贋作士の瞳と真実

和泉茉樹

贋作士の瞳と真実

     ◆


 画廊ユージンに就職して三年が過ぎた。

 国立の美術大学を卒業した俺は、ユージン氏に認められて、すんなりと就職し、三年の間、様々な仕事をこなした。

 今の役職は、派遣鑑定員である。

 で、いきなり社長のユージン氏の指示により、某国の片田舎へ出向くことになった。

 超音速旅客機で一時間、車で二時間の移動の末、その長閑な村にたどり着いた。郷士のものだという目的の屋敷の前で、初老の男性が出迎えてくれた。

「画廊ユージンから参りました、ヨシハル・フジイと申します」

「遠いところまで申し訳ありません、ヨシハルさん。デック・カードと申します」

 屋敷に招き入れられたが、シンとしている。使用人も少なそうだ。

 案内された部屋で、俺はその絵画と対面した。

 二十年前に死去した、コールス・コットンという画家の作品で、マイナーではあるが、俺も写真を見たことがある。

 しかし、よくできているな。

「よく出来てますが、真作ではないですよね」

 真作ならこんなところにあるわけはない。

 それに、このコールスの作品「浜辺にて」は、つい先日、俺の情報網にも引っかかる動きがあった。

 カードさんが困ったような顔で、笑いまじりに言う。

「真作のつもりで買いましたけどね、迂闊でした。まさかもう一枚あり、それがオークションに出品されるとは」

「正しく迂闊です」

 容赦なくそう言葉を投げかけつつ、目の前の絵画を凝視した。

 額も真作と寸分違わないから、相当な手間がかかっているのは間違いない。

 しかし、それにしても……。

「もっとよく見せてもらっていいですか?」

「ええ、はい、どうぞ」

 俺はキャンバスに歩み寄り、口元をハンカチで押さえつつ、じっと眺めた。

 どれだけ見ても、新作のような迫力がある。絵画が生きている、と表現してもいい。気持ちのこもっていない、雑な贋作ではないのだ。

 画家の執念、精魂が感じられた。

 もちろん、感覚的に、だけど。

「社長からは」俺はカードさんを振り返った。「それほどの額は出せないが買い取ってもいい、と指示を受けています」

 ホッとした顔で、カードさんが値段を訊いてくるので、俺は社長の指示よりわずかに安い値段を提示した。カードさんが躊躇う素振りを見せたので、俺は即座に事前の予定額を、さも譲歩したかのように口にして、それで交渉は成立。

 もう一度、「浜辺にて」に歩み寄り、よく眺めた。

 まるで真作だ。

「どこのどなたからお買いになられた?」

 カードさんは少しの躊躇いの後、画商の名前を口にした。

 ここから追跡するのが、本当の俺の仕事になる。目の前にある真作に限りなく近い贋作は、ユージン氏が手配した特別な運送業者が、少しも傷めることなく、画廊へ運ぶだろう。

 その打ち合わせをして、俺はカードさんに贋作を売りつけた画商の情報を整理し、その場を離れた。

 追跡は簡単ではないが、今回は比較的、スムーズに進んだ。

 二週間後、俺は某国の地方都市で、一軒の集合住宅の前に立っていた。

 外装こそしっかりと修繕されているが、現代的な生活環境ではないだろう。ドローンによる配達を受け付けるレーンは辛うじてあった。

 一階でやはり前時代的な端末を前に、事前に調べていた部屋の番号をプッシュし、呼び出す。

 すぐに返事はない。苛立ったわけでもないけど、もう一回、ボタンを押してやる。

 ブツッという音でマイクの向こうに誰かが立ったのがわかった。

「誰ですか?」

 声音からすると、俺よりも相手の方が苛立っている。

「ユージン画廊の、フジイ、というものです。メールでお知らせしました」

「ああ、あんたが。上がってきてくれ」

 音が途切れるのと同時に、端末の向こうにある自動ドアがひとりでに開いた。

 エレベータで最上階の六階に上がり、降りると、雑然とした通路が目の前に開けた。

 ボロボロのカラーボックスには空の鉢が突っ込まれ、子供が遊ぶ三輪車が埃まみれで置かれている。スコップみたいな雪かきもあれば、何に使ったかわからない見慣れない電子端末も転がっている。

