贋作士の瞳と真実
和泉茉樹
贋作士の瞳と真実
◆
画廊ユージンに就職して三年が過ぎた。
国立の美術大学を卒業した俺は、ユージン氏に認められて、すんなりと就職し、三年の間、様々な仕事をこなした。
今の役職は、派遣鑑定員である。
で、いきなり社長のユージン氏の指示により、某国の片田舎へ出向くことになった。
超音速旅客機で一時間、車で二時間の移動の末、その長閑な村にたどり着いた。郷士のものだという目的の屋敷の前で、初老の男性が出迎えてくれた。
「画廊ユージンから参りました、ヨシハル・フジイと申します」
「遠いところまで申し訳ありません、ヨシハルさん。デック・カードと申します」
屋敷に招き入れられたが、シンとしている。使用人も少なそうだ。
案内された部屋で、俺はその絵画と対面した。
二十年前に死去した、コールス・コットンという画家の作品で、マイナーではあるが、俺も写真を見たことがある。
しかし、よくできているな。
「よく出来てますが、真作ではないですよね」
真作ならこんなところにあるわけはない。
それに、このコールスの作品「浜辺にて」は、つい先日、俺の情報網にも引っかかる動きがあった。
カードさんが困ったような顔で、笑いまじりに言う。
「真作のつもりで買いましたけどね、迂闊でした。まさかもう一枚あり、それがオークションに出品されるとは」
「正しく迂闊です」
容赦なくそう言葉を投げかけつつ、目の前の絵画を凝視した。
額も真作と寸分違わないから、相当な手間がかかっているのは間違いない。
しかし、それにしても……。
「もっとよく見せてもらっていいですか?」
「ええ、はい、どうぞ」
俺はキャンバスに歩み寄り、口元をハンカチで押さえつつ、じっと眺めた。
どれだけ見ても、新作のような迫力がある。絵画が生きている、と表現してもいい。気持ちのこもっていない、雑な贋作ではないのだ。
画家の執念、精魂が感じられた。
もちろん、感覚的に、だけど。
「社長からは」俺はカードさんを振り返った。「それほどの額は出せないが買い取ってもいい、と指示を受けています」
ホッとした顔で、カードさんが値段を訊いてくるので、俺は社長の指示よりわずかに安い値段を提示した。カードさんが躊躇う素振りを見せたので、俺は即座に事前の予定額を、さも譲歩したかのように口にして、それで交渉は成立。
もう一度、「浜辺にて」に歩み寄り、よく眺めた。
まるで真作だ。
「どこのどなたからお買いになられた?」
カードさんは少しの躊躇いの後、画商の名前を口にした。
ここから追跡するのが、本当の俺の仕事になる。目の前にある真作に限りなく近い贋作は、ユージン氏が手配した特別な運送業者が、少しも傷めることなく、画廊へ運ぶだろう。
その打ち合わせをして、俺はカードさんに贋作を売りつけた画商の情報を整理し、その場を離れた。
追跡は簡単ではないが、今回は比較的、スムーズに進んだ。
二週間後、俺は某国の地方都市で、一軒の集合住宅の前に立っていた。
外装こそしっかりと修繕されているが、現代的な生活環境ではないだろう。ドローンによる配達を受け付けるレーンは辛うじてあった。
一階でやはり前時代的な端末を前に、事前に調べていた部屋の番号をプッシュし、呼び出す。
すぐに返事はない。苛立ったわけでもないけど、もう一回、ボタンを押してやる。
ブツッという音でマイクの向こうに誰かが立ったのがわかった。
「誰ですか?」
声音からすると、俺よりも相手の方が苛立っている。
「ユージン画廊の、フジイ、というものです。メールでお知らせしました」
「ああ、あんたが。上がってきてくれ」
音が途切れるのと同時に、端末の向こうにある自動ドアがひとりでに開いた。
エレベータで最上階の六階に上がり、降りると、雑然とした通路が目の前に開けた。
ボロボロのカラーボックスには空の鉢が突っ込まれ、子供が遊ぶ三輪車が埃まみれで置かれている。スコップみたいな雪かきもあれば、何に使ったかわからない見慣れない電子端末も転がっている。
目的の部屋はエレベータから一番離れた角部屋だ。
そのドアの周囲は片付いている。
インターホンを押すと、少しの間の後、ドアが開いた。
