君の手は冷たく、そして暖かかった。

矢田川いつき

プロローグ ささやかな……


 ――夢だ。


 直感的に、そう思った。

 目線は今よりも随分低いし、なにより全く身に覚えのない場所だからだ。

 そこは、見渡す限り無数の木々が生い茂っており、自分がどっちから来たのかもわからない。あたりではセミたちが鳴き声の合唱を奏でていて、季節はどうやら夏らしかった。

 いったいどれくらい歩いたのだろうか。夢の中だと言うのに、足は鉛のように重く感じた。


「はぁ……はぁ……」


 先へ先へと、とにかく歩を進める。なぜかこみ上げてくる泣きたい気持ちをこらえて、一歩一歩踏みしめて歩いた。

 直後、目の前が暗くなった。

 あれ? と思うも、すぐに光を取り戻す。


 ――変な夢だな。


 だいたい夢は変なものだが、なぜかその時はそう思った。

 そしてふと、右手に何かの感触があった。

 誰かの手。

 小さくて細い、綺麗きれいな手が、俺の右手をつかんでいた。

 気に留める間もなく、グイッと前に引っ張られる。

 そのまま一目散に駆け出したかと思うと、急に視界が開けた。


「ここまで来れば、後は大丈夫だよね?」


 右手をつかんでいた手を離しながら、その相手はそう問いかけてきた。


「えっと、ありがとう」


 考えるより先に、口が開いた。まるでそう言うことが、最初から決まっていたみたいに。


「その、君は……」


 そう言いかけた途端、視界がフェードアウトした。

 はっきりと目の前に映っていた緑色の野原は、もやが覆いつくすように白くなっていく。

 それと同時に、あれほどうるさくあたりに響き渡っていたセミの鳴き声や、相手の声までもが遠くなっていった。


 ――ああ、覚めるのか。


 夢の中で夢が覚める瞬間を自覚するのも変な話だが、無意識のうちにそう感じた。

 そんな思考とは別に、自分の口はまるで意思があるかのように開いた。


「……僕の…………から、一…………る……」


 確かに自分の口から発している言葉なのに、なんて言っているのかわからなかった。

 そして相手の方も、何か言っている。


「ほ……あり……と……」


 ――何を言っているんだろう。


 夢の中での、薄れていく意識の下で、俺はそう思った。

 聞こえていた音はさらに遠くなっていき、周囲もほとんど白で覆いつくされていたが、その後も何かのやり取りをしていたことだけは、はっきりとわかった。

 でも、そのやり取りが何を意味していたのかは、この時の俺は知るよしもなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る