 目的の部屋はエレベータから一番離れた角部屋だ。

 そのドアの周囲は片付いている。

 インターホンを押すと、少しの間の後、ドアが開いた。

 やや長い金髪をひとつに結んだ男性がそこにいる。室内から出てきたのに、サングラスをかけていた。

「初めまして、ヨシハル・フジイです」

 うん、男は頷く。着たままのエプロンは色とりどりに汚れていた。

「私はオリド・ジュウジョウです。中へどうぞ」

 失礼します、と部屋には入ると、化学的な匂いが鼻腔を刺激する。

 短い廊下の先は、もうアトリエだった。

 生活に必要なものは何もないように見える。画材が大量に部屋に置かれ、全てを制圧している。

「お茶を出そう」

 オリドさんが一人で別の部屋に入っていった。詮索する気もないが、自然と視線は周囲を確認してしまう。

 イーゼルにある絵画は描きかけだった。

 こちらも三十年前に亡くなった、エレイナ・フィッシャーという画家の名画で、タイトルは「朝顔」だったか。

 ただし、この名画はとある美術館に収蔵されている。

 つまり目の前にあるのは、贋作だ。

「どうぞ」

 急に背後から声がして、振り向くとオリドさんがこちらにカップをひとつ、突き出している。

「ありがとうございます」

 受け取って、口をつける寸前によくわからないお茶だと匂いで気付いた。

 手を止める俺の横で、オリドさんはうまそうにお茶を飲んでいる。

「このお茶は体にいいという触れ込みでね」

 特に何も質問していないのに、そんな返事があった。

「あの絵ですが」

 お茶を飲みたくない意思を隠すように、イーゼルの方を指差す。

「贋作ですね。売れるのですか?」

「事前の話では、私の技を認めているようでしたが?」

「あの「浜辺にて」は完璧でした。凄まじい技法、出来栄えはまさに完璧と言っていいものです」

 お褒めにあずかり光栄です、とオリドさんが笑う。

「自作を描かない理由は?」

 さりげなく訊ねると、口元に笑みを見せ、オリドさんが答えた。

「金にならない」

「金に困っているようには見えません」

「贋作をそこらじゅうに売っているからね」

 お茶のカップを片手に、壁際に並ぶキャンバスを、次々とオリドさんが見せてくれた。

 さすがに度肝を抜かれた。

 ここ百年の著名な画家の作品が、そこにはあった。

 素人ならまず絶対に見抜けない完成度だった。

 これは驚異的な技量である。しかし、科学的に検証されたら……?

「フジイさんも一枚、購入されますか?」

 オリドさんは、口元をニヤッと歪めている。

「俺はそんなに、羽振りは良くありませんよ」

「それは残念。特別価格でもいいんだが」

 しかしどうして、オリド・ジュウジョウという男はこんなことをするのか?

