坂の上の君

マグロの鎌

第1話

「お前ら休憩だ。」

 機械音が鳴り響く下町の工場に、低い男の声が広がる。

 声を合図に、工場の従業員たちは一目散に工場の外へと向かって走り出した。

 それもそのはず、ここは金属の溶接工場であり、工場内の温度は40度近くあった。その中に長そで長ズボンで5時間近くずっと作業していれば、誰しもが涼しい場所へと避難するのも当たり前だ。ただ一人を除いて。

「おい、休憩なんだから作業はするな。」

 一人の男がいまだ作業しているのを見つけ、工場長は声をかけた。

 しばらくすると男は手を止め、マスクを取り返事をした。

「はい。休憩はちゃんと取ります。でも、これだけはやらしてください。」

 それだけ言って再びマスクを被り作業に戻った。

「しょうがないなぁ...」

 この光景は日常のようなものであり、工場長も声はかけるだけでやめさせることまではしなかった。

 数分後、男は作業を終え同僚のいる外へと出た。

 外は日差しがかなり強く、それなりの温度にはなっていたが中に比べてかなり涼しく、かすかな風が心地よかった。

「よう、作業の調子はどうだい。」

「ぼちぼちかな。」

「そうか。まぁ、あんま根詰めすぎるなよ。熱中症で倒れたら元も子もないからな。」

 そう言って、同僚は男に缶コーヒーを投げた。

「サンキュー。ってこれホットじゃねえか。」

「おう。さっき竈の上であっためてたんだ。缶が解けないようにうまく調整するのが難しいんだよなー。」

 同僚は頭を掻きながら、なぜか照れくさそうにそう言った。

「そんなことしてる暇あるなら仕事しろよ。」

「ちぇ、厳し。ほれ、今度こそ冷たいぞ。」

「最初からそっちを渡せっての。」

 缶コーヒーを受取り、手のひらで温度を確かめてから喉へと流し込んだ。

 ヒヒィーン!

 唐突に馬の鳴き声が工場の前の通りに響いた。これは馬車が通る合図なのだが、この通りに馬車が通るのは一年に一回あるかないかわからないぐらい珍しく、工場で働く者だけでなく、通りに面している家の窓から次々と主婦や老人たちが体を乗り出して馬車を眺めた。

「おいおいこれは珍しいな。いったいどんな金持ちが乗ってるんだ?」

「さあな。興味ないな。」

 男はそう言って再びコーヒー飲もうとした。しかし、馬車が男のちょうど目の前を横切ったとき、その手は止まった。そして降ろされた。

「セレスト...」

 そう呟くといきなり男は立上り、馬車を追いかけ走りはじめた。

 しかし、すでに馬車は100mも先を走っており当然のごとく間に合わなかった。



 俺とあの馬車に乗っていたセレストが初めて会ったのは3歳のことだ。父が仕事に成功し、景色の良い坂の上に引っ越して来た時だった。はじめは全然仲良くなかったが、周り住んでいる子供が俺とセレストの二人だけだったので渋々遊ぶようになり、だんだんと仲良くなっていった。

 一年も経つと、毎日家の近くの公園で一日中遊んでいるほどの仲になっていた。

 その当時の俺はきっとこのままセレストずっと一緒にいて、いつか結婚するものだと決めつけていた。そしてそれは俺だけでなく、セレストも同じように考えていた。なぜなら、彼女はいつも父親の前で『私、おっきくなったらクライと結婚する』と何度も言っているのを聞いたからだ。

 しかし、そんな幸せも長くは続かなかった。

 引っ越してからちょうど6年経ち、母のおなかにもう一つの命が宿ったころ悲劇は起こった。そう、父が亡くなったのだ。

 死因は病気なのだが、何の病なのかわかることなく死んでしまった。一年前からずっと体調が悪いと言っていたが、仕事が軌道に乗り始めてきたばかりだったため、休むことなく働いていたのだ。その頑張る父の姿は今でも目に焼き付いている。あの時止めておけばよかったのに、という後悔と命を削っても頑張る姿に尊敬の意をこめて。

