第12話 とらいあんぐるデート たいせつなのは、どちらですか・・・?
腕時計を確認すると十一時五分を示していた。集合時間から五分が経過した、集合場所である東京テレポート駅の改札前。お盆と年末限定でこれまでに百回は訪れている、慣れ親しんだ国際展示場駅の隣の駅だというのに、カップルや家族連れであふれかえるその駅は、生粋のオタクが一人で突っ立っているには居心地が悪く・・・。スマホで新作ギャルゲの情報をサーチしながら、本日のデートの相手を待つ。
「・・・お待たせ」
「・・・しおらしく下を向いて金髪ロングを微風になびかせている立ち絵は、さすがヒロインぽいな。遅刻してきたことを除けば・・・いや、遅刻してきたことにうしろめたさを感じているのなら逆にポイントアップだな」
「へぇ~、英梨々とのデートの時もそうやってちゃんとヒロインできてるかどうか評価するんだ~」
「これは人生で恵としかデートしたことなくてのことで、その・・・、で、なんでいる?」
金髪ロングヒロインこと澤村スペンサー英梨々の横に立っていたのは、そして声を出すまで気が付かなかった人物は、メインヒロインにして我が妻でもある安芸恵だった。
「それなら、英梨々の車で一緒に来たから」
「それ理由になってないから。面接のときにアイスブレーキングに交通手段を説明してもらうくらいどうでもいい情報だから」
「・・・あたしが呼んだのよ。三人がよかったから」
英梨々にしては高慢さのかけらもない小さな声でつぶやく。顔はあいかわらず伏せられていて細かい表情を伺うことはできない。全員が雪の日の車の中の事件(第十話参照)の当事者であるだけに、その理由をたずねることはできなくて。
「まぁ、せっかく三人でお台場に遊びに来たんだし、楽しもうよ」
恵の号令とともに、違和感を覚えながらも三人のデート崩れがスタートする。英梨々と二人きりでデートするにしろ、恵と三人で遊ぶにしろ、英梨々の気持ちを向けさせればよいわけで。
「よし、それじゃあまずはノイ○ミナショップだな」
「え~、やめようよ~。わたしたちの恥ずかしいグッズとかいっぱいあるし」
「気が合うわね恵。どこぞの同人ショップみたいにあたしたちが凌辱・・・じゃなかった。幸せな営みをしているのをねつ造されたうえに見せびらかされる本に出くわさないでいいだけマシだけど、あまり行きたい場所じゃないわよね」
「あの、二人とも何を言ってるのかわからないんだけど?」
「グッズ展開ほとんどないあんたにはわかんないでしょうね」
「あったとしてもはだけてたり、お風呂上がりだったり、下着姿だったりっていうのがない人にはわからないよね~」
「そうね。いつの間にか『冴えない』があたしの代名詞になってるのも気に食わないわね」
それにしてもあんたらよくチェックしてるな。
* * *
「運転お疲れさま。あの、英梨々、ちょっといいかな」
恵は目的地の駐車場に車を止めて息をついている英梨々に話しかける。
「まず、メールありがとう」
「あれは・・・」
突然の話にリアクションを取れずあたふたする英梨々に、恵は言葉をつづける。
「それでね、英梨々。わたしからもお願いがあるんだ。もし、倫也くんがわたしを選んだとしても、英梨々は blessing software で描きつづけてくれないかなぁ」
「・・・っ。・・・あんた、それがあたしにとってどれだけ辛いことかわかっていってるのかしら」
「なんというか、フェアじゃないなぁって思って」
英梨々はこぶしに力を入れながら、何も言わずに足元を見ている。
「じゃあ行こう、英梨々。倫也くん待ってるから」
恵は英梨々に降車を促して、自分はそそくさと集合場所である駅を目指して歩く。車の扉が閉まる音のあとに、自分の背後から固いヒールを叩く音が迫る。
