第62話 そんな君だから……


 私は、自分の目を疑った。

 だってここは……この場所は、私と、子どもの頃の佳生しか、知らない場所だから。


「やっぱり、ここに、いたのか」


 相好を崩し、彼はそう言った。そしてゆっくりと、私の方に向かってくる。


 なんで、どうして……?

 彼は、七年前のことをすっかり忘れていたはずなのに。

 私は、あなたの前から一方的に逃げ出したのに。

 あなたのことを、あんなに苦しめて、あんなに悲しい顔をさせたのに……。


 いつかの夜のことが、脳裏に浮かんだ。


 ――夏生っ!


 あなたがくれた、私の名前を呼ぶ声。その時の顔は、今でも忘れられない。今までみたことがないくらい歪んでいて、潤んだ黒い瞳に映った私は大きく揺れていて、悲痛な感情が詰め込まれた声はかすれていて……。私はそれ以上聞いていたくなくて、発作を抑えるとともに佳生の体温を下げ、眠らせた。


 その後も、私は深夜にたびたび病室を訪れた。

 少しずつ、少しずつ、彼の病根を消滅させるために。

 佳生は起きなかったけど、いつもうなされていた。苦しそうに手を伸ばして、私の名前を呼んだ時もあった。


「夏生。やっと、会えた……」


 私のすぐそばまで歩いてきた直後、彼の体が大きく傾いた。


「佳生っ!」


 日光と気温のせいで体が異常なくらい重かったのに、その時の私は咄嗟に動いて彼を抱きとめていた。ふわりと、少し汗っぽい匂いが鼻先をつついた。遅れて、彼独特の、安心する香りが私を包み込む。


 ……でも、私は安心するどころか、愕然とした。彼の体温が異常に高かったから。


「佳生!」


 名前を呼んでも、返事がなかった。彼の体には力が入っておらず、意識を失っているようだった。


「くっ……!」


 彼をそっと横たわらせると、うなじと胸に手を当てた。


 ――佳生の病気は私が治すから心配しないでね


 いつかした約束を果たすべく、私は指先に力を込めた。


    *


 日差しが、眩しい。

 目の前をちらつく陽光に、俺は目を細める。

 いつだったか。夏生と一緒に歩いたひまわり畑でもこんなふうだったけな、とぼんやりした頭で思った。あたり一面に広がるひまわり畑に興奮して、白いワンピースを翻して喜んで、病気で沈んでいた俺の気持ちを明るくさせてくれた、そんな夏生が…………夏生?

 そこで、まどろみの中にあった思考が一気に覚醒した。


「夏生っ!」


「きゃっ⁉」


 勢いよく飛び起き……そして、額に衝撃を受けた。


「痛ってて……」


「っ~~……もう佳生! いきなり飛び起きないでよ!」


 頭を押さえ、涙目になりながら彼女は恨み言をあげた。


「え、え?」


 おでこの痛みのせいだろうか。状況が呑み込めず、俺はあたりを見回した。

 天まで伸びる常緑樹に囲まれ、風を受けて揺れ動くミニひまわり畑。遅咲きの野草だからか、そのサイズは知っているミニひまわりよりもさらに一回り小さい。上を見上げれば、そこには突き抜けた青空が広がっており、温かい日差しが優しく降り注いでいた。

 まるでここだけが、切り取られた夏であるかのように。


「ようこそ。私の秘密の場所へ」


「あ……」


 ――ようこそ! 私の秘密の場所へ!


 いつの日かの彼女の言葉と面影が、ぴったりと重なった。


「ひどいよね。雪女との真夏の出会いを忘れちゃうなんて」


 夏生は座ったまま、むくれたように言った。


「いや、十歳のことなんて普通ほとんど覚えてないって」


「えーそうかなぁ」


「そうだよ」


 なんだか照れくさくって、俺は目を背けた。陽の光を受けて輝く雪のように夏生は光っていて、とても綺麗だったから。


「あれ? そういえば、岡本と佐原さんは?」


 二人の姿が見えないので、俺は立ち上がりつつそう聞いたが……


「あっ、危ない!」


 バランスを崩し、彼女の方へと倒れ込んだ。


「あれ……?」


 足に、体に、思ったように力が入らない。


「相当無理してここまで来たでしょ? ダメだよ、佳生。まだ完全に治ってないのに」


 夏生は俺を抱きかかえるようにして受け止め、そのままゆっくりと寝かせてくれた。……なぜか頭は、膝の上だったけど。


「お、おい……」


「ふふっ。そんなに照れなくってもいいんじゃない?」


「うるせー」


 目の前には、反転して見える彼女の顔。青い瞳に、真っ白な肌と髪。何度も見てきたのに、一段と輝いて見えるのはなぜだろう。


「それはそうと、岡本たちはどこに行ったんだ?」


 やっぱり恥ずかしくて、俺は視線を逸らしつつ聞いた。


「んー帰ったよ?」


「は⁉」


 帰った⁉ あんなに長時間探して、やっと見つけたのに?

 衝撃的な内容に、俺は思わず聞き返していた。


「私がね、佳生と二人っきりになりたいってお願いしたから」


「えっ⁉」


 ちょっと待て。それはそれでかなり緊張する……。ただでさえ、今は夏生の顔を直視できないのに。

 彼女の膝の上でうろたえていると、我慢できなくなったように夏生は吹き出した。


「……ぷっ、あははは! 冗談だよ~もう」


 そんなわけないじゃんかー、と彼女は笑い続ける。くそ、久しぶりに会ったからって遊びすぎだろ。そう心の中でぼやいてみるも、どこかそれを心地よく感じる俺がいるのも、また事実だった。


「それで? 本当のところはどうなんだよ?」


 一向に笑い止む気配がないので、不満の意味も込めてぶっきらぼうに聞いた。


「ふふふ、ごめんね。二人にはね、少しだけ席を外してもらってるの」


「席を?」


「うん。二人っきりで話したいってお願いしたのは、本当だから」


 今度は悪戯っぽくない、純粋な笑顔を浮かべて、彼女はそう言った。

 見慣れた笑顔のはずなのに、それはとても愛おしく感じた。


「……そっか」


 やっぱり夏生には敵わないな、と思った。どこまでも素直で、真っ直ぐで、相手の心を暖かくしてくれる。雪女なのに、雪女っぽくなくて。彼女がくれる冷たさには、暖かさがあって……。


 そんな夏生だから……俺は好きになったんだ。

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