第34話 ガンタン
唇に熱を感じる。
眠りの淵から意識が戻されて来たので薄く目を開けるが、まだ周囲は暗いようで、朝を迎えていないように思う。
ただ、いくら暗かろうとさすがに十センチ以内に人の顔があるなら感知できる。
近すぎて焦点が合わないほどだが、僕の懐へ無防備に飛び込んで来て、これほどに迫ってくる人物は他に考えられない。
寝起きに温かな感触を覚えるのは、この世界に来てから当たり前になったので特に驚かなくなったけれど、唇はさすがに初めてだった。
その結果が、おはようのキスである。
改めて、とんでもない世界に来てしまったと実感した。いやこれは、父親を起こす方法としてマウストゥーマウスを選択するアムちゃんの感覚がとんでもないだけなのかもしれないけど。
こちらの世界に来てから早寝早起きにシフトしている僕は、年越しの瞬間には見事に寝落ちを決めており、新年を認知するよりも先に初キスを済ませた事になる。
あれ、もしかすると、この世界だと明けましておめでとうの挨拶はキスなのかな?
「チューチュー、早く起きないと
僕が起きたのを知覚して、いたずらっ子な発言を新年の挨拶に代えさせてもらわれた。
視界がハッキリしてくると、アムちゃんの頭頂には、明言するのが憚られる超有名キャラクターの耳らしき物体が生えていた。そう、あの大人気テーマパークのネズミだ。
先日買っていたケモミミの中にこれがあったのを思い出す。
そうか、新年は子年か。
ネズミの鳴き声をキスのチュー、マウスの呼び名とマウストゥーマウスとかけてくるとか、アムちゃんは策士だなあ。
そんな策士に
新年早々、初夢を見ている気分だ。
「これを着てください」
言われて、半纏を渡された。いかにも和風な防寒具だ。
アムちゃんも着るが、やっぱり金髪の子が半纏を着るのは違和感がある。でもこれはこれで可愛いと思えるからやっぱり可愛い子って最強だ。
「ファツモーデ、をやっているらしいので行ってみませんか?」
なんだろうそのフランスあたりのオサレな行事みたいなのは。
暗い中でも足取り確かなアムちゃんを見失わないように付いていくと、靴を履いて建物の外に出る事になった。
空はやんわりと明るくなってきていて、日の出が近いのを感じさせるが、冬の夜明け前なのでとにかく寒さがひとしおだ。
少しでも寒気に肌を晒さないよう半纏の首周りを抑えながら歩いていくと、煌々と明かりが灯る一角に辿り着いた。
例のハリボテ鳥居がライトアップされている。
奥には魔女っ子巫女の服で、ヒラヒラと織り込まれた白い紙が垂らされた魔法ステッキを手にしたヨシエさんが待ち構えていた。
「やっと来てくれた……すごく待ってた気がするわね」
深夜に起きると言って、夕方頃には就寝していたので、今が夜明け前の頃だとすると、数時間は待っていたのだろうか。
あちらの世界の常設神社であるならば暇ではないかもしれなけれど、初詣の文化が失せているらしいこの世界では、仮設の神社を設けたところで参拝客が来てくれないようだ。
ヨシエさん個人はやる気満々気合満点でも、事前の告知が無ければ来てもらう機会を産み出すのは難しいと教えてくれているようだった。
ありがとうヨシエさん。身を持って教訓を呈示してくれたんですね。そんな恥ずかしい恰好をしてまで。
「神社は二礼二拍一礼よ。拝むだけじゃ神様に気付いてもらえないから、ちゃんと柏手を打たなきゃダメよ」
へぇ、そうだったのか。神社の事を知っていると自分では思っていたけれど、そのような作法があるとは知らなかった。
でも今の僕は神様にではなく、魔女っ子巫女さん姿のヨシエさんが尊くて拝んでいただけなんだけど。
よほど暇なようで、みっちりと参拝の作法を教え込まれてから、柏手を打ち神様への挨拶をする。
でも、挨拶したい神様がどちらにいるのか分からない。
「神様はどちらにいるんですか?」
「そうね……そろそろじゃないかしら」
ヨシエさんが魔法ステッキの先を向けた方を見ると、瞬きするごとに空に光が拡がっていく。