 父が亡くなってからすぐに坂の下の住宅街へと引っ越した。セレストと離れることはつらかったが、そんなこと言っていられる状況ではないと9歳の俺でも分かった。

 幸い貯金のおかげで数年は何不自由なく暮らすことはできたが、母が父の死と育児により精神が不安定な状態になってしまい働きに出られなくなっていた。そのため俺が街の工場に働きに出ることとなった。

 そして、下街に来てからは今日に至るまで一度もセレストと会うことはなかった。




 俺はその日、初めて仕事をさぼった。広場のカフェのテラスでコーヒーを飲みながら、ただ流れる時間に身を任せていた。

 さぼった理由は昼休みの出来事のはずだが、自分では理解できていなかった。なぜあれだけの出来事で仕事をさぼってしまったのか。もう彼女のことは忘れたはずなのに。

「あれ?またコーヒー飲んでるの?そんなに飲んだら体に悪いよ。」

 聞き覚えのない声のはずなのに、どこか懐かしい声が真後ろから聞こえた。

 振り返ると、ついさっきまで考えてた人物が俺の前に立っていた。驚き俺はコーヒーを吹き出してしまった。すると彼女はあらあらと言いながら、ハンカチで作業服を拭いてくれた。照れ臭くなった俺はその手を払い、手で口を拭った。

「おまえ、何してんだよ。さっき馬車でどっかいったんじゃないのかよ。」

「まあね。でもちょっと抜け出してきた。」

 そういうと彼女は笑った。久しぶりに見た彼女の笑顔はどこか悲しそうだった。

「なんだよ抜け出してきたって。貴族達のおしとやかな会話はガサツなお前には耐えられなかったのか?」

「ちょっ、それどういう意味?」

「そのまんまの意味だ。」

「もう、私だってあの頃とは変わって、ちゃんとおしとやかになったんだからね。」

 頬を膨らましながらそう言った。まるで食事中のハムスターのようだ。

「そんな簡単に拗ねているようなら、おしとやかとはほど遠いいな。」

 すると、セレストは椅子をゆっくり引き、長いスカートをしわにならないよう手でなでるように伸ばし、俺の前に座った。やけに丁寧な彼女の行動はまるで俺におしとやかな姿を見せつけているようだった。言葉でなく行動で示してきたのだ。

「べつにそんぐらい貴族じゃなくてもできるぞ。」

「ふん。」

 そっぽを向く彼女を見て、やはり何も変わっていないなと思った。俺は心のどこかでほっとした。正直、貴族になり、あの頃とはまったくの別人になってしまったのかと思っていたからだ。