「・・・今度は負けないから」
恵は声の小さな宣戦布告をしっかりと受け取りながらも、後ろを振り返ることもなく、前を向いて倫也の待つ駅へと向かう。あとはもう、なるようになる。そこで自分もみんなも笑えるように善処するだけだから。
* * *
「着いたよ」
恵を先頭にして歩くこと数分。足を踏み入れたのは大型レジャー施設。コミケ開催時に注意が必要な場所として有名な施設だ。有明の会場から青海の会場へ間違って電車で移動してしまうと、リア充があふれる中を非常に肩身の狭い思いをしながら通り抜けることになる。多くの場合、皆の視線をいろんな意味で集める可愛い女の子が描かれた紙袋片手に持って。
ちなみに、徒歩で橋を渡るルートを取ると、待機列も伸びてるし、オタク率も高いしで、安心できるルートなんだけど。
「何からみようか?お洋服がいいかな、それとも小物がいいかな?」
「恵、あんたお目当ても調べずに何しに来たのよ。それじゃせっかくのサークルチケットがあったって一般入場者に先を越されるわよ。まぁあたしの場合は、パパとママ、高坂茜に他のコネでだいたい目ぼしいものは手に入るんだけど」
「あ~だって急だったし。というか、ショッピングの楽しみって適当にお店をぶらついて、いいなって思えるものがあったら手に取って見てみることじゃない?」
「サークルチケットでも十時からルールは守ろうね・・・。それに英梨々よ、お目当てのものがだいたい揃ったら、島中をくまなく回って掘り出し物を見つける楽しさを知らないのか」
「知らないし、やりたくもないわね。あんな人がゴミのようなところ」
「人混みな・・・」
「ねぇ、二人とも。こっちにメガネ売ってるよ」
遠くの方で声がして前方を見る。恵がいつの間にか通路の先の方でこちらを振り返って手を振っていた。英梨々と顔を見合わせてから恵に追いつく。
「ほら、倫也君もメガネの度が合わなくなってきたっていってたし、英梨々はいつもジャージに合わせた黒縁メガネでしょ?新しいの選んでもいいかなと思って」
「ジャージに合わせてるわけじゃないわよ。確かに十五年は替えてないけど」
メガネと言えば俺たちの関係を象徴するようなアイテムで。恵との初デートで俺にプレゼントしてくれたもので、英梨々が決意をもってプロになるときに送ったもので、俺と恵と英梨々の絆として今でもしっかり保存しているものであって。
今日はもともと恵を差し置いて英梨々とデートする予定であったところに、三人でメガネ売り場に来るなどという何かの因縁としか思えない状況に薄く嫌な汗が出る。まぁ二人の様子が至って普通なのに救われているんだけど。
「ねぇねぇ、こんなのはどうかな」
恵が英梨々に銀縁の細いメガネをかけさせる。
「う~ん。やっぱり英梨々は金髪がきれいだから黒縁みたいなしっかりした色の方が似あうね。考えてみれば緑色のジャージもきれいな金髪にしっかりと合ってるし」
「それって褒めてるのよね。バカにしてるわけじゃないわよね」
「褒めてるとか馬鹿にしてるとかそういうのはなくて、ただただ似合ってるなって、それだけだよ。ねぇ倫也くん、これはどうかな?」
「英梨々には黒とかしっかりした色の方が似合うって言ったばかり・・・」
「違うよ、倫也君にだよ」
恵に渡された銀縁の丸のあるやや逆三角形の形をしたメガネを試着する。
「う~ん、やっぱり今のメガネのほうがいいかなぁ。どうかな、英梨々」
「そうね、それはそれで冴えない主人公という形容詞がぴったりな感じで逆にいいという説はあるわね」
恵は英梨々に微笑みかけると、俺の顔からメガネをさらって展示棚に戻し、ピンクの(似合わない・・・と言ったら一億倍くらいの暴言で返されるから言わないが)プラスチックフレームのメガネを試着していた英梨々に目配せをして、メガネ屋からそそくさと出ていく。
