第10話
藍田君がようやく重い口を開く。
なにかしら、と思い、目を向けると、彼はいつも以上にどこか遠くを見ている様子だ。
「僕は、物心ついたときから気がつくと絵を描いていた。幼稚園では落書きしかしていなかったのが、小学校に入ってから初めてテーマを持った絵を描くことになった。
今でもはっきりと覚えている。一番初めに受けた図工の授業のときだった。図工室へ行くと、担任の先生ではなくて、図工専門の先生が現れた。『木の絵を描きましょう、ただし、実際の木ではなく、想像した木、夢の木です』と言った。その時、先生が言った『夢の木』という言葉が僕の内側で響いて、突然頭の中に自分が描くべきもののイメージが見えたんだ」
藍田君は、そのとき見えたものを思い出しているかのように、しばし間を置いた。
「だけど、それは一瞬しか見えなかったし、それまで落書きしかしてこなかった僕には、到底イメージ通りのものを書くことはできなかった。より近いものを、限られた時間の中で、限られた技術の中で仕上げていくしかなかった。それは、近づこうとすればするほど遠ざかって行って、詳細に思い出そうとすればするほど記憶は薄れていった。
僕が描いた絵は、クラスの中で選ばれて校長先生の部屋に飾られた。校長先生は特にその絵を褒めてくれていたらしいけど、僕は未完成の絵が飾られてしまったことが残念でならなかった。悩んだ末、思い切って担任の先生に思うままを話して、絵を返して欲しいと頼んだんだ。
先生は子供のたどたどしい話を最後まで聞くと、『小学一年生にしてはそれなりに上手じゃない』などと誤魔化すことは言わずに、『先生の友達で絵を教えている人がいるんだけど、その人の教室に行ってみない?』と言った」
藍田君は、思い出の糸を丁寧に手繰っているかのような真剣な様子で、飲み物をひとくち、口に含んだ。
「先生が何を思ってその教室を勧めたのかはわからない。校長先生に事情を話して絵を返してもらうのが面倒で、問題をすり替えようとしたのかもしれない。たかが図工の作品とはいえ、自分の意思で提出してしまったものは自分の手から放れたもので、もはや口出しできないのだということを教えたかったのかもしれない。あれから色々な理由を考えてはみたけれど、まあ、単なる思いつきだというのが多分一番近いんだろう。
そうして僕は、月に二回ほどその教室へ通うことになった。先生の自宅に子供達が集まって、タンスや壁に模造紙サイズの紙が貼られ、そこで一人一枚絵を描くんだ。用意してある水彩絵は、赤、青、黄色、白しかなくて、大きいチューブに入っていた。みんな、それらの色を混ぜて自分の欲しい色を作っていた。玄関の靴箱の上の貯金箱に材料費の百円を入れると、あとは一日一枚、好きなだけ絵の具を使って描いてよかった。
数年後、『そろそろ卒業したら』と言われる日まで、僕はそこに通い続けた。僕は、未だにあのとき見た『夢の木』を描くことができていない」
彼は話すのを止めて、一息ついた。そしてまた思い出したように話し始める。
「美術を選んだのは、いわば消去法だよ。それしかできない。大人たちがいうように、いろいろな可能性はあるのかもしれないけど、他の分野だったら、途中で飽きて途方に暮れることは目に見えている。僕はごく限られたことにしか集中できない。それはそれで要領を得ない生き方だ」
話しているうちに、ずいぶんと遠くへ来てしまった気がした。外では強い雨の音が鳴り響いている。私はただ彼の話を自分の中で反芻していた。
小学生の藍田君が住んでいたのは、私が住んでいたのと大して離れていない町だったはずだ。それぞれの住む町は同じような気候で、同じような風景があった。我々は毎日違う方向から同じ山を見て、同じ雲から降る雨の元で育った。二年ほど前にようやく生活圏が重なり、そして今日、初めて本当に彼と会ったのだ。
そうして、もう一つわかったことがあった。もし私がその物語の主人公だとしたら、私は「夢の木」という言葉を聴いた瞬間のひらめきではなく、その後の絵の教室と先生との思い出を生涯抱き続けることになったことだろう。同じ状況下でも違うものを選びとり、そのようにして彼は今の彼になって、私は今の私になっている。
私は、これからも私ができる選択の幅の中でしか生きられない。逆に言うと、どんな選択をしてもそれは私らしい選択であると言えるのかもしれないが。
気がつくと雨は上がり、時刻は五時を過ぎていた。
「美術部には戻らなくていいの?」
彼は、君こそもう漫画はいいのかと笑う。
「実は刷毛が使いものにならなくなってね。買わないといけないんだ。僕も帰るから、制服に着替えてくる」
そうして、我々は部室を後にした。
雨上がりの空気は、この中にいていいのか不安になるくらいに澄んでいる。少し前までのやりきれない暑さはなく、ただ心地よさだけがあった。
同じ制服を着て歩くのもあと半年。夏服を着て歩くのはあと一月足らずだと思うと、隣にいるのに、急にこの人のことが恋しく思われる。
「蜩がこんなに鳴くようになったんだな」
彼は独り言のようにささやく。
「このままずっと鳴いていればいいのに」
返すようにつぶやいた言葉は、夕暮れの空に吸い込まれていった。
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