第8話 北川家の日常

 家に帰ってきた俺は、ずっと押し黙ったまま西澄アリスのことを考えていた。


 あれから彼女のことが気になって仕方がない。


 いまもあいつは、あの暗く冷たい屋敷で、表情を失ったまま佇んでいるのだろうか。


 それを想うと、胸が苦しくなった。


 ◇


「どうしたの大輔にぃ。

 そんな神妙な顔して。

 珍しいこともあるわねー」


 我が家は古式ゆかしき日本家屋だ。


 和室の居間に陣取って暗い顔をしていると、次女の明希あきが声を掛けてきた。


 今年中学にあがったばかりの、下のほうの妹である。


 おかっぱ頭が可愛らしい。


「きっと、にいちゃん。

 女にでもフラれたんだぜー!」


 続いて居間に顔を出したのは、小学校4学年の弟である拓海たくみだ。


 こいつは悪戯好きなやつで、よく俺やじいちゃんに叱られている。


「なに言ってんの拓海。

 大輔にぃに、そんな女っ気なんてあるわけないじゃん」


「いや絶対そうだって!

 なぁ、なぁ!

 にいちゃん、フラれたんだろ!

 フラフラ、フラフラ、おフランス〜♪

 なんちゃって!」


 拓海のやつが、ガキ特有の意味不明な歌を即興で口ずさみながら、タコみたいにゆらゆらと踊り出した。


「あははっ!

 なに、そのダンス。

 バカじゃないのあんた!」


 明希が拓海を指差して笑い出す。


 一気に部屋が騒がしくなりはじめた。


 いつも通りの我が家の喧騒につられて、俺も表情が緩む。


 ……そうだな。


 弟妹ていまいたちの前で暗い顔をしていても、なんにもならない。


 俺は意識的に気持ちを切り替えることにした。


「ヘイ、ユー!

 おフランスだからって、落ち込むんじゃない。

 元気だせよ!」


 拓海のからかうような物言いに、軽くイラッとする。


「うっせ!

 糞つまんねぇギャグばっかいってると、また泣かすぞチビ!」


 立ち上がり、熊のように両手をあげて威嚇ポースをとった。


「ぎゃああ!

 にいちゃんが怒ったぁ!」


 お調子者の弟が、ドタバタ足音を鳴らし、走って逃げていく。


「おい、こら!

 家んなかで走ったら、あぶ――」


 止めようとしたそばから、拓海が部屋に入ってこようとした人物とぶつかった。


「――きゃ⁉︎」


「はぶぎゅ!」


 小さな弟は、跳ね返されて尻餅をつく。


 対してぶつかられたセーラー服の女の子も、鼻を手で押さえて涙目になっている。


「ぅぅ……。

 いたい。

 こら、拓海!

 家のなかで暴れちゃダメって、何度も言ってるでしょ」


「ふぎゅぅぅ……。

 わ、わりぃ、雫ねぇぇ……」


「んもぅっ。

 痛いなぁ

 鼻がぺちゃんこになっちゃう」


 拓海の頭がぶつかって、赤くなってしまった鼻をさすっているのは、長女で中学3年生のしずくだ。


 まだ幼さが勝るものの、将来はしっとりとした美人に育つだろうことの間違いない、自慢の妹である。


「よう。

 大丈夫か?」


 拓海を抱き起こしながら、雫に声をかける。


 目を回してしまった愚弟を部屋のすみに寝かせてから、俺は雫が畳に落としてしまったスーパーのレジ袋を持ち上げた。


「これ、台所まで運んどくぞ」


「うん。

 ありがと、お兄ちゃん。

 じゃあ手早く晩ご飯作っちゃうね。

 明希ー。

 お料理手伝ってくれる?」


「はぁい」


「おい、雫。

 俺もなんか手伝うことあるか?」


「んーん。

 いまはないよ。

 でもすぐにご飯出来ると思うから、しばらくしたら、おじいちゃん呼んできてもらえるかな?」


「オッケー。

 まかされた」


 俺と、長女の雫と、次女の明希と、末っ子の拓海。


 これにじいちゃんと、夜遅くまで家族を養うために働いてくれている親父を加えた計6名が、我が北川家の面々だった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 賑やかな夕食の時間が過ぎた。


