第4話 そして物語は転がりだす?

 帰り道に腕時計を確認すると、日付が変わるか変わらないかくらいだった。恵はそろそろ眠る準備をしているころだろうか。などと考えながら、駅からのいつもの道を少し速足で歩く。

 心配してるだろうな。と思う。結局、詩羽先輩のことは何の解決策も見いだせないまま帰ってきてしまったことを恵に報告しなければならない。

 駅から数分の道のりは、そんなことを考えている間にすぐに目的地である家へと導く。恵が眠っていることも考えて、インターフォンを押さずに、玄関を開く。

「ただいま」

 少し小声で家の中に呼びかける。

「おかえり、倫也くん」

 部屋の奥から恵の声が聞こえたことに帰ってきたことを実感し、呼吸もゆっくりと落ち着いてくる。恵がいてくれるこの家は、俺の一番安心できる場所になったから。

 廊下の奥のリビングからは明かりが漏れていない。寝室の扉の隙間から漏れる明かりを確認し、寝室へと進む。恵は鏡台に向かって体に保湿クリームを塗っているところだった。

「英梨々、なんだって?」

 俺はことの顛末を説明する。英梨々は伊織に呼びだされたこと、俺を呼んだのも伊織の指示だったこと、伊織には連絡がつかなかったこと。

「ずいぶん無責任な話だね。それは」

「だよな。でも、英梨々にお礼を言えた。長く待たせたのに、引き受けてくれて、ありがとうって、改めて」

「ふぅん。それはいいことだね。で、わたしが『出海ちゃんとごはん食べちゃったから、外でご飯食べて来て』って連絡してから、ずいぶんと時間がかかったみたいだけど」

 恵の含みのある言い方に、少しだけ体に緊張が走る。やましいことは何もないし、普通にあったことを話せばいいだけなんだけど。

「・・・飲み屋を出た後に、英梨々がアニメーズで参考資料を買うのに付き合ってから、夕食を食べて帰ってきたからかな」

「へー。デートだね。それ」

「え・・・デートなの?」

 予想していなかった見解に、変な汗が脇を伝う。

「デートだよ。倫也くんや英梨々がどういうつもりだったかは知らないけど、一般的にいって完全にデートだよ」

「そんなもん?」

「なんだかなぁだよそれ。私が親戚の圭一くんとファミレスに入っただけで頼れるお兄ちゃんフラグだからって言い張ったのは倫也くんなんだけどなぁ」

 ゴミを見るような顔にもならず、いつもどおりフラットに『なんだかなぁ』を入れる恵の姿に、顔がほころびそうになるのを必死に我慢する。注意されている最中だからね。

「まぁ、倫也くんと英梨々のことだから、どうせアニメーズで買った漫画かなんかについて、ファミレスのジョンソンあたりで語り合ってただけなんだろうけど」

「漫画じゃなくて、リトラプの画集な。リメイク版の」

「あ~、はいはい。こういう場合はなんて言えばいいんだっけ、オワコン延命厨乙―でいいんだっけ」

「オワコンじゃないし、延命でもないよ?人気があるからこそリメイクができるんだからね?ていうか、おまえ、ネットでもあんま見かけないような煽り、どこで覚えたんだ」

「とにかく、デートだから。気を付けること」


* * *


「社長、副社長、お時間をいただきありがとうございます」

 ソファに腰かけた詩羽先輩は、テーブルをはさんで向かい側のソファに腰かける俺と恵に深々と頭を下げる。

「えっと、事前に電話でアポ取るのは社会人として素晴らしいことですけど、その時にはすでに家の前にいて、実質的にアポなしと変わらないのはどうかと思いますけど。それも朝早くに」

 詩羽先輩から電話があったのは、その翌朝の、俺と恵が二人でモーニングコーヒー飲もうよなどと言っていた時だ。

「社長が代表をつとめる同人サークルのメンバーだった時代に、その代表の家に勝手に上がり込んで料理まで作っていたのはどこの誰かしら。今もそんな体質でやっているのだと思って来たのだけど」