「で、おまえなんの用だよ。」

「なに、用がないとあなたの前に座っちゃいけないの?それに、おまえって言うのやめてくれない、私にはちゃんとセレストっていう名前があるの。」

 また拗ねた。

「おまえ...ごほん!セレストこそ俺のことあなたって言ってたじゃねえか。俺にだってクライって名前があんだよ。」

 セレストが睨んでいることに気が付き、慌てて呼び方を変えた。

「あら、ごめんなさいクライさん。私、貴族なので自分より身分が低い人は名前で呼ばないの。おーほほほ。」

 貴族らしくあざ笑う姿にうんざりし、強く言い返す気もなくなった。

「それ、俺以外に言ったらただの悪役令嬢だな。」

「悪役令嬢で結構。」


 しばらくして、お互い落ち着きを取りもどし、普通に話せるようになった。

「へー、あんた今そんなとこで働いてるんだ。若いのに頑張るわね。」

「まあね。父さんが亡くなってからは俺が家族を養わなきゃいけないから。」

 二人の間に気まずい雰囲気が漂う。

「俺の話はいいからセレストの話を聞かせてくれよ。貴族なんだろ、なんか面白い経験でもしてないのか?例えば、乗馬中に落っこちて馬に頭蓋骨を割られたとか。」

 悪い雰囲気を消そうと冗談を交えてセレストにそう質問した。

「そんなの経験してたらこんなとこにはいないわよ。それに面白い経験とかそんなの全然ないわよ。貴族ってあなたが思っているほど楽しくないものよ。」

 セレストは再び悲しそうに笑った。

 それを見た俺はこれ以上何も聞くことはできなかった。

「そういえば、あんた仕事に戻らなくていいの。昼休みはとっくに終わってるわよね?」

 慌てて俺は自分の腕時計に目をやった。そこには三時をまわり、四時に向かっている短針の姿が見えた。

「やべー。やっちまった。これは工場長にこっぴどく怒られるな。」

「おら、いい気味だわ。」

「なんだよ。少しは心配してくれたっていいんじゃないか。まあいい、またな。」

 俺は少し名残惜しいが、仕事なら仕方ないと立ち上がった。

「えっ、帰っちゃうの?」

 セレストは驚きそういった。先までの罵詈雑言を浴びせてきた時のとは違く、その声はとても優しかった。

「なんだよ、さっきまでは、早く帰れって言わんばかりの暴言を吐いてたくせに。てか、戻らなくていいか聞いてきたくせに。なんだ?俺がいなくなると悲しいのか。」

 からかうつもりで言ったはずだったが、セレストは捨てられた子犬のような目で俺を見つめてきた。

「な、なんだよ、俺はそんなふうに見つめられても帰るぞ。」

 そう言って振り返り、工場のほうへ歩き始めた。しかし、少しだけ歩くとセレストのほうを振り返り様子を見た。すると、そこには全く動こうとしない彼女の姿があった。それにしびれを切らし再び席に着いた。

「おい、どうした?もしかして本物の悪役令嬢に意地悪でもされてるのか。」

「べ、べつにそんなんじゃ...」

「じゃあなんだよ。黙り込んでちゃなんもわかんねーよ。」

 するとセレストは真っ赤になった顔を上げこう言った。

「クライともうちょっと一緒にいたい。」

 あまりにもストレートなその一言に、こっちまで顔が熱くなってきたのを感じた。


 俺らはカフェを後にし、昔よく遊んだ公園へと向かった。

 昔はこの坂を上るのにも一苦労だったが、今はなぜか足が軽い。きっとセレストと一緒だからだろう、自分でも知らないうちにうかれているのだろう。

 公園に着くと、そこは木が生い茂っていたため、まだ日が落ちていないのにも関わらず薄暗かった。昔遊んでた頃はきれいに整備されていたため、冬でも5時くらいまでは明るかったのに。

「ここ変わっちゃたでしょ。昔は私の父が植木屋を雇ってきれいにしてたけど、あんたがいなくなってから遊ぶ機会もなくなって、いつのまにか整備しなくなっちゃたんだ。」

 セレストは生い茂る木々を見てそう言った。その表情はどこか切なくはるか遠くを見ているようだった。

「ごめん。」

 その表情にかまんできず俺は特に理由もなく謝ってしまった。

「なんで謝るのよ。たしかにあなたがいなくなってからは、ずっと一人ぼっちで寂しかったけど、べつにあなたが悪いわけではないじゃない。」

「たしかにそうかもしれない。でも身分が違くても遊ぶことぐらいでたのに、俺はそれができなかった。」

「なんで?家族を養うために働いてたから?」

「それも理由の一つだが、本当は君に会うのが怖かったんだ。身分の違う僕と遊んでたら、君が貴族たちに笑われてしまうと思って...。」

 俺は自分でも、なんでこんな話を今しているのかわからなかったが、言葉が勝手に出てきてしまった。きっと俺は心のどこかでずっと彼女に謝りたいと思っていたのだろう。こんなことを言ってしまったら、もっと空気は悪くなってしまうことは分かりきっていることなのに。

「ぷっ、ぷははは。」

 俺は予想していた言動とは違い一瞬戸惑った。

「なにあんたそんなこと気にしてたの。子供の遊び相手にまで厳しい貴族はそういないわよ。」

 たしかにそうかもしれない。でも自分の子供が、野良犬と同じ飯を食べている子供と遊んでいることを知ったら、大人たちは快くは思わないだろう。しかし、今それを言っても空気が悪くなるだけのため、控えておくことにした。