「あなたの技術は、凄まじいものがある。自作を作るべきですよ」

「だから、それは金にならないんだな」

「金が全てですか?」

 壁際からこちらへ戻ってきて、俺の前に立ったオリドさんが、すっと片手でサングラスを持ち上げた。

「この眼のおかげで、借金生活なんですよ」

 サングラスの下から現れた瞳は、生身のそれではない。

 機械部品。

 義眼だった。

「先天的な病気でね」

 サングラスを元に戻し、絵を描くときに使うのだろう椅子に、オリドさんが腰掛けた。

「稼いでも稼いでも、医療費に全部を取られるんですよ」

「しかし、あなたの技術には、目をみはるものがある」

「繰り返すが、褒めてもらえて、嬉しいよ」

 お茶を飲み干し、サングラス越しの機械の視線が、俺に向けられる。

「本当の依頼は?」

「ユージン画廊で、働きませんか?」

「贋作士が? 画廊で?」

 俺は背広の懐から、社長であるユージン氏から受け取った封書を取り出し、オリドさんに手渡した。

 受け取ったオリドが、文書を眺め、頷いた。

「面白い話ですが、ユージン氏には半年の猶予を求めていた、と伝えてください」

「ええ、わかりました」

 予想に近い返事に俺は頷いて、探るように、オリドさんを見た。

「あなたの経歴が、気になります」

「経歴ね……」

 オリドさんがかすかに笑みを見せ、頷く。

「おもしろい話でもないですよ」

 そう言って、彼はゆっくりと話始めた。

 平凡な家庭に生まれたオリド・ジュウジョウという少年は、先天的に視覚に関する病気を患っており、三歳で例外的に両目と脳を手術し、義眼となった。

 その頃には絵画に対する並々ならぬ興味を示し、ペンを手に様々な絵を描いていたという。

 六歳で絵画スクールに参加し、技を磨き始める。小学生の時から様々な賞を受賞したが、中学、高校と進むうちに、コンクールからは姿を消す。

 その理由は、オリドさん自身が、コンクールの賞ではないものに興味を持ち始めたからだという。

 それが、模写だった。

 有名な絵画を次から次へと模写して、本物そっくりに仕上げていく。

 大学は美術大学に進み、技術を練り上げたが、家庭の事情で卒業は出来なかった。

 一般企業で働いた期間も短く、すぐに贋作士として活動を始める。

 ひっそりと、彼は絵を描き続けて、生活しているという。

 つまり根っからの、贋作士である。

「面白くないでしょう?」

 オリドさんの言葉に「いえ、興味深いです」と答えるしかない。

「私の描いた絵を見ると、大抵の人間はこう言いますよ」

 手の中で空になったカップをぐるぐると回しつつ、オリドさんが呟くように言う。

「義眼だから、どんな絵でも描ける」

「そうなのですか? そうとは思えませんが」

「しかし、他の人間とは根本的に違うのは事実です。義眼は、私に本当の世界を見せてくれましたが、私の絵画からは、何かを奪った」

 本気でそう言っているとも思えなかったけど、俺は黙っていた。

「私の絵画は、写真のようなものなのでしょうね」

 そう言って、オリドさんが小さく笑う。ジョークなのだ。俺も笑った。

「しかしオリドさんは、実際に手を動かしている」

「まさに」

 俺はもう一度、描きかけの絵画の前に立った。

「俺でもわかりますが、オリドさんの手の動き、言うなれば技術は、他のどの伝説的な画家にも引けを取らないと思います」

「一般人にはわからないし、絵画を前にして技術を見る人間は少ないですよ。残念ながら、畑の違う人間には、その苦労はわからないのです」

「それが淋しかった、とか、そういう主張ですか?」

 淋しくはないな、とオリドさんは何度か頷いた。

「私は絵画を前にすれば、何も考えない。私自身も画材の一つです。筆を動かす、一つの装置ですね」

 この人は意外に面白いな、と感じ始めていたし、同時に彼をスカウトするユージン氏はどういうわけか、オリドさんのことを、今の俺よりも理解しているようだ。

 贋作士とは数え切れないほど対面したが、こんなに落ち着いて、堂々としている人は、稀だ。

「さて、仕事をします。フジイさん、今日はありがとうございました」

「いえ、長々と、失礼しました」

「半年後、そちらへ出向きますので」

 お待ちしています、と俺たちは手を握り合い、そして俺は部屋を出た。

 ユージン画廊に戻り、社長に報告書を提出した。

 半年の間、俺は世界中を飛び回り、新人画家を発掘したり、名作、名画をオークションにかけたり、逆にオークションで落札したりした。契約している修繕業者ともやりとりし、修繕の現場にも立ち会った。

 その半年に、ここ百年の名画の贋作が、一度に世に出たことがあった。

 社長にそれとなくオリドさんのことを伝えたが、何もしなくていい、という返事だった。

 そして半年は過ぎた。

 ユージン画廊へ、オリドさんは来なかった。


     ◆


 例の集合住宅の部屋で、オリドさんはキャンバスに向かっていた。

 社長は別に急かすつもりでもなく、状況を見てこい、と俺に指示をしていた。

「申し訳ない、フジイさん。これがどうしても終わらなくて」

「いえ、社長も急いでいるようでもありませんでした」

 巨大なキャンバスに、色彩豊かな絵が出来上がっていく。俺は壁に寄りかかって、それをじっと見ていた。

 ふと気付いたが、オリドさんは何かを見ながら描いているようではない。

 しかし、出来上がっていく伝説的な画家のマリオ・ウェーバーの絵画「未開の地」は、真作と寸分違わぬように見える。

 まるでオリドさんがその作者本人のように見えるほど、自信のある筆使いだった。

「記憶しているのですか?」

 堪えきれずに、訊ねていた。オリドさんは頷きもせずに、筆を動かしつつ、ささやくように答えた。

「義眼ですよ」

「義眼?」

「画像を記録できる。それを参照すれば、目の前に本物があるのと変わらないのです」

 なんだって?