「なんかおなかすいちゃったね」
久しぶりの買い物にすっかり機嫌を良くした恵が俺たちのほうを振り返って言う。先に恵に追いついた英梨々が「昼と言ったらあそこしかないわよね」などと提案し、恵は「え~何かなぁ~」などと言いながら文字通り浮足立って歩く。振り返り際に揺れたセミロングの髪、英梨々とのおしゃべりに大きなリアクションを取るたびに揺れる鞄。久しく見ていなかった楽しそうな恵の姿が、微笑ましくいとおしくて。
だからこそ、今日は英梨々の心を引き戻すためにここに来たという目的を改めて肝に銘じておかねばならない・・・
はずだったのに、普通にビッグサイトの逆ピラミッドの中で三人で普通にイタリアンを楽しみ、偶然ビッグサイトで行われていたロボットの見本市に潜入して三人して小型ロボット同士の戦闘競技会に興奮し、疲れて適当に入ったカフェバーでオムライスやカレーとかグラタンとかという早めの夕食とともに三人で他愛もないことを話しこみ・・・。気が付けば仲の良いどうしのグダグダな休日を満喫してしまった帰り道。
「・・・ねぇ、倫也、恵」
英梨々は立ち止まって、申し訳なさそうに俺たちの名前を呼ぶ。
「・・・これから・・・だから、その、とっ、倫也は、あたしと恵とどちらかと、これからの時間を過ごすのよ」
突然の発言に周囲の時間の流れが止まったかのように、冷ややかで静かな空気が三人の周囲をとり囲む。
「・・・つまり・・・だからね・・・、あーもうっ、倫也っ!あんたがどちらかを選びなさい。恵は電車だから国際展示場駅、あたしは車だから駐車場。倫也は五分経ったらここから動いて、どちらかの場所にいきなさい。いいわね」
恵と俺の賛同を得ることもなく英梨々は踵を返して俺たちの進む方向とは逆向きに歩き出す。恵に目をやると、そんな英梨々の後姿をじっと見つめていて。
「これはとても一生に帰ろうって言える感じじゃないね。最後のセリフの英梨々の目、本気だった。やっぱり倫也くん、今日はあなたが選ばなきゃいけないんだよ。倫也くんとわたしたちの未来を」
恵は微笑みながら俺にそう言い残すと、やはりさっと方向転換をして駅の方向へと歩く。笑顔の裏に迫る感情が見えないほど大人でないわけでもない。
これがゲームだったら、こういったシナリオの分岐点に、どのような選択肢を用意するだろうか。分岐の先にどのようなストーリーをそれぞれ用意するだろうか。高速で頭を回転させて、導いたストーリーに続く一歩を踏み出す。
頭を物理的に回していたから最初の一歩でよろけてズッコケた。などというつまらないオチはないのでご安心を。
* * *
ショッピングモールに併設された立体駐車場の中で、すっかりお馴染みになった高級車を発見する。中をのぞくと金髪美女がスマホを片手に運転席に座っている。息を一回整えてから、運転席のドアガラスをノックする。
英梨々は音に驚いたのか、目を見開いて顔を上げる。目が合ってお互いを認識し、英梨々はおもむろにスマホを鞄にしまい、眉間に皺を寄せた顔で車を降りる。
「・・・ったく、遅いんだから、あんたは。いつもぐずぐずと」
「悪い。車の場所、わからなくてさ。探すのに時間かかっちゃって」
「あたしのせいだっていうわけ?」
「いや、そうだろ」
俺をにらみつける英梨々の目には涙がたまっていることに気が付くのと同時に、英梨々は顔を隠すようにうつむく。
「・・・来てくれないかと思ったんだから」
英梨々はつぶやきと同時に俺の腕をつかんで、自分の方へと引き寄せる。
「・・・あたしを選んでくれたってことで、いいのよね?」
「あ、あぁ」