「そうだな。俺の考えすぎだった。」


 俺らは街全体が眺められる公園内のスポットまで歩いた。ここで夕日を見てから帰るのが、幼いころの二人の日課だった。

「相変わらずきれいね、ここから見る景色は。なんか、これを見ると何もかもがどうでもよくなってきちゃう。」

 セレストは黄昏ながらやさしい声でそういった。

「そうだな。いかに自分がちっぽけな存在なのか思い知らされている気がする。」

 俺はこの時が永遠に続けばいいのに、なんて恥ずかしいことを考えながら景色を眺めていた。

「ねえ、キスしない?」

 ゆっくりと流れていた時間を、彼女のその一言がナイフのごとく切り裂いた。あまりにも唐突すぎて一瞬彼女が何を言っているのか分からなかった。

「ふぁあ!い、いきなりなんだよ。キ、キスってええ?」

「も、もうそのくらい察してよ。せっかくいい雰囲気だったのに。」

「いやいやいや、女性経験皆無な俺にはわかるわけがないだろ。」

 それに交際しているわけでもないため、いきなりそんなこと言われるとは思っていなかった。うん?なぜ彼女はキスしないなんて聞いてきたんだ。

「もしかしてお前俺のこと好きなのか?」

「なにか悪い。」

 開き直ったのか、セレストはあっさりそういった。

「もしかして、十何年間もの間ずっと好きだったのか?」

 自分で言いながら照れてきた。

「そうよ。ずっとあんたのことが好きだったのよ。」

 セレストも再び照れた。

「俺はもう貴族じゃないんだぞ。それでも俺が好きなのか?」

「そうよ。さっきも言ったけど私、身分とか気にしないし、それに...だれになんと言われようと私はクライのこと決して見捨てたりしない。」

 彼女の表情には緊張や照れ臭さの奥にどこか焦りが見えた。

「わ分かったよ。キ、キスすればいいんだろ。」

「ちがう、確かにキスしてほしいけど...先にクライの気持ちが知りたい。私だけ恥ずかしい思いするのは嫌。」

 心の中で、もう十分に恥ずかしい思いをしたのにもかかわらず、彼女はさらに俺に醜態をさらすよう求めてきた。

「べ、べつに言わなくても分かるだろ。」

「ううん。分かんない。」

 セレストは俺との距離を更に詰め、俺の胸の上に手を置き、上目づかいで顔を覗いてきた。

「うっ!」

 それに我慢できず俺は彼女の背中に手をまわし、好きという前にキスしてしまった。

 キスしている間この世界にはもう二人しかいないんじゃないかと思えるほど静寂で、彼女のことしか考えられなくなった。

「はぁはぁ...結局言ってくれなかった。」

 しばらくして二人の唇が離れると、セレストは文句を言ってきた。

 いつもなら何とか言い返したいところだが、そんな彼女すら今はいとおしく思えた。

「おまえがあまりにもかわいいから、つい。」

 少しからかってみた。

「もう、恥ずかしいこと言わないでよ、バカ。」

 そう言って僕らは再び夕日をバックにキスをした。お互いの顔が見れなくなるまで。



 あれから半年近く過ぎ、季節は冬に変わっていた。あの日を境に俺とセレストは頻繁に会うようになった。お茶会から抜け出してきたセレストと、仕事を抜けだしてきた俺とでは、けして長い時間一緒にいられるわけでは無かったがそれでもお互いの心は満たされていた。

 あまりにも頻繁に会っていたため工場の仲間達には気付かれてしまい、毎日のようにからかわれるようになった。その事を考えるとセレストはまだ誰にもバレていないのか心配になってくる。

 もしセレストの父にこの事が知られてしまったら、きっと俺らの仲を引き裂くだろう。そして、そうなってしまったら今度こそは二度と会えなくなってしまうだろう。

「ねぇ、クライ、クライってば。」

 目の前にいるセレストが俺の腕を引っ張り、気を引こうとしている。

「あっ、なんだセレスト?」

「だから、これからうちに来てお父さんにあいさつしに行こうって話。」

「あーそうだった。今から君の父にあいさ...って、ええええええええええええ。」

 あまりにもデジャブ過ぎて驚き、思わず叫んでしまった。

「しっ!周りのお客さんに迷惑でしょ。」

 口元を人差し指で押さえながら彼女はそういった。

「いやいや何でも話が飛躍しすぎだろ。てかそもそも、なんでお父さんにばれたんだ?」

 いろいろと聞きたいことはあったが、まずこれだけは聞いておかないと気が済まなかった。

「なんでって、私が言ったからよ。」

 そして、あり得ない答えが返ってきた。俺がどれだけ交際がばれてないか心配したことか。それなのにこの女はそれをすべて無駄にしやがってー。くそ!心配して損したじゃないか!