 しかし、とすぐにオリドさんが言う。

「見えていても、手が動くわけではありません。見えているものを形にする、それが、私が身につけた、必死で形にした技術です」

 俺は途端に納得した気持ちに襲われていた。

 オリドさんの義眼は、ただの眼ではない。生身の眼を持つものには真似のできない、全く次元の違う能力がある。

 そうか、もしかしてそれが、オリドさんが、本当の画家にならない理由か。

 自分の作品を作らないのか、という、いつかの問いかけの答えが、ここにあるのだ。

「負い目を感じていますか?」

 自然さを意識して声をかけたけど、哀れみと感じただろうか、オリドさんはすぐには返事をしなかった。

「いえ、忘れてください」

「良いんですよ、フジイさん。私の目が義眼で、それには特別な機能がある、それは事実です」

 彼はキャンバスに向いたまま、筆を動かし続け、答えてくれた。

「私の絵画は、一般的な絵画とは違う。人間の感性だけから生まれるものが芸術なら、私の見ている世界には、生身以外のものが介在してしまう。そう考えて、私は贋作士になりました。贋作士には、感性は必要ない。完璧な技術だけが、必要とされるのです」

 俺は黙って、彼の背中を見ていた。

 悲しみも、嘆きもない。すっと伸びた背筋には、何か、恐れを感じさせる荘厳さがある。

 この人は画家だ。

 ただし、瞳がない、画家か。

 それは果たして、どれだけ受け入れられるのか。

 社会に。

 人々に。

「俺はすごいと思いますよ、お世辞じゃなく」

「ありがとう」

 ゆっくりと、オリドさんの手が止まった。

「私の病気について、打ち明けてみたい気になりました」

 彼はこちらに向き直らずに、話し始めた。

「私の瞳は、色を認識できませんでした。正確には瞳と脳にそれぞれに問題があったらしい。それを治療するために、私は瞳を機械のそれに変え、脳にも外科手術をしました。その結果、私の世界には色が生まれ、同時に、瞬間を写真のように、記録することが可能になった。もちろん、ありとあらゆる全てを、無限に記録できるわけではありませんが」

 オリドさんは、やはり振り返らない。

「私は生まれた時から、画家になる道を否定されていたのです。それが悔しいと思う時もありました。子どもの時は特に。私は特別でもなんでもなかった。ただ義眼と脳だけが特別な、平凡な芸術家でした。だから、努力できたとも言えますけれど」

「あなたは、特別ですよ、オリドさん」

「義眼のことを抜きにしても、ですか? 私が義眼の力で描き続けた贋作を抜きにして、私は特別だと、そう言えますか?」

 すっと、オリドさんが振り向く。

 やっぱり困ったように、オリドさんの口元は笑っていた。サングラスで、目元は見えない。

「やはり私という人間は、評価とは無縁ですね。所詮はインチキ画家だ」

「……すみません」

「謝る必要はありません」

 オリドさんがキャンバスに向き直り、筆を動かし始めた。

 彼が手を止めるまで待って、俺はオリドさんと今後について話をした。仕事が片付き次第、ユージン画廊へやってくる、となった。はっきりとした日付は設定されていなかった。

 それから三ヶ月後、オリドさんから連絡があり、部屋を片付けるのを手伝って欲しい、という個人的なお願いがあった。社長に有給休暇を申請し、嫌そうな顔に見送られて、オリドさんの部屋に向かった。

 辿り着くと、見るからに画商、それも闇業者らしい二人組がいて、オリドさんと何か、交渉をしていた。俺は初対面なので、彼らもすぐに興味を失ったようだ。名刺交換さえしない。