「今は会社ですし、それにいろんな関係性も変わってますし」

「映画の終わりに一瞬だけ映る表札にしろ、料理の場面で数秒映る左手の指輪にしろ、小道具をもって関係性を主張するしか表現手段がない人が言うのもいかがなものかと思うわよ。今だって、音響担当や美術担当は勝手に居座っているようだし」

「えっと、小道具もない、そもそも関係性すら薄れた、作品に隠喩を込めて伝わるか伝わらないかのメッセージを発信し続けているだけの人が言っても、ただの負け犬の遠吠えにしかきこえないんですけど」

「なんですって、もう一度言ってみなさいよ。シナリオを書けもしない、原画を描けもしない、クリエータでないという理由で選ばれただけのヒロインだというのに」

 この二人の間の雰囲気の悪さは、英梨々と詩羽先輩の痴話げんかよりもずっと重いものがあって。

「もういいから。詩羽先輩、次は事前に電話してね。ちゃんと準備の時間が取れるくらい前に」

 結果的に恵の肩を持った形での仲裁になって、詩羽先輩にはにらみつけられ、恵は、恵の顔が・・・、描写しないほうがいいかもしれない。ほら、メインヒロインにもイメージ戦略みたいのがあって、映画とかでも前髪に隠してみたり、後ろからのカットにしてみたりして、顔自体は出していないからね。それでいいよね。

 しばらくの沈黙ののちに、詩羽先輩は目の前のコーヒーをすすってため息をつく。

「・・・結果として家に上げてもらえずに無機質なオフィスに通されて、そこで数十分待つ羽目になったのだから、自業自得としてご堪忍いただきたいところね」

 結局、詩羽先輩の一言に救われてしまう。

「それで、今日の相談は・・・、ちょっとやり方を変えさせていただければと思って・・・」

 詩羽先輩は目線を下に落とす。

「恥ずかしながら、プロットが全く思いつかなくて・・・。それだから、プロットを組んでから作品として仕上げていくのではなくて、これまでの部分も含めてシナリオ本文を書いてみて、そこから主人公たちがひとりでに動き出すのをとらえて、続きを書いていこうと思うの」

 詩羽先輩は持っていた紙袋から紙の束を取り出す。

「共通ルートのプロットは変えずに、そこであらわれてきた、とても細かい事情や感情に従って主人公たちが動いた結果として個別ルートに入っていく形にしていくつもりよ。それで、これが腐れ縁系ヒロインの原稿なのだけれど・・・」

 詩羽先輩は神束の中から十数枚を引き出す。

「読んでみていただけるかしら」

「あのー、制作進行の観点から言わせもらうと、プロットが先にあって、それをもとに原画とか音楽とか並行して進めていかないと、マスターアップに間に合わなくなるんですけど。ただでさえスケジュールはすでに押し気味なので」

「それは・・・、それは承知の上で、お願いに上がっています。社長の言うところの、神ゲーにするためには、この方法しかないかと。スケジュールに合わせて、つじつまを合わせたストーリーを書くだけなら、造作もないことです。でも、私は、そして社長も、それでは満足しない。苦渋の選択として、受け入れてはいただけないでしょうか。代わりに、私のほうも、こちらのシナリオをできるだけ優先させていただきますので。だから・・・」

 詩羽先輩はテーブルに手をつき、頭を下げながら原稿を差し出す。組織は情熱では動かない。必要なのは、筋の通った論理だ。でも、人を動かすのは、心の底からあふれ出る情熱だ。