涙に濡れた上目遣いですがるように言う様は、とても美しく、それでいていとおしくて、今にも抱きしめて頭を撫でてやりたい気持ちを起こさせる。それと同時に、恵の顔が思い浮かんで、胸のあたりにざわつきを覚える。
「ねぇ、倫也。あれ、乗りたい」
英梨々は俺の腕を片腕でつかんだまま、もう片方の手で斜め上のほうを指さす。駐車場からだと赤い足だけ見えて、案内掲示がされているそれは、ここに来るときに確認済みだ。
「わかった。行こうか」
「ちょっと待って鍵と鞄」
英梨々は絡めた腕を解いて、車の中から鞄を取り出して、車の扉をロックする。
「それじゃあ、行くわよ」
英梨々の声とともに二人並んで歩き出す。今度は体の接触がないことに少し寂しさを感じながら。体の接触といっても腕だけで、胸まで押し付けられたなんてことはなかったから、というか英梨々だとよっぽど抱きついてこないとそうはならないから、下心から寂しいってわけじゃないというのは断っておく。
順番がやって来てお目当てのものに二人で乗り込む。順番を待つ間、英梨々はずっとスケッチブックを広げながら何かを描き続けていた。覗き見ようとする俺のことを変態呼ばわりして、体の向きを変えて巧妙に手元を隠しながら。真剣だけど、完全に楽しそうな顔をして描く英梨々の横顔に見とれてしまい、そこに何が描かれているのかに関する興味は相対的になくなっていて。
「何、描いてたんだ?」
スケッチブックを閉じてゴンドラで向かいあって座った英梨々に問いかける。
「ちょっと待って」
再びスケッチブックを開いた英梨々は一心不乱に口角を上げながら鉛筆を走らせる。その姿をいとおしさを感じながら眺めること数分・・・
「できた」
ゴンドラが半分ほどの高度に上がって、東京の街が一望できるくらいになってきたころ、英梨々は勢いよくスケッチブックを閉じて、満面の笑みで顔を上げる。
「で、何を描いたんだ?」
「内緒」
英梨々はスケッチブックを鞄にしまい、鞄ごとそれを抱きしめる。
「なぁ、英梨々。いい顔してるよ」
「あったりまえでしょ。ミス豊ヶ崎だって連続受賞したんだし・・・まぁプロデビュー後は顔は出してないから評判は聞かれないけど・・・」
「いや、そういう意味じゃなくてな。気持ちが出ていたというか、なんというか・・・」
「あたしの、気持ち?」
「楽しそうというか、嬉しそうというか、幸せそうといいうかさ。いつもそんな表情をして、俺のところで絵を描いててくれよな」
英梨々は目じりを落とし、スケッチブックの入ったカバンをより強く抱いて、無言で俺を見つめる。
「それで、完全無欠の blessing software のみんながそんな感じで作業してさ、時にはぶつかり合って高めあってさ、幸せな時間とともに神ゲーを作っていこう」
「倫也ぁ・・・」
英梨々は正面から俺の隣へ移動してきて、鞄を俺とは逆側において、俺の腕を抱きしめる。これだけ強く抱きしめられれば少しは胸の感触も伝わって来て・・・。悶々とする気持ちの中で、お互いに見つめ合う形になり、どちらからでもなくキスをする。
「倫也。これ見て」
英梨々はコートを開いてセーターの裾の部分をまくり上げる。きれいな白い肌を横切る、腰に巻かれたチェーンネックレス。そしてチェーンにぶら下がる一枚のメダル。豊楽園ゆうえんちで、英梨々が少しだけ心を許してくれるきっかけになった俺からの記念の日付入りのプレゼント。
「・・・勘違いしないでよね。どこかのラノベ作家みたいに色気を売り込もうとしてるんじゃないわよ。こんな恥ずかしいの絶対に人には見せられないから、ネックレスにも、ブレスレッドにも、アンクレッとにもできなくて、仕方なくこうなってるだけなんだから」
うつむいてしまって顔は見えないけれども、耳全体が朱に染めながら肩をすぼめている英梨々は、豊楽園ゆうえんちでちょっとだけ変わった英梨々よりも、さらに違う英梨々で。