 眺めているうちに、画商が雇ったらしい運送業者がやってきて、美術品の専門らしく、次々と出来上がってる絵画を丁寧に慣れた動きで梱包し、運び出していった。

 十枚近いキャンバスが運び出され、画商たちも去っていった。

 部屋に残っているものは余った画材と、ちょっとした家具程度だ。

「お待たせして、申し訳ない」

 オリドさんが何度も頭を下げた。

 二人で協力して、段ボールに次々と部屋にあるものを収めていった。休憩を挟み、夜になった。今日はここまでにして食事に行きませんか、と俺の方から誘うと、彼も応じた。

 この街について何も知らないので、オリドさんの案内で、小さな食堂に行った。

 食事の間も美術品に関する話題が主だった。一番の話題はつい二週間前、一億ドルで落札された絵画で、百五十年前の画家の作品である。

「あれの贋作を依頼されたんですよ」

 さらりとオリドさんがそう口にしたので、俺は危うく手に持っていたグラスを取りこぼしそうになった。

「でも断りましたよ、あれの贋作は、作ってはいけません」

「な、なんだ、てっきり作ったのかと思いました」

「これでも仕事を選ぶのですよ」

 オリドさんはそれから少しの間、自分が贋作を作りたいと思わない作品について、訥々と話した。その中に上がるタイトルは、どれも超一流、人類の宝といってもいい美術品だ。

 とても贋作が作れそうもないが、オリドさんにはできるのだろうか。

「私の贋作はね、中途半端なんです」

 グラスを傾けてから、オリドさんがそう言った。

「本当に科学的に鑑定すれば、絵を破壊するような手法で鑑定すれば、すぐに露見します」

「今までにそういうことが?」

「私と関係のある業者が、うまく偽装するのです。私にはない技術です」

「あの、オリドさん、そんな連中があなたを自由にするとも思えないのですが」

 くつくつとオリドさんが笑い、またグラスを傾けた。

「持ちつ持たれつ、です。お互いが黙っているしかない。それで問題ないはずです」

 食事が終わり、俺たちは店の前で別れた。俺はホテルを一室、手配していた。

 去り際に何か、不安になり、俺はオリドさんの方を振り向いた。

 彼の背中はゆっくりと遠ざかっていく。

 それがオリドさんが生きているのを見た、最後の瞬間だった。

 翌朝、彼の部屋へ行こうとすると、警察が封鎖していて、野次馬も集まっている。直感が、俺を支配した。

 どうしても震える声で、野次馬の一人に訊ねると、殺人事件、とのことだった。

 俺は呆然としてそこに立ち尽くすしかなかった。

 気づくと俺はカフェの一角で、新聞を凝視していた。

 何者かに殺された、オリド・ジュウジョウ氏。

 犯人はどうでもよかった。

 ただ、彼の才能が永遠に失われたことが、悲しかった。

 ユージン氏に連絡を取ると、彼もオリドさんのことを知っていて、しばらくこの街で待機しろ、という指示だった。

 ホテルで三日が過ぎて、ユージン氏からやっと連絡があった。

 警察に話を通して、オリドさんの部屋に入れるという。

 そこで目ぼしいものを探せ、というのである。

「死んだ人間から何かを奪えと?」

 奪うわけではない、という短い返事だった。

 重たい足取りで、現場へ向かうと、制服の警官が立っているだけだ。俺が事情を話す前に、「ヨシハル・フジイさんですね?」と向こうから訊ねてきた。

 頷く俺を、警官が部屋まで案内してくれる。

「殺害現場は部屋の前の通路です」

 丁寧に、そんなことまで教えてくれる。ついこの前まで雑然としていた通路は、綺麗に片付いていた。

 部屋に入り、俺は片付けの途中で、無数の箱が置かれたままの部屋を、確認した。

 キャンバスはどれも真っ白だ。

 何を探せばいいのか。

 と、部屋の隅に、裏返されたキャンバスがあった。なんだろう?

 そっと、それをひっくり返す。

 思わず、目を奪われた。

 これは、水墨画とでも言えばいいのだろうか。

 白と黒で描かれていて、黒には本当に繊細に、濃淡がつけられている。

 初めて見る絵だ。

 何かの贋作ではない。

 水墨画は東洋の島国の発祥で、今でも描かれ続けている。それは俺も知っていた。

 だが、今、目の前にあるオリドさんが描いたらしい水墨画は、東洋のものとは違う。

 異質とも言える技術の混交が、全く新しい境地を切り開いていた。

 しばらく、その一枚に、見入っていた。

 ハッとして、すぐに行動を始めた。

 オリドさんの作品を可能な限り、買い取ると、彼の遺族に話を通すことにする。ユージン氏も動き始め、あっさりとオリドさんの部屋にあるものは、ユージン画廊のものになった。