やや長い金髪をひとつに結んだ男性がそこにいる。室内から出てきたのに、サングラスをかけていた。
「初めまして、ヨシハル・フジイです」
うん、男は頷く。着たままのエプロンは色とりどりに汚れていた。
「私はオリド・ジュウジョウです。中へどうぞ」
失礼します、と部屋には入ると、化学的な匂いが鼻腔を刺激する。
短い廊下の先は、もうアトリエだった。
生活に必要なものは何もないように見える。画材が大量に部屋に置かれ、全てを制圧している。
「お茶を出そう」
オリドさんが一人で別の部屋に入っていった。詮索する気もないが、自然と視線は周囲を確認してしまう。
イーゼルにある絵画は描きかけだった。
こちらも三十年前に亡くなった、エレイナ・フィッシャーという画家の名画で、タイトルは「朝顔」だったか。
ただし、この名画はとある美術館に収蔵されている。
つまり目の前にあるのは、贋作だ。
「どうぞ」
急に背後から声がして、振り向くとオリドさんがこちらにカップをひとつ、突き出している。
「ありがとうございます」
受け取って、口をつける寸前によくわからないお茶だと匂いで気付いた。
手を止める俺の横で、オリドさんはうまそうにお茶を飲んでいる。
「このお茶は体にいいという触れ込みでね」
特に何も質問していないのに、そんな返事があった。
「あの絵ですが」
お茶を飲みたくない意思を隠すように、イーゼルの方を指差す。
「贋作ですね。売れるのですか?」
「事前の話では、私の技を認めているようでしたが?」
「あの「浜辺にて」は完璧でした。凄まじい技法、出来栄えはまさに完璧と言っていいものです」
お褒めにあずかり光栄です、とオリドさんが笑う。
「自作を描かない理由は?」
さりげなく訊ねると、口元に笑みを見せ、オリドさんが答えた。
「金にならない」
「金に困っているようには見えません」
「贋作をそこらじゅうに売っているからね」
お茶のカップを片手に、壁際に並ぶキャンバスを、次々とオリドさんが見せてくれた。
さすがに度肝を抜かれた。
ここ百年の著名な画家の作品が、そこにはあった。
素人ならまず絶対に見抜けない完成度だった。
これは驚異的な技量である。しかし、科学的に検証されたら……?
「フジイさんも一枚、購入されますか?」
オリドさんは、口元をニヤッと歪めている。
「俺はそんなに、羽振りは良くありませんよ」
「それは残念。特別価格でもいいんだが」
しかしどうして、オリド・ジュウジョウという男はこんなことをするのか?
「あなたの技術は、凄まじいものがある。自作を作るべきですよ」
「だから、それは金にならないんだな」
「金が全てですか?」
壁際からこちらへ戻ってきて、俺の前に立ったオリドさんが、すっと片手でサングラスを持ち上げた。
「この眼のおかげで、借金生活なんですよ」
サングラスの下から現れた瞳は、生身のそれではない。
機械部品。
義眼だった。
「先天的な病気でね」
サングラスを元に戻し、絵を描くときに使うのだろう椅子に、オリドさんが腰掛けた。
「稼いでも稼いでも、医療費に全部を取られるんですよ」
「しかし、あなたの技術には、目をみはるものがある」
「繰り返すが、褒めてもらえて、嬉しいよ」
お茶を飲み干し、サングラス越しの機械の視線が、俺に向けられる。
「本当の依頼は?」
「ユージン画廊で、働きませんか?」
「贋作士が? 画廊で?」
俺は背広の懐から、社長であるユージン氏から受け取った封書を取り出し、オリドさんに手渡した。
受け取ったオリドが、文書を眺め、頷いた。
「面白い話ですが、ユージン氏には半年の猶予を求めていた、と伝えてください」
「ええ、わかりました」
予想に近い返事に俺は頷いて、探るように、オリドさんを見た。
「あなたの経歴が、気になります」
「経歴ね……」
オリドさんがかすかに笑みを見せ、頷く。
「おもしろい話でもないですよ」
そう言って、彼はゆっくりと話始めた。
平凡な家庭に生まれたオリド・ジュウジョウという少年は、先天的に視覚に関する病気を患っており、三歳で例外的に両目と脳を手術し、義眼となった。