 今日の晩飯もうまかった。


 早くに母親をなくした我が家では、料理は主に妹たちの担当となっている。


 雫の料理の腕は絶品だ。


 特に出し巻き卵なんかの和食がうまい。


 俺が縁側で夜空を見上げ、食べ過ぎてくちくなった腹をさすっていると、賑やかな家のなかからじいちゃんがやってきた。


「……ふぅ。

 よいせ」


 おもむろに俺の隣に腰掛けたじいちゃんが、いつものべらんめぇ口調で尋ねてきた。


「なぁ、大輔。

 なにか悩みごとがあるんじゃねぇか?

 ほら、言ってみろや」


「……なんの話だよ」


「誤魔化すんじゃねぇよ。

 大輔。

 お前、飯くってる間も、ちょくちょくうわの空だったじゃねぇか。

 なんか悩んでんだろうが」


 さすがはじいちゃんである。


 仕事で留守にしがちな親父に代わって、俺たちが小さな頃から面倒を見てきてくれただけのことはある。


 ぶっちゃけ俺たち兄弟姉妹は、みんなじいちゃんっ子だ。


 だから俺は、西澄アリスのことをじいちゃんに相談してみることにした。


 ◇


「……って、わけなんだよ」


 ひと通り話をすると、それまで黙って聞いてくれていたじいちゃんが、ぽんと膝を叩いた。


「かかかっ。

 そうか、そうか……」


 いま話したのは、西澄が学校や家で、どんな孤独な環境に置かれているかの話だ。


 面白い要素なんて、欠けらもないはずである。


 なのに急に快活に笑い出したじいちゃんに、俺は軽くムッとした。


「なにを笑ってんだ、じいちゃん」


「ああ、悪りぃ。

 別にその嬢ちゃんの話が面白くて笑ったわけじゃねえから、そう怒るな」


「じゃあ、なんだってんだ?」


「いや、なぁに。

 ついにオメェも、女の話なんざするようになったのかと思うと、感慨深くてなぁ……。

 かかかっ」


 不意打ちみたいなじいちゃんの言葉に、俺はちょっと顔を赤くしてしまう。


「お、女な話だぁ⁈

 そ、そんなんじゃねぇての!」


 誤魔化すように、俺はぶっきらぼうな口調で言い放った。


「そ、それよりいまは、あいつの話をだなぁ……。

 って聞いてるのか、じいちゃん!」


 よほど愉快だったのだろう。


 じいちゃんはいまだに笑い続けている。


「ちっ。

 ……たく」


 舌打ちしてから、じいちゃんの笑いがおさまるのを待つ。


 ようやく笑い終えたじいちゃんが、真っ直ぐに俺の目を見て語りかけてきた。


「それで大輔。

 オメェはその嬢ちゃんのこと、どうしてやりてぇんだよ?」


 少し考えてみる。


 夕陽に染まる校舎裏で眺めた、西澄アリスの微笑み。


 あれはまるで、すっと胸に染み入ってくるような暖かな笑みだった。


「俺は……。

 俺はもう一度、あいつの笑顔がみたい……」


「……はんっ。

 なんだ大輔。

 もう答え、出てんじゃねぇか」


 じいちゃんが膝に手をついて、縁側から立ち上がる。


「なら大輔。

 テメェは全力で、その嬢ちゃんを笑わせてやりゃあいい」


 それだけ言ってから、じいちゃんは歩き始める。


「……ああ。

 そうする」


 なんだかじいちゃんに、背中を押された気がした。


 俺は騒がしい家に戻っていく後ろ姿に向かって、頭を下げて感謝した。

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