新しい年の日の出だ。
初日の出である。
「天照様がお顔を覗かせたわ。貴方達、きっと今年は良い年になるわよ」
陽の光を背にしたヨシエさんのおかっぱ頭が美しく輝いていた。
+*+*+
「ひえっ……」
「何してるのおにぃ! 早く水を付けてひっくり返して!」
聖薇ちゃんがスレッジハンマーを振りかざし、僕の脳天をかち割ろうと振りかざしている恐怖に、腰が引けっぱなしで近づけるわけがない。
実際にはスレッジハンマーではなく、杵なのだが。
ぺちん。
辛うじて餅米へ触れることに成功する。
感触に気付くと同時に手を引き、直後、振り下ろされる杵。
ボフッ、と重々しい響きを放ちながら餅米が餅へと変化していく。
「せっかく引き合わせた二人の共同作業がギクシャクしてるじゃないか。こんなんじゃ将来が不安だなあ」
チアキさんが外野から余計なお世話を送ってきた。
ねじり鉢巻を渡して、僕にこのような危険な作業を押し付けてきただけのくせに。
「おにぃ、撞く役と代わった方がいい?」
「いやいや、僕にはそんな重いもの持てないよ」
「乙女か!」
乙女らしくもなく杵を軽々と振りかざす聖薇ちゃんはどうなのさ、とは絶対に言えない。本当に頭へ振り下ろされてしまいかねない。
その後、見かねた聖侍さんが聖薇ちゃんと交代で撞く役と捏ねる役を入れ替わり、親子らしい見事なコンビネーションを披露した。
次々と餅が生産され、周囲に集まってきた人々に振る舞われている。
現代としてはむしろ貴重なくらいの日本らしい正月の行事が繰り広げられている。
アムちゃん対エリスちゃんの羽根突き勝負は白熱しており、互いに同じくらいの墨が顔に塗られている。
餅を食べている人の中には、振袖姿の人もいる。僕の目には、金髪と振袖の組み合わせは斬新に見えるけれども、ここにいる人達にはそうでもないのだろうか。
このような正月を迎えることになるとは半月前まで思いもしなかったが、しばらくこのような行事と縁がなく、この世界に来ていなかったらまた、年が変わった印象の薄い元日を迎えていただろう。
新年って高揚した気分になるものなんだと思い出した。
何かが変わるんじゃないかって期待が自然と湧き出てくるような。
「おにぃ、今年もよろしくね。はいお餅」
聖薇ちゃんから掛けられた声に振り向くと、持ってきた餅を皿から摘んで口に咥える姿があった。
持ってきてくれたのに自分で食べるのか、と思っていたら、なぜか咥えたままこちらを凝視している。
「んーんー」
咥えたままなので口が開けず、言葉を成していないから意図が通じない。
とりあえず、僕からもよろしくの挨拶を返そうと口を開いたその時。
背伸びするように動いた聖薇ちゃんの顔が近づき、餅の端が僕の口に投入される。
反射的に噛むと、聖薇ちゃんの顔が離れていき、二人の間には伸びた餅のアーチが描かれた。
「おー成功させたか。こいつは縁起がいいや」
また妙な一計を
伸び続けて細く垂れていく餅を器用に舌で絡め取って口に吸い込んでいった聖薇ちゃんが、ドッキリを成功させた喜びに満ちた顔を見せる。
「今度はおにぃとの共同作業が成功したね」
「んぐっ」
見事にドッキリさせられた僕は、餅を喉に詰まらせそうになっていた。
これで死んでは縁起が悪すぎるので、どうにか喉を動かして
一瞬の出来事で判然とはしないが、それほど大きくはない餅が二人の口に共存した瞬間、餅のように柔らかそうな聖薇ちゃんの唇が触れていた可能性は否定できない。
餅を舌が舐め取っていく仕草が艶めかしく感じられてしまうのは僕が意識しているからだろうか。
「おにぃのお餅、ごちそうさま」
やっぱり聖薇ちゃんって性質が職業と相反しているような。
僕の白い純情を吸い取っていった小悪魔を前に、新しい年も翻弄されそうな予感が満ちていくのだった。
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