「わかった。とりあえず、読んでみるよ。神ゲーになりそうもなかったら、恵の提案どおり、良ゲーを目指してスケジュールどおり動いてもらうよ」

 詩羽先輩は顔を上げて、俺と恵を順番に見て、そうしてくれというシグナルを送る。読んだら絶対に首を縦に振るという自信を裏に感じさせながら。

 原稿に目を落とす。あらすじはこうだ。


 ある日、腐れ縁ヒロインは、既婚者である主人公を、秋葉原にある会員制のバーに呼び出す。酒が進むにつれて、昔の話に花が咲く。会員制のバーは閉店が早く、九時に追い出されてしまう。もっと昔の甘美な思い出に浸っていたかった主人公は、バーではろくな食事をとっていないことを口実に、夕食を一緒にとってから帰ることを提案する。腐れ縁ヒロインは、いきつけの店へ案内するといい、主人公の手を引く。手をつなぎながら秋葉原を歩き、主人公が腐れ縁ヒロインの「いつもの」といって想像するファミレスも通り越し、案内された先は、老舗、新興両方の良質な飲食店が軒を連ねる湯島天神下だった。

 離れていた十年間に、自分が知らない習慣を身につけた腐れ縁ヒロインに寂しさを抱く主人公。腐れ縁ヒロインはラブホテルの前で立ち止まり、一緒に入るように促す。帰らなければならないと主張する主人公を、腐れ縁ヒロインは日付が変わる前には帰れるようにするからと言い、強引にホテルに連れ込む。

 約束どおり短時間でホテルを後にし、日付が変わるころに帰宅した主人公。誰と会っていたかも知っている妻は、主人公に牽制球を投げながらも、終電よりもだいぶ前に帰ってきたこと、そして二人のことを昔からよく知っているがために何もなかったと信じ込んでいることから、安心感に満たされて、夫婦で安らかに眠る。


 と、ここまで。

「これは、アウトだよ。詩羽先輩」

「だめ、かしら」

「逆だよ。腐れ縁ヒロインがホテルに誘う時に、主人公が腐れ縁ヒロインの十年間の経験を知らないことに寂しくなるんだけど、それをちょっとつつくと、キレながら否定して、『こういうところ初めてなんだから。言わせないでよね。バカ』とかつぶやくところとか、主人公の腐れ縁ヒロインとの時間にちょっと嫉妬しながらも、主人公が帰ってきて普段通りのほほんとしてる正妻ヒロインとか、かわいくて、でも、全体的なストーリーがアウトな背徳展開へと向かいそうな怪しさをかもしだししてて、これからどうなるか知りたくて思わずクリックしたくなるようないいシナリオだよ。な、恵」

 ひととおり詩羽先輩に感想を告げたあとに、テーブルへと乗り出した体を起こし、左側をみると、恵の姿はない。

「・・・副社長なら、コーヒーのお代わりを淹れてくるって、さっき出ていったわ」

「えっ、あ、そう・・・」

 開けっ放しの部屋の扉の向こうに見えるキッチンでは、電気ケトルからドリッパーにお湯を注ぐ恵の姿が見える。

「それで、私の提案したやり方で問題ないかしら」

「恵の意向次第、ってとこかな」

「結局、実権を握っているのは彼女なのね」

「まぁ、俺はそういうの向いてないっていうか、恵がその辺の管理はしっかりやってくれてここまできたわけだから」

 詩羽先輩は苦い顔をして原稿の置かれたテーブルに目を落としている。ゲームのクオリティを上げることだけに目が行ってしまって、制作進行などの管理はどうしてもおろそかになってしまう。ましてや、詩羽先輩と英梨々にオファーしている今回の作品ならなおさらで。だからこそ、ここは恵の助けが必要であって。

 数秒の沈黙ののちにタイミングを見計らったかのように、恵がお盆にコーヒーカップを三つ載せて応接室に戻ってくる。

「ちょっと話は聞こえてましたけど、やりかた云々の話はもう社長が納得しちゃってるみたいなんで、ご提案のとおりでいいんじゃないでしょうか」

 恵はコーヒーを各人に配りながら言う。

「それじゃあ、決まり。霞先生、よろしく頼むよ」

 俺と詩羽先輩は目を合わせて、お互いにうなずく。作家としての詩羽先輩、霞詩子を信じているから。というメッセージを込めて。

 詩羽先輩は恵の方に視線をうつす。

「それで、どのような段取りで進めてまいりましょうか」

「それはもう、通常のやり方を変えてしまっている以上、霞先生に合わせるしかないと思うんですけど、できたものから、なるべく早くあげてもらえれば」

「承知しました。缶詰になって作業に取り組ませていただきます」

 詩羽先輩は名刺サイズのホテルの案内を差し出す。ホテルジェファーソン和合。詩羽先輩が和合市でイベントがある時にはいつも泊まっているホテルだ。

「初心を思い出す意味でもよいと思いますので」

 霞詩子の処女作である『恋するメトロノーム』、第二作である『純情ヘクトパスカル』ともに和合市を舞台にしている。blessing software の第一作である cherry blessing のプロットを仕上げた場所でもある。後者を含んでいることに期待するけど、特にそれを確認することはしない。墓穴を掘るかもしれないし。

「えっと、そういうことでしたら、弊社の社屋の一室をお貸ししますので、そこで缶詰になっていただくというのはいかがでしょう。霞先生」

 恵は詩羽先輩に対案を提示する。

「そのほうが監視しやすいという魂胆かしら。少し離れたホテルに閉じこもってたら、何をやっても知る由はないものね」

「えっと、その辺はきちんと書いてもらえるという信頼はありますけど、本読みとかするのにいちいち移動してたらその時間がもったいないというか、無駄がおおくなると思うんですけど」

「あくまで効率性の問題だと言い張るのね。・・・まぁいいわ。それで納得してあげる。それで、私の作業部屋はどこになるのかしら。ここでいいのかしら」

 詩羽先輩はアゴを上げて、斜め下に見下すような形で恵に問いかける。

「あの~、なんでそんなに上からなのかってことはこの際おいておくとして、ご案内しますので荷物をまとめていただけますか」

 そういえばこの二人が本編で絡んでいるところをあまり見たことがなかったけど、いざここで会話をさせようと思うとこんな感じになってしまうの?もうなんか、俺が入っていく余地なんかなくて。

 恵は応接室の扉の前で、詩羽先輩が荷物を整理するのを待ち、詩羽先輩が立ち上がると、無言で応接室を出る。

「それじゃあ、今後ともよろしくお願いするわね、社長」

「あぁ、よろしく頼むよ、霞先生」

 詩羽先輩の挨拶に数十行前と同じセリフを返し、詩羽先輩は俺に微笑みでこたえながら、恵の後に続く。二人の間に会話はない。缶詰部屋に送られるときの作家とディレクターの間の雰囲気なんてそんなものなのかもしれない。知らないけど。