その頃には絵画に対する並々ならぬ興味を示し、ペンを手に様々な絵を描いていたという。
六歳で絵画スクールに参加し、技を磨き始める。小学生の時から様々な賞を受賞したが、中学、高校と進むうちに、コンクールからは姿を消す。
その理由は、オリドさん自身が、コンクールの賞ではないものに興味を持ち始めたからだという。
それが、模写だった。
有名な絵画を次から次へと模写して、本物そっくりに仕上げていく。
大学は美術大学に進み、技術を練り上げたが、家庭の事情で卒業は出来なかった。
一般企業で働いた期間も短く、すぐに贋作士として活動を始める。
ひっそりと、彼は絵を描き続けて、生活しているという。
つまり根っからの、贋作士である。
「面白くないでしょう?」
オリドさんの言葉に「いえ、興味深いです」と答えるしかない。
「私の描いた絵を見ると、大抵の人間はこう言いますよ」
手の中で空になったカップをぐるぐると回しつつ、オリドさんが呟くように言う。
「義眼だから、どんな絵でも描ける」
「そうなのですか? そうとは思えませんが」
「しかし、他の人間とは根本的に違うのは事実です。義眼は、私に本当の世界を見せてくれましたが、私の絵画からは、何かを奪った」
本気でそう言っているとも思えなかったけど、俺は黙っていた。
「私の絵画は、写真のようなものなのでしょうね」
そう言って、オリドさんが小さく笑う。ジョークなのだ。俺も笑った。
「しかしオリドさんは、実際に手を動かしている」
「まさに」
俺はもう一度、描きかけの絵画の前に立った。
「俺でもわかりますが、オリドさんの手の動き、言うなれば技術は、他のどの伝説的な画家にも引けを取らないと思います」
「一般人にはわからないし、絵画を前にして技術を見る人間は少ないですよ。残念ながら、畑の違う人間には、その苦労はわからないのです」
「それが淋しかった、とか、そういう主張ですか?」
淋しくはないな、とオリドさんは何度か頷いた。
「私は絵画を前にすれば、何も考えない。私自身も画材の一つです。筆を動かす、一つの装置ですね」
この人は意外に面白いな、と感じ始めていたし、同時に彼をスカウトするユージン氏はどういうわけか、オリドさんのことを、今の俺よりも理解しているようだ。
贋作士とは数え切れないほど対面したが、こんなに落ち着いて、堂々としている人は、稀だ。
「さて、仕事をします。フジイさん、今日はありがとうございました」
「いえ、長々と、失礼しました」
「半年後、そちらへ出向きますので」
お待ちしています、と俺たちは手を握り合い、そして俺は部屋を出た。
ユージン画廊に戻り、社長に報告書を提出した。
半年の間、俺は世界中を飛び回り、新人画家を発掘したり、名作、名画をオークションにかけたり、逆にオークションで落札したりした。契約している修繕業者ともやりとりし、修繕の現場にも立ち会った。
その半年に、ここ百年の名画の贋作が、一度に世に出たことがあった。
社長にそれとなくオリドさんのことを伝えたが、何もしなくていい、という返事だった。
そして半年は過ぎた。
ユージン画廊へ、オリドさんは来なかった。
◆
例の集合住宅の部屋で、オリドさんはキャンバスに向かっていた。
社長は別に急かすつもりでもなく、状況を見てこい、と俺に指示をしていた。
「申し訳ない、フジイさん。これがどうしても終わらなくて」
「いえ、社長も急いでいるようでもありませんでした」
巨大なキャンバスに、色彩豊かな絵が出来上がっていく。俺は壁に寄りかかって、それをじっと見ていた。
ふと気付いたが、オリドさんは何かを見ながら描いているようではない。
しかし、出来上がっていく伝説的な画家のマリオ・ウェーバーの絵画「未開の地」は、真作と寸分違わぬように見える。
まるでオリドさんがその作者本人のように見えるほど、自信のある筆使いだった。
「記憶しているのですか?」
堪えきれずに、訊ねていた。オリドさんは頷きもせずに、筆を動かしつつ、ささやくように答えた。
「義眼ですよ」
「義眼?」
「画像を記録できる。それを参照すれば、目の前に本物があるのと変わらないのです」
なんだって?
しかし、とすぐにオリドさんが言う。
「見えていても、手が動くわけではありません。見えているものを形にする、それが、私が身につけた、必死で形にした技術です」
俺は途端に納得した気持ちに襲われていた。
オリドさんの義眼は、ただの眼ではない。生身の眼を持つものには真似のできない、全く次元の違う能力がある。
そうか、もしかしてそれが、オリドさんが、本当の画家にならない理由か。
自分の作品を作らないのか、という、いつかの問いかけの答えが、ここにあるのだ。
「負い目を感じていますか?」
自然さを意識して声をかけたけど、哀れみと感じただろうか、オリドさんはすぐには返事をしなかった。
「いえ、忘れてください」
「良いんですよ、フジイさん。私の目が義眼で、それには特別な機能がある、それは事実です」
彼はキャンバスに向いたまま、筆を動かし続け、答えてくれた。
「私の絵画は、一般的な絵画とは違う。人間の感性だけから生まれるものが芸術なら、私の見ている世界には、生身以外のものが介在してしまう。そう考えて、私は贋作士になりました。贋作士には、感性は必要ない。完璧な技術だけが、必要とされるのです」
俺は黙って、彼の背中を見ていた。
悲しみも、嘆きもない。すっと伸びた背筋には、何か、恐れを感じさせる荘厳さがある。
この人は画家だ。
ただし、瞳がない、画家か。
それは果たして、どれだけ受け入れられるのか。
社会に。
人々に。
「俺はすごいと思いますよ、お世辞じゃなく」
「ありがとう」
ゆっくりと、オリドさんの手が止まった。
「私の病気について、打ち明けてみたい気になりました」
彼はこちらに向き直らずに、話し始めた。
「私の瞳は、色を認識できませんでした。正確には瞳と脳にそれぞれに問題があったらしい。それを治療するために、私は瞳を機械のそれに変え、脳にも外科手術をしました。その結果、私の世界には色が生まれ、同時に、瞬間を写真のように、記録することが可能になった。もちろん、ありとあらゆる全てを、無限に記録できるわけではありませんが」
オリドさんは、やはり振り返らない。
「私は生まれた時から、画家になる道を否定されていたのです。それが悔しいと思う時もありました。子どもの時は特に。私は特別でもなんでもなかった。ただ義眼と脳だけが特別な、平凡な芸術家でした。だから、努力できたとも言えますけれど」
「あなたは、特別ですよ、オリドさん」
「義眼のことを抜きにしても、ですか? 私が義眼の力で描き続けた贋作を抜きにして、私は特別だと、そう言えますか?」
すっと、オリドさんが振り向く。
やっぱり困ったように、オリドさんの口元は笑っていた。サングラスで、目元は見えない。
「やはり私という人間は、評価とは無縁ですね。所詮はインチキ画家だ」
「……すみません」
「謝る必要はありません」
オリドさんがキャンバスに向き直り、筆を動かし始めた。
彼が手を止めるまで待って、俺はオリドさんと今後について話をした。仕事が片付き次第、ユージン画廊へやってくる、となった。はっきりとした日付は設定されていなかった。
それから三ヶ月後、オリドさんから連絡があり、部屋を片付けるのを手伝って欲しい、という個人的なお願いがあった。社長に有給休暇を申請し、嫌そうな顔に見送られて、オリドさんの部屋に向かった。
辿り着くと、見るからに画商、それも闇業者らしい二人組がいて、オリドさんと何か、交渉をしていた。俺は初対面なので、彼らもすぐに興味を失ったようだ。名刺交換さえしない。
眺めているうちに、画商が雇ったらしい運送業者がやってきて、美術品の専門らしく、次々と出来上がってる絵画を丁寧に慣れた動きで梱包し、運び出していった。
十枚近いキャンバスが運び出され、画商たちも去っていった。
部屋に残っているものは余った画材と、ちょっとした家具程度だ。
「お待たせして、申し訳ない」
オリドさんが何度も頭を下げた。
二人で協力して、段ボールに次々と部屋にあるものを収めていった。休憩を挟み、夜になった。今日はここまでにして食事に行きませんか、と俺の方から誘うと、彼も応じた。
この街について何も知らないので、オリドさんの案内で、小さな食堂に行った。
食事の間も美術品に関する話題が主だった。一番の話題はつい二週間前、一億ドルで落札された絵画で、百五十年前の画家の作品である。
「あれの贋作を依頼されたんですよ」
さらりとオリドさんがそう口にしたので、俺は危うく手に持っていたグラスを取りこぼしそうになった。
「でも断りましたよ、あれの贋作は、作ってはいけません」
「な、なんだ、てっきり作ったのかと思いました」
「これでも仕事を選ぶのですよ」
オリドさんはそれから少しの間、自分が贋作を作りたいと思わない作品について、訥々と話した。その中に上がるタイトルは、どれも超一流、人類の宝といってもいい美術品だ。
とても贋作が作れそうもないが、オリドさんにはできるのだろうか。
「私の贋作はね、中途半端なんです」
グラスを傾けてから、オリドさんがそう言った。
「本当に科学的に鑑定すれば、絵を破壊するような手法で鑑定すれば、すぐに露見します」
「今までにそういうことが?」
「私と関係のある業者が、うまく偽装するのです。私にはない技術です」
「あの、オリドさん、そんな連中があなたを自由にするとも思えないのですが」
くつくつとオリドさんが笑い、またグラスを傾けた。
「持ちつ持たれつ、です。お互いが黙っているしかない。それで問題ないはずです」
食事が終わり、俺たちは店の前で別れた。俺はホテルを一室、手配していた。
去り際に何か、不安になり、俺はオリドさんの方を振り向いた。
彼の背中はゆっくりと遠ざかっていく。
それがオリドさんが生きているのを見た、最後の瞬間だった。
翌朝、彼の部屋へ行こうとすると、警察が封鎖していて、野次馬も集まっている。直感が、俺を支配した。
どうしても震える声で、野次馬の一人に訊ねると、殺人事件、とのことだった。
俺は呆然としてそこに立ち尽くすしかなかった。
気づくと俺はカフェの一角で、新聞を凝視していた。
何者かに殺された、オリド・ジュウジョウ氏。
犯人はどうでもよかった。
ただ、彼の才能が永遠に失われたことが、悲しかった。
ユージン氏に連絡を取ると、彼もオリドさんのことを知っていて、しばらくこの街で待機しろ、という指示だった。
ホテルで三日が過ぎて、ユージン氏からやっと連絡があった。
警察に話を通して、オリドさんの部屋に入れるという。
そこで目ぼしいものを探せ、というのである。
「死んだ人間から何かを奪えと?」
奪うわけではない、という短い返事だった。
重たい足取りで、現場へ向かうと、制服の警官が立っているだけだ。俺が事情を話す前に、「ヨシハル・フジイさんですね?」と向こうから訊ねてきた。
頷く俺を、警官が部屋まで案内してくれる。
「殺害現場は部屋の前の通路です」
丁寧に、そんなことまで教えてくれる。ついこの前まで雑然としていた通路は、綺麗に片付いていた。
部屋に入り、俺は片付けの途中で、無数の箱が置かれたままの部屋を、確認した。
キャンバスはどれも真っ白だ。
何を探せばいいのか。
と、部屋の隅に、裏返されたキャンバスがあった。なんだろう?
そっと、それをひっくり返す。
思わず、目を奪われた。
これは、水墨画とでも言えばいいのだろうか。
白と黒で描かれていて、黒には本当に繊細に、濃淡がつけられている。
初めて見る絵だ。
何かの贋作ではない。
水墨画は東洋の島国の発祥で、今でも描かれ続けている。それは俺も知っていた。
だが、今、目の前にあるオリドさんが描いたらしい水墨画は、東洋のものとは違う。
異質とも言える技術の混交が、全く新しい境地を切り開いていた。
しばらく、その一枚に、見入っていた。
ハッとして、すぐに行動を始めた。
オリドさんの作品を可能な限り、買い取ると、彼の遺族に話を通すことにする。ユージン氏も動き始め、あっさりとオリドさんの部屋にあるものは、ユージン画廊のものになった。
オリドさんの両親は健在だったけど、どうやら勘当同然だったらしい。
部屋を漁っても、オリドさんの描いた水墨画は、あの一枚きりだった。
まさかあれしか作らなかった、というわけもないので、何枚かあったはずだが、廃棄したんだろうか。
部屋を片付け終わり、俺はユージン画廊に引き上げた。社長と久しぶりに対面した。
その数日後、ユージン画廊に、オリドさんの水墨画が展示されたけど、見に来た人はほんの少しだった。何せ全くの無名だからだ。
その水墨画をユージン氏は売るつもりはないようで、買いたいという人もいないが、とにかく俺は安堵した。
「彼の贋作は完璧だった」
ある時、ユージン氏が俺のところへやってきた。
「あれだけの贋作士はそういませんよ。最高の技術を持ってました」
「しかし、最後には殺された。因果な商売だ」
「社長はオリドさんをどうするつもりでしたか?」
うん、と頷いて、ユージン氏はわずかに声を潜めた。どことなく気落ちした様子だった。
「古い絵画の修復士の仕事を斡旋して、それで生活させながら、うちで個展をやる、という程度の計画だった」
「闇業者がオリドさんを放っておくわけもないでしょう」
「根回ししたはずだったが、迂闊だった。今、自分を責めている」
「社長が自分を責めてオリドさんが帰ってくるなら、いくらでも責めればいいですよ」
手厳しいね、と苦笑いしたユージン氏が、何かを俺の前に差し出した。
受け取ってみると、航空機のチケットだった。向かう先の空港は、ヨーロッパの某国だった。
「これは?」
ユージン氏はペラペラと解説して、俺をあっさりと送り出した。
到底、信じられなかったが、ユージン氏は真面目だったので、俺は指示に従った。
翌日には、俺はその某国の国際空港にいて、ゲートを抜けたところで、「ヨシハル・フジイ様」と書かれた紙を持っている女性に気づいた。かなりの高齢だ。
「こんにちは、ヨシハル・フジイですが」
老女は穏やかに微笑み、
「遠いところへようこそ、フジイさん。アン・ジュウジョウです」
ユージン氏から聞かされていたが、動揺する心は抑えきれなかった。彼女はオリドの母親だ。
黙り込んだ俺に、「こちらへ」とアンさんが先導し始める。
空港の外でタクシーに乗り、どこかへ運ばれていく。
「オリドの友人だったそうですね」
「いえ」
こんな時、なんて答えればいいのだろう。
「仕事がきっかけで、あまり親しくもできず、短い付き合いしかないのです」
「絵について話せて、あの子も嬉しかったのでしょう」
アンさん自身が嬉しがっているように、笑っている。
しばらくの無言の後、彼女が話し始めた。
「あの子の瞳と脳の障害は、あの子の世界から全ての色を奪っていました。あの子に見えていたのは、白と黒の世界でした」
色盲だった、ということか。特殊な症状だろう。
ふと、例の水墨画のことが頭に浮かんだ。
アンさんが言葉を続ける。
「あの子の世界を私たちは無理やりに改善させ、あの子は色彩を取り戻した。でもそのかわりに、大きなものを失ってしまったのでしょうね」
うつむいて、自分の膝に目を落とすアンさんに、俺は何も言えなかった。
タクシーはいつの間にか田園風景の中を走っている。季節的に、畦に色鮮やかな花が、ちらほらと見える。
オリドさんが見れなかった、色だ。
いや、違う。
また、あの水墨画が頭に浮かんだ。
オリドさんにはオリドさんの色が、あったんだ。
でもそれをどうやって、アンさんに伝えればいい。
「あの子の苦労を、私たちは少しも肩代わりできなかった。それが、悔しいのです」
アンさんが呟く。
そのうちにタクシーはわき道へそれ、一軒の家の前で停車した。
二人で降りて、アンさんが先を進み、玄関のドアを開けた。
「どうぞ、驚きますよ」
なんだろうと俺は玄関から中に入り、思わず、足を止めていた。
壁に数枚の絵がかけられている。
どれも、色がない。
白と黒の濃淡だけの、絵画の列。
「これが、私たちの自慢です」
オリドさんの絵だった。
廃棄したんじゃなかったんだ。
「私たちだけの、美術館ですよ。どこにも負けない、美術館です」
俺はゆっくりと歩を進めて、一枚一枚、その絵画を眺めた。
そこには、オリドさんが見ている世界が、はっきりと現れていた。
色のない、しかし何より美しい、世界。
(了)
贋作士の瞳と真実 和泉茉樹 @idumimaki
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