 オリドさんの両親は健在だったけど、どうやら勘当同然だったらしい。

 部屋を漁っても、オリドさんの描いた水墨画は、あの一枚きりだった。

 まさかあれしか作らなかった、というわけもないので、何枚かあったはずだが、廃棄したんだろうか。

 部屋を片付け終わり、俺はユージン画廊に引き上げた。社長と久しぶりに対面した。

 その数日後、ユージン画廊に、オリドさんの水墨画が展示されたけど、見に来た人はほんの少しだった。何せ全くの無名だからだ。

 その水墨画をユージン氏は売るつもりはないようで、買いたいという人もいないが、とにかく俺は安堵した。

「彼の贋作は完璧だった」

 ある時、ユージン氏が俺のところへやってきた。

「あれだけの贋作士はそういませんよ。最高の技術を持ってました」

「しかし、最後には殺された。因果な商売だ」

「社長はオリドさんをどうするつもりでしたか?」

 うん、と頷いて、ユージン氏はわずかに声を潜めた。どことなく気落ちした様子だった。

「古い絵画の修復士の仕事を斡旋して、それで生活させながら、うちで個展をやる、という程度の計画だった」

「闇業者がオリドさんを放っておくわけもないでしょう」

「根回ししたはずだったが、迂闊だった。今、自分を責めている」

「社長が自分を責めてオリドさんが帰ってくるなら、いくらでも責めればいいですよ」

 手厳しいね、と苦笑いしたユージン氏が、何かを俺の前に差し出した。

 受け取ってみると、航空機のチケットだった。向かう先の空港は、ヨーロッパの某国だった。

「これは?」

 ユージン氏はペラペラと解説して、俺をあっさりと送り出した。

 到底、信じられなかったが、ユージン氏は真面目だったので、俺は指示に従った。

 翌日には、俺はその某国の国際空港にいて、ゲートを抜けたところで、「ヨシハル・フジイ様」と書かれた紙を持っている女性に気づいた。かなりの高齢だ。

「こんにちは、ヨシハル・フジイですが」

 老女は穏やかに微笑み、

「遠いところへようこそ、フジイさん。アン・ジュウジョウです」

 ユージン氏から聞かされていたが、動揺する心は抑えきれなかった。彼女はオリドの母親だ。

 黙り込んだ俺に、「こちらへ」とアンさんが先導し始める。

 空港の外でタクシーに乗り、どこかへ運ばれていく。

「オリドの友人だったそうですね」

「いえ」

 こんな時、なんて答えればいいのだろう。

「仕事がきっかけで、あまり親しくもできず、短い付き合いしかないのです」

「絵について話せて、あの子も嬉しかったのでしょう」

 アンさん自身が嬉しがっているように、笑っている。

 しばらくの無言の後、彼女が話し始めた。

「あの子の瞳と脳の障害は、あの子の世界から全ての色を奪っていました。あの子に見えていたのは、白と黒の世界でした」

 色盲だった、ということか。特殊な症状だろう。

 ふと、例の水墨画のことが頭に浮かんだ。

 アンさんが言葉を続ける。

「あの子の世界を私たちは無理やりに改善させ、あの子は色彩を取り戻した。でもそのかわりに、大きなものを失ってしまったのでしょうね」

 うつむいて、自分の膝に目を落とすアンさんに、俺は何も言えなかった。

 タクシーはいつの間にか田園風景の中を走っている。季節的に、畦に色鮮やかな花が、ちらほらと見える。

 オリドさんが見れなかった、色だ。

 いや、違う。

 また、あの水墨画が頭に浮かんだ。

 オリドさんにはオリドさんの色が、あったんだ。

 でもそれをどうやって、アンさんに伝えればいい。

「あの子の苦労を、私たちは少しも肩代わりできなかった。それが、悔しいのです」

 アンさんが呟く。

 そのうちにタクシーはわき道へそれ、一軒の家の前で停車した。

 二人で降りて、アンさんが先を進み、玄関のドアを開けた。

「どうぞ、驚きますよ」

 なんだろうと俺は玄関から中に入り、思わず、足を止めていた。

 壁に数枚の絵がかけられている。

 どれも、色がない。

 白と黒の濃淡だけの、絵画の列。

「これが、私たちの自慢です」

 オリドさんの絵だった。

 廃棄したんじゃなかったんだ。

「私たちだけの、美術館ですよ。どこにも負けない、美術館です」

 俺はゆっくりと歩を進めて、一枚一枚、その絵画を眺めた。

 そこには、オリドさんが見ている世界が、はっきりと現れていた。

 色のない、しかし何より美しい、世界。



(了)

 

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贋作士の瞳と真実 和泉茉樹 @idumimaki

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