「だって、さすがにお茶会を毎回抜け出してたら怪しまれちゃうでしょ。それだからもういっそのこと打ち明けてしまえーって思って。いっちゃった。ごめんね。」

 くっ、今、彼女に効果音をつけるなら“てへ”に違いない。いや、ベロまで出してるから“てへぺろ”かもしれない。

 そんなくだらないことを考えていると、怒っているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。

「はぁー。わかったよ許してやる。でもさすがに今日あいさつに行くのは急すぎじゃないか?もうちょっと前もって言ってくれよ。」

「えっ、なになにクライさんもしかして緊張してるの?」

 にやにやしながらそう聞いてきた。それを見た俺は再び怒りが込み上げてきた。

「当たり前だろ!むしろ緊張しない方が異常だ。」

「ごめん、ごめん。でも、今日久しぶりに午後の仕事ないんでしょ?」

 俺の働く工場は、月末になると一ヶ月の納品分を作り終わってしまい暇になってしまうため、午前中上がりの日を作ってうまく日程を調整しているのだ。

「まあそうだけど、いろいろ準備とかあるじゃん、服装とか髪型とか...心の準備とか。まあとにかく今日は嫌だ。」

 腕をくみ絶対に譲らないぞ、という姿勢を示した。

「そうか残念だな。クライ君は私と会いたくないのか。」

 低く気品のある声が耳に入ってきたため、もしやと思い後ろを振り返ると、俺の予想は的中していることが分かった。

 そう、そこにはセレストの父であるバレン・シュタインが立っていた。

 驚き、頭の中は一瞬で真っ白になってしまった。

「こ、こんにちは。ぼ、僕の名前はクライ・テルですシュタイン卿。」

 緊張し、なぜか自己紹介をしてしまった。

「丁寧な自己紹介ありがとう。でも残念ながら僕は君のことをすでに知っている。つまり、君の自己紹介は無駄だったてことだ。」

「はい、すみません。」

「わかればよろしい。」

 ん?なんで今俺は謝って許されたんだ、別に何も悪いことはしていないのに。

「もう、お父さん、いるならお声掛けくださいよ。いきなり出てきたら私まで困るじゃないですか。」

「すまない。ちょっと君らの仲がどのくらいなのか見てみたくてね。十年ぶりに再会した幼馴染、二人は身分とともにすっかり変わり果てていた、ただ一点を除いて。そう、それはお互いを思いあう気持ち、なんて。」

 セレストの父はそう得意げに言うと、自慢のひげを伸ばした。これは彼のキメポーズであり、十年前から変わっていないかった。

「冗談やめてよ。私は上品に変わったとしても、こいつはなんも変わってないんだから。」

「おい。おまえもなんも変わっていないだろ。何が上品だ。ごみをあさるドブネズミ程品がないくせに。」

「ど、ドブネズミですって!!」

 俺もさすがに父親がいる前で、これの発言はまずかったと思ったが、彼はげらげらと笑っていた。それにしびれを切らし俺はついにセレストの父にキレてしまった。

「なに笑っているんですか?」

「いやいや、君たちの痴話げんかが面白くてついね。」

 それを言われると、どこか恥ずかしくなってしまった。

「元気なクライ君の顔を見ることもできたし、何より面白いものが見れたから私は満足だ。では帰るとしよう。」

 内心もう帰るのかと思ったが、早く帰ってくれることに越したことはないため、ひきとめようとしなかった。

 セレストの父は、立上り準備をしていると何かを思い出したのか、俺のほうを見て何かを差し出してきた。

「そういえば君は金属の溶接工場に働いているんだよね?」

「そうですけど?」

「ならこれを上げよう。」

 そう言って俺の手のひらに、白い粉が入った袋を置いた。

「これはやけどしたときに飲むと一瞬で直してくれるんだ。ぜひ使ってみてくれ。」

「あ、ありがとうございます。」

 一瞬怪しいものかと思ったが、今日ちょうど派手にやけどしてしまったため、もらっておくことにした。

「では私とセレストは帰ることにしよう。さようならクライ君。」

「はい。じゃあねクライ。」

 セレストはゆくっり準備を終えると、父と一緒に馬車に乗り帰っていった。

「どれどれ、せっかくだから今貰った薬を試してみるか。」

 袋をあけ、一つまみし口の中に入れた。しかし、やけどした個所は治らなかった。

「そりゃ飲んですぐ効果が表れるわけないか。せっかくだし残りも全部飲んじゃお。」

 残りの薬とコーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がったはずだったのに、視界はどんどん地面に近づいていった。