* * *


「倫也、詩羽、ちょっとどういうことよ」

 チャイムも鳴らさずに、社屋のドアを開けるや否や、英梨々が怒鳴り声をあげる。

「柏木先生!?」

 作業部屋にいた出海ちゃんが玄関に通じる廊下に出て、その声に反応する。

「倫也、詩羽、いるんでしょ。ちょっとでてきなさい」

「えぇぇぇぇぇ、出迎えたわたしは無視ですか~?」

 俺と恵と詩羽先輩は、応接室の扉から闖入者のいる廊下へと顔を出す。

「ちょっと英梨々、何の騒ぎよ。こっちは本読みの最中だっていうのに」

「ちょっと、なんであんたがこの会社に部屋を与えられてんのよ。あたし何も与えられてないのに」

「残念だったわね、英梨々。信頼の差、というところかしらね」

 いや、それ、自虐だよね詩羽先輩。英梨々はシナリオができたところから常に確実に原画を上げてきてるからね。早くて、安定していて、最高のクオリティの絵を。

「なによそれ、あたしは常に期限どおりイラスト上げてるし、クオリティだって抜かりないはずよね、倫也」

「そうだな、助かってる」

 詩羽先輩がここで缶詰になっている理由が理由だけに、詩羽先輩との比較の話にならなくてよかったと胸をなでおろす。

「社長はどうあれ、他のメンバーは多少は不信感をもっているのではなくて?」

 詩羽先輩は振り返って、応接室の扉付近で二人のやりとりをみている恵の方を見る。

「めっ、恵、そうなの?」

 英梨々は子犬のような上目遣いで恵に問う。

「ううん、英梨々。全然、まったく、これっぽっちもそんなこと思ってない。むしろ英梨々のことは本当に信頼してる。仕事も早いし、それでいてすごいものをあげてくれるし」

「ほうらごらんなさい、みんなあたしのことを信頼してるのよ」

 部屋を与えるかどうかの話から、いつの間にか自分が信頼されているかどうかの話にすりかわっているというのは、まぁそれが英梨々スペックであって。

「加藤さん、それにしてはあなた、英梨々の姿を見たときに、瞳の奥に一瞬なにか宿るものがあったようだけど」

「あんまり英梨々をからかわないでおいてあげてもらえますか、霞ヶ丘先輩」

 満面の笑みで恵は詩羽先輩に返答する。

 二人の間に険悪な雰囲気が流れる。恵と伊織が仲が悪いのは知ってたけど、この二人の関係もなかなかのもので。

「おし、わかった。英梨々にも席を作ろう。それでいいよね、ね」

 英梨々は期待にあふれた表情をし、恵と詩羽先輩はしらけた表情になり、出海ちゃんは困惑した表情をつくる。

「あ、あれ?」

「柏木先生!こっちです、案内しますよ」

「ふん。あんたに案内されるのは気に入らないけど、一番下っ端だから案内するのが当然なのはわかってるからついていってあげるわ」

 英梨々はまんざらでもない表情で、ニコニコ元気に廊下を進む出海ちゃんについていく。

 で、残された三人はというと、状況が飲み込めずに立ち尽くす俺を見て、恵と詩羽先輩が顔を見合わせてため息をついた。あんたらホントは仲いいんだろ。そうなんだろ。


* * *


 恵は一人で湯船につかりながら、ここ数日の出来事を思い起こす。倫也くんと英梨々が夜に出かけたこと、英梨々がフェミニンなネイビーのワンピースを着て会社に現れたこと。

 霞ヶ丘先輩からもらっているシナリオのとおりにことが進んでいるように思えてならない。さすがに、シナリオのとおり二人がホテルに行ったとは思えないけど、そういう気持ちがあったか、そういう気持ちになったかしたことは確かなようだ。英梨々がシナリオの因縁の腐れ縁ヒロインのように、主人公を意識し始めたためにいつものジャージではなくて清楚で女性らしい服装できたというのもその通りかもしれない。

「なぁ、恵、入っていいか?」

 返事はしない。どう返事をしていいかが分からないから。

「何か、怒ってるなら、理由を教えてほしい。直せるところは直すから」

「別に、怒ってない」

 怒っているわけではない。わかってほしいだけだ。

「じゃあ、どうして、今日は俺に何も言わずに一人で入ったんだよ。いつもはなにかと理由にならない理由をくっつけて一緒にはいりたがるのに」

「それは、倫也くんが一緒に入りたがってるくせに、いろいろとヘタレだから理由をつけてあげてるだけだし」

 倫也くんと入るお風呂はゆったりとした幸せの時間のはずで。

「いや、まぁ十年くらい前は確かにそうだったけど、ほら、さっきだって理由もなしに入っていいかって聞いてるくらいだし」

「ゲーム的には、十年前みたいなほうがキュンキュンの展開だったかもね」

 こういう他愛もない会話も幸せで。

「・・・入るぞ」

「そこは、女の子の事情とかそういうのは考えないのかなぁ」

 倫也くんがお風呂の扉を開けて洗い場に入ってくる。

「いいっていってないんだけどなぁ」

「ダメともいってないだろ」

 霞ヶ丘先輩のシナリオのとおりに英梨々が強引に倫也くんをホテルに誘ったとしても、お風呂に一緒に入るのは全力で拒否するんだろうな。英梨々には、この人なら大丈夫って、そういう感覚がないように思えるから。霞ヶ丘先輩は、力ずくで引っ張り込もうとするだろうから、倫也くんのほうがこの人なら大丈夫って感覚がもてなくて、やっぱり一緒に入れないタイプかな。

