口の片端だけを上げる仕草とか。
彼はすぐに私に触れたりはしない。二人で横になって、お互いの体がぎりぎり触れる距離を保って、話して、目を合わせて。私が恥ずかしくなって目を伏せると、おでこや頬にチュッと音をたててキスをする。そうしてから体勢を変えて私に覆いかぶさり、更に優しいキスをくれる。
「手冷たい、触らないで。」
そんな照れ隠しの私の言葉を彼は口角を少しあげただけでかわして、優しく執拗に私の体に指を這わせていく。
冷たかった彼の指先がだんだんと熱を持っていく頃には、私は冗談を言う余裕すらなくなって、次の動きへの期待が溢れ出さないように必死に唇を噛む。この一年間で、彼は私の体のことだけは全て把握したようだ。足先まで伝わる甘くて強い刺激に耐えれなくなって、彼の首にしがみつくと、いつもの匂いがふっと香ってひどく幸せで、それでいて耐えきれないほど切ない気持ちになる。ぎゅっとつぶった目を開けて彼の表情を伺うと、彼も別の意味で切ない表情をしているのが見えて、胸の奥が短く跳ねた。
体に相性があると言うことは彼から教わった。私たちは本当にそれだけで繋がっている。この世で一番贅沢で、そして儚く、たまらなく愛しい関係だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます