五.

 背丈よりも高い草むらの中を歩く。

 駅を探して。

 いちど思いついて、携帯電話で誰かに連絡を取ろうとしたのだが、どこへ移動しても圏外だった。

 どうりで誰からも着信がなかったはずだ。

 まる二日充電をしていないから、バッテリーがそろそろ心もとない。

 今日は、前日の教訓を生かして空きびんにたっぷりの水を用意してきたので、それを飲みながら歩きまわる。

 自転車は余計な荷物になるだけとわかったから、借りてこなかった。

 日が高くなる。

 気温が上がる。

 草があるていどかきわけられて、けもの道のようになっているところを選んで進んでいくと、目の前がぱっとひらけて、昨日も見たような円形の広場に出た。

 昨日と違っているのは、広場の中央に立っている踏切の柱が黄色と黒のまだら模様ではなく白一色で、上のバッテンにRAILWAY XINGと書かれている点。

 遮断機はついていないようだった。

 ハリウッド映画で観たことのある、荒野に立つ踏切を思わせた。

 昨日のように電車が通ることを期待してしばらく待っていたけれど、何も起こらなかった。

 お腹が鳴る。

 腕時計を見ると、正午を過ぎている。

 それほど遠くないところに、草原の中に一本、木がにょっきり立っているのが見えたので、その下まで歩いていき、腰に提げてきた包みを解いた。

 朝食のご飯をわけてもらって作ってきたおにぎりにかぶりつく。

 そのとき、目の前の草むらが、がさがさがさ、と動いて、何か黒っぽいものが飛び出してきた。

 よくよく見てみると、それは、肌の色もつやつやとした、一尾のまぐろだった。

 切り身になっていないまぐろ。

 写真で見たことはあったが、実物は初めてだ。

 想像していたよりも大きい。

 体長は、幼児の身長ほどもありそうだ。

 横向きになってぴちぴち跳ねているが、弱っているようには思えない。

 じっと観察していたら、目が合った。

 いや、合ったように思えた、というべきか。

 魚の眼はどこを見ているのかよくわからない。

「珍しいかね」

 不意に言葉をかけられて、きょろきょろする。

 人影は、見あたらない。

「魚が陸にいるのは、珍しいかね」

 それでやっと、声を発しているのが目の前のまぐろであることに気がついた。

 目を向けると、口がわずかに動いて、にやりと笑ったかたちになる。

 というより、笑ったかたちになったような気がした。

 残念ながら魚と話す機会はこれまでなかったので、表情はよく読み取れない。

「そうか。これは夢だよね」

 頬をきつめにつねってみる。痛い。

「そうかもしれないが、そうではないかもしれない。夢とは何か。寝ているときに見るもの。現実ではないもの。ではなぜ現実ではないと言えるのか。それは夢が論理的ではないからさ」

 まぐろが言った。

「では論理とは何か。自分の知っていることと矛盾しないもの、自分の予想と矛盾しないもの。我思う、故に我在り、という言葉を知っているね。自分の論理的思考につながっている世界。それが現実。では論理的思考のもとはどこからくるのか。それは知識だよ。魚は海にいる。その知識があるから陸に魚がいるのを見ると夢だと思う。だが、その知識がどこから来たのか考えたことはあるかね。自分で魚が海にいるところを見たかね。海のない県で生まれて、今も海なし県に住んでいるのに?」

「そう言われると、ないかもしれない」

「そうだろう。それなのに魚が海にいるということを知っているのは、誰かから教えてもらったからだ。そして、それが間違っているかもしれないと疑ったことはないだろう」

 ここでまぐろは一息ついて、びよんと大きく跳ね上がり、さきほどとは左右逆の側を上にして着地した。

「失礼。こうしないと疲れるのでね。さて続きだが、では実際その知識が間違っていたとしたらどうだろう。魚は陸に住んでいる。もしそういう知識を持っているとしたらこの光景を夢だとは思わないだろう。知識から導き出される論理的思考と矛盾しないから。論理性とはつまり、自分が疑ったこともないにもかかわらず正しいと信じこんでいるものをもとにして作り出されている。だからもし万一この世に真理というものがあって、それが全て、いま我々が正しいと思っている知識の正反対をいくものだったら、我々が考えている現実というのは、みんな夢なのかもしれないだろう」

「あ、でも、水族館でなら見たことがあるかも」

「それはこの場合、有効な議論ではないね。水族館というものは、それが正しいか正しくないかにかかわらず、魚は海に住んでいるという知識を前提にして作られているから、そこで魚が水の中に入っているのは当然のことだ。ある知識の内容を具象化しているだけであって、その知識が正しいという証拠にはならない」

 そう言うと、まぐろは、もういちどにやりと笑った。

 今度はさきほどより確実に、笑ったといえるような気がした。

 それからその姿は、背景の草むらに溶け込むように、徐々に徐々に薄くなり、しまいには消えてしまった。

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