一息ついて外を眺めると、ゴンドラはちょうど観覧車の最高地点に差し掛かっていた。
「おい、英梨々。ビッグサイトが見えるぞ」
「さっきも行ったし、見てもつまんない。倫也見てる」
「お前なぁ」
完全にデレモードに入ってしまった英梨々とは反対に、俺の方はそれで逆に冷静さを取り戻してきていて。
「前に英梨々と観覧車に乗った時、進路が違くなってもコミケで会えるみたいなこと言ったよな。結局お互いに忙しくて会えなかったな」
英梨々が参加していることは伊織を通して知ってはいたが、忙しさの他にも、自信のなさとうしろめたさと、いろいろで探すこともしなかったんだっけ。
ゴンドラは徐々に高度を下げて、観覧車の骨組みにビッグサイトが隠れてしまう。景色が見えないのはつまらないと思い、腰をひねってレインボーブリッジ側を向く。ほんとうに無言で見つめる英梨々の姿が目に入り、おまけに膝までぶつかって、焦って英梨々の向こう側の景色に目を向ける。
「あ、あっちには、プールのロケハンのために、みんなで合宿したホテルがあるなぁ」
棒読みも棒読みで知っている建物に言及をする。そういえば、子供のころに英梨々と英梨々のおじさんと一緒に来たこともあったよな。フリルのついた水着ではしゃぎまわって、案の定次の日には熱を出して。
「ねぇ、倫也」
名前を呼ばれて英梨々に目を落とすと、変わらずに俺のことをばっちりと見つめていて。
「・・・今日は、一緒に居てくれるんだよね?」
「お、おぅ。もちろん」
今日はとことんまで英梨々に付き合うと決めてここまで来たのだから、迷うこともないはずなのに、それでも少しだけ自分の中には躊躇があって。英梨々の顔から目をそらしてしまう。
「・・・そこのホテル、予約してあるから」
英梨々はぎゅっと俺の手を握る。握った手には、バッチリと汗の感覚があって。英梨々も緊張しているのだと思った瞬間に、堰を切ったようにいとおしさが流れ込んできて。英梨々の顔を肩に抱き寄せ、頭を撫でてやる。
「そろそろ、降りる時間だぞ」
英梨々は肩に抱かれたままコクンとうなずいて俺の体から離れ、セーターの裾を直してコートのボタンを閉め、鞄を胸に抱える。
「さ、行こうか」
扉が開けられて、英梨々の手を引きながらゴンドラを降りる。振り返ってみた英梨々の顔は、二十年前に俺にべったりだったころの英梨々のように朗らかでに笑っていて。あの頃のような幸福感に包まれながら手をつないで歩く。
「ちょっとそっちじゃないって」
「あん?車で行くんじゃないのか?」
「あたしに運転させて連れて行かせる気?」
「免許持ってないもん」
「もう、本当にしょうがないんだから、バカ倫也。それにだいたいデリカシーがないのよ。ホテルに二人で向かうのに運転させるとか、ちょっとは考えなさいよね・・・」
ブツクサと文句を垂れる英梨々の顔は二十年前の顔から今の顔に戻ってしまったけれども、やはり朗らかさがにじみ出ていて。バカといわれようとデリカシーに欠けるといわれようと、何を言われようと可愛く見えてしまう俺は、もうダメなのかもしれない。
* * *
恵は電車に揺られながら、ついさっき起こったことを思い出す。
『こめん、恵。今日は英梨々を選ばせてほしい』
予想はしていたものの、息を切らしてやってきた彼の姿に一瞬でも舞い上がってしまった自分が居たのは確かだ。
『うん、わかった。会社のため、ゲームのため、だもんね。今日はもともとその目的だったんだし』
『そうやって自分に言い聞かせるような言い方するなよ』
上げてから落とされたものだから、フラットな対応を心掛けていても心の奥底の気持ちが表れてしまっていて。
『言い聞かせてるんだよ。自分じゃない、誰かさんに』