 体を軽く流した倫也くんが、わたしが浸かっている湯船に入ってきて、お湯があふれて流れ出す。

 膝を折って向き合って座る倫也くんの脛を、手の甲でなでる。人と比べて、この幸せな時間を過ごせるのは自分だけだと安心していることに、すこしの罪悪感をもって。あぁ、これ原作者が解説したら『正妻の余裕』とかいって、わたしをバカにするんだろうなぁ。

「あ~、なんだかなぁ」

「なんだよ」

「別に」

 お互いに会話をすることもなく、でも、お互いの存在を認め合って、ゆっくりとまったりと心地よい時間が流れる。

「ついに、近づいてきたな。完全無欠の会社に。英梨々にも、詩羽先輩にも、オフィスを使ってもらうことになって」

「そうだね」

 それは倫也くんの目標であって、そうである以上、わたしの目標でもあって。

「なんか、怖いくらいだよ。苦労はしたけれども、これだけ報われてて」

「あきらめの悪さは他の追随を許さないからね。神様もこれくらいで勘弁してくれって感じで与えちゃうのかな。ヘタレのくせに」

 あきらめずに、よくここまで頑張ってきたと思う。ほんとうは、手放しで喜んでいないといけないはずなのに。

「最後のいらなくない?てか、俺ってそんなに粘着質?」

「知らない」

 十年間も、自分の夢に、あの二人のクリエーターに執着して、追い続けて、ここまで這い上がってきたかれを素直に讃えることもできなくて。

「でもさ、少し追いついた気でいるけどさ、そりゃもちろんまだまだ実力差はあって。あの頃みたいに、住む世界が違ってしまって、二人が離れていかなくちゃいけないみたいなことにならないようにしないと」

「いまの倫也君、そして出海ちゃん、氷堂さんはもちろんのこと、波島君はあいかわらずだけど、今のみんななら、それは大丈夫じゃないかな。このまま、頑張り続けてれば」

 こういうことを言うと、完全無欠の会社の結成に近づく喜びとは相反する、不安や恐怖という、できれば避け続けていたい感情と向き合うことになる。わたしには、何もないから。あの日確認した倫也くんの気持ちは『手の届きそうな、頑張ればなんとかなるメインヒロイン 兼 三次元の女の子』としてのわたしに向けられたものだったから。今、手が届く範囲は変わっているかもしれないから。

「でもさ、なんかさ、こうしてるのが一番落ち着くなって思っちゃうんだよな。恵とこうやってゆったりまったりとさ。そんな苦労して夢とか追いかけてとかしなくても、普通に稼いでさ」

「倫也くんはそれじゃあ絶対に満足しないし、というか倫也くんにサラリーマンとか普通に稼ぐことなんてできるわけないし、そもそも、それじゃあわたしが唯一提示した条件も反故にしてることになるし」

 わたしは結局、倫也くんがちらっと語ってくれた、わたしが余裕でいられる、転のない幸せなだけの世界を否定する選択肢しか選べなくて。

「だな。それじゃあ結局、こんな落ち着く空間もなくなってしまって、本末転倒だよな」

「あ~、やっぱり、なんだかなぁだよね。それ」

 消去法で選ばれただけなのに、わたしの方はどこまでもあなたのことが好きで。

「恵、お前がいなかったら、俺はここまで来られなかったし、これからも走り続けるのもできないと思う。あぁ、仕事上のパートナーとしてというだけじゃなくてな。こういう、束の間の幸せな時間も提供し続けてよ」

 勢いよく立ち上がり、それでできた波が彼の顔にしぶきを飛ばすことも気にせず、湯船から出ると、シャワーを開く。目からあふれる涙を、彼に見られないように。

 ほんとうに、なんだかなぁ。そうやって、わたしの好きな気持ちも、そのほかの感情だって全部、もっと強くなることしか許さないんだから。


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