 俺は倒れたのだった。


 次俺が目を開けたのは二週間後の深夜だった。もちろん病院のベットだ。ベットの横には母と弟が寄りかかって寝ていた。

 起こすのは悪いと思いゆっくりベットから抜け出そうとしたが足が、いや体全体が動かなくなっていることに気が付いた。

「おい、何だよこれ。」

 思わず言葉が漏れてしまい、それに反応するように母が目を覚ました。

「う、うん?クライ目が覚ました、覚ました!」

 母の歓喜の叫びに弟も起き、母とともに喜んでいた。

「うそ、お兄ちゃんが起きた!起きたよ母さん!」

「ああ、よかった。あなたも父と一緒でいなくなってしまうのかと思ったわ。」

 そう言って母は俺に抱き着いてきた。

「大丈夫だよ母さん。俺は決していなくなったりしないさ。」

 俺は母を抱き返すことはできず、ただ目から涙を流すことしかできなかった。


 次の日の朝、医者が部屋に入ってきたが、病名は分からないとだけ言って出て行ってしまった。病名がわからないなんて、まるで父の時と同じようだ。

「母さん、俺が眠っている間にセレストが来なかったかい?」

「ん?セレストてあのセレストちゃん?来なかったわよ。でも彼女のお父様ならいらっしゃたわよ。なんでも、セレストちゃんが結婚するんですって。おめでたいわよね。」

 な、何をいっているんだ母さんは。セレストが結婚?ほんの二週間まで俺と付き合っていたのに。

 俺はあまりにも非現実すぎる事態を受け入れられなかった。

「母さん。それ話もう少し詳しく教えてくれないか。」

「いいけど、お母さんだってそんなに知らないわよ。そうね、なんともずっとお付き合いしていた相手と結ばれることができたんですって。貴族なのに珍しいわよね。相思相愛だったのよ。」

 それを聞いてさらに俺はさらなる衝撃を受けた。だって、俺と付き合ってたのに、ずっと付き合ってた人がいただって?ぜんぜん意味わかんねーよ。つまり、あの笑顔は全部嘘だったてことなのか?俺を捨てないと言ったのも嘘だったのか?俺は騙されていたってことなのか?なあおしえてくれよセレスト、なんで俺に何も言わず消えて行ってしまうんだよ。俺はこれからどうすればいいんだよ。

 俺のその思いが神様に通じたのか、体が少しだけ動いた。そして、何とかベットから起き上がり、ゆっくりと歩いて病室を出た。その間、母が何か言っていたような気がしたが今の俺にはセレストの声が耳の奥、心の奥深くに響いて何も聞こえなかった。


 病院を出てどのくらい歩いたのだろう。天気は雨から雪に変わり俺の歩みを邪魔してきた。まるで地の底から引っ張られているかのように。

 気が付くと俺はシュタイン家の屋敷のある坂の下まで来ていた。

 後はこの坂を上りきるだけなのに、俺の足は確実に重くなっていた。そしてついにその場に座り込んでしまった。

「くっ、動け俺の足。あともうちょいなんだ。もう少しなんだ。」

 何とか立ち上がり再び歩き始めた。だがしかし、すぐ俺の足は悲鳴をあげぞの場に横たわった。そのたびに俺は自分に言い聞かせた。この坂の上に君が待っていると、この坂を上りきることができれば、俺とセレストは結ばれると。

 しかしそんな自分だましは長くは続かず、坂を半分登り切ったところでとうとう仰向けに寝転がってしまった。横目には二人が結ばれた場所である思い出の公園が見えた。つい半年前ぐらいのことなのになんでこんなに懐かしく感じるんだろう。

 ああ、もしかして俺は今死ぬのかな、こんなところで。ああ、最後くらい彼女の腕の中が良かったな。

 もう駄目だと思った瞬間、雪は雨へと変わり、見覚えのある馬車がクライを横切った。それはシュタイン家の馬車であった。そして遠のいていく意識の中でも、俺ははっきりと見ることができた。

 彼女の悲しそうな笑顔を。











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