『俺ってそんなに信用無いかな』
『信用の問題じゃなくて、性格の問題。倫也くん、何か一つに入れ込んだらそれしか見えなくなっちゃうでしょ』
『坂の下で帽子を拾ったときみたいにな』
歯止めの効かない気持ちが流れ出すのを抑えるのに必死で、皮肉のひとつも言えなかった自分を思い出してはいらだちを覚える。
『じゃあ俺、行くから。気を付けて帰ってな』
『英梨々の車、観覧車のところの駐車場に停めてあるから。二階。英梨々には、車を探してたら遅くなった、っていうんだよ』
『サンキュ。絶対に英梨々を連れ戻してくるから』
長いトンネルを進んでいた電車が地上に出て、速度を落とす。車内アナウンスでは、次の駅に停車する案内放送が流れている。
車の場所を親切にも告げて、言い訳まで考えてあげて、別の女のもとへ走る(物理的に)夫の背中を見送って。仕事のためとはいえ、本当に正しい選択だったのだろうかと今更ながらに思う。自分の気持ちを抑え込んで、自分を犠牲にしてまでそうしなければならなかったのかと。自分はそうしたかったのかと。
それでも、一方的に倫也くんを束縛して、自分のもとにとどめていたところで、本当の幸せはつかめないという確信もあって。だからこそ、そうしなければならなかった、自分はそうしたかったのであって。
電車が停車して扉が開くと乗っていた多くの人は下車し、同じくらいの人数が乗り込んでくる。この駅で私鉄からJRに切り替わるこの列車は、この光景を何度か繰り返しながら恵が降りる駅まで進んでいく。まるで、今日の行動を否定する気持ちが押し寄せては心を埋め、引いては肯定する気持ちが心を埋める、自分の胸のうちのようだと思う。
扉が閉まって電車が動き出す。やはり倫也くんと英梨々のもとに行った方がいいのだろうか。二人が会っている場所なら大体予想がついている。ただ、二人の間に割って入って、どうしようというのか、自分でもよく分かっていない。具体的な想像なんて何もついていない。それで英梨々との関係を崩壊させてしまって、完全無欠の blessing software を結成する夢が叶わなくなってしまったら・・・。
そうこうしているうちに池袋駅への到着を告げるアナウンスが流れ、扉が開く。恵は下車する人並みに押されるように電車を降りる。
池袋駅といえば、いつもワクワクしながら着いたものだった。倫也くんとのデートは決まって公園のフクロウの下で。何度かすっぽかされて今みたいな気持ちで帰ることはあったけれども、着くときは期待に胸がいっぱいで。もちろん、表には意地でもださなかったけども。
そういえば最近はデートもしてなかったなと思う。一緒に住み始めるとちょっとした買い物も、デパートでの買い物も、家でリラックスする時間も、いつ何時でもデートをしているようなもので、それが日常に変わってしまう。今日は英梨々が居たことで、久しぶりにデートのような感覚も味わうことができて。純粋に楽しかった。別れ際に英梨々がどちらかを選ぶように言いだすまでは、三人とも笑っていられた。
今日の楽しかった出来事を反芻してふと気が付く。倫也くんも、英梨々も納得して、自分も苦しまずに済むような、もっと別な選択肢があったのかもしれないと。
恵は歩く方向を変えて、再びお台場に向かう電車の発着するホームに向かう。
今ならまだ間に合うかもしれない。自分の気持ちを犠牲にせずに、完全無欠の blessing software を結成し、みんなが笑いながら、時にぶつかり合いながら、最高のゲームを作るような未来につながるトゥルーエンドへと分岐する選択肢を表示させるイベントに。
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