『Book of Ghost』
原稿用紙にも墨にも余裕はあったけれど、知識の在庫が切れてしまった。僕は重い腰を上げて立ち上がり、図書館に向かう。
紅坂は説明するまでもなく坂だとして、古城はもう何千年か昔に利用されていたものらしい。中は
中庭を抜けた先にある噴水はもうとっくに枯れていて、
図書館は元々武器庫として利用されていたらしい、背は高いが面積の狭い塔の中にあった。全ての武器や棚は取り外されて、
「あらあらこんにちは」と、頭上から声が降ってきた。「
「今日は忘れたんじゃなくて、足りないと思って来たんだよ。詰め込まないと吐き出せない」
「あらそう。大変だね。私はそんなこと一度だってないけど」
訂正しておくが僕は書生ではない。言葉の定義から言って、明らかに間違っている。けれど彼女は僕をそう呼ぶことに決めたらしい。だから僕も彼女のことは幽霊と呼んでいる。まあ、あまり呼ぶことはないんだが、分類としてはそうだ。呼称は、君とか、そういうことの方が多い。
「で、どんな本をお探し?」
「そうだなあ、面白い小説が読みたい」
「面白い小説ね。たくさんあるよ、少なくとも私が面白いと思ったものなら。ねえ、こんなに世の中に面白い小説がたくさんあるのに、どうして書生さんは小説を書くの?」
彼女はよくよく僕に突っかかってくる。どうにも僕が、この後に及んで一生かかっても読み切れないであろうほどに本が
「僕は書かないと落ち着かないんだよ」
「病気なんだね」哀れなものでも見るようにして彼女は言った。「書生さん、言語は何が読めたっけ」
「母国語以外はさっぱりだよ」
「そう、じゃあ、そういう本を読ませてあげようかな。ついておいで」
彼女は図書館に住み着いた少女で、体つきは小さいけれど成人済みだということらしい。年齢なんてものはまああまり関係のない世界ではあるけれど、それでも図書館を管理する人間としては少々
塔は五階の高さまであるが、その階数というのは人間が動ける範囲というだけで、階ごとに本が分類されているというわけではない。本は至るところにあって、例えば壁が全面
彼女の背丈は、僕から階段を二段分引いたくらいの差がある。丁度今、彼女の後ろをついている僕は、彼女と同じ目線で階段を上っているはずだった。
「何故人は本を読むのでしょうね」と、彼女が歩きながら言った。「本を超える感動が世界にはあるのに」
「人工的な快感が嬉しいんじゃないかな」
「作られた物語ということかな」
「快感というのは、紛い物だよ。日常生活では得られないものだから、そういう刺激を人間は求めるわけでさ。世界がいつも刺激的であれば、快感を求める必要はない」
「性的快感が読後感を超えることがあるのかな」
「それは君にはまだ早い話じゃないかな」と、僕はいつものように彼女を子ども扱いする。「少なくとも、興味本位で手を出すべきじゃない」
「私は成人しているけれど」
「成人が全てじゃないと思うよ、幽霊君」
「ならば知識かな。でも書生さん、私はあなたより知識の上では勝っていると思うし、色々なことを知っているよ。書生さんが知らないような性知識も、この頭の中にはたくさん詰まってるの」
「じゃあこう言い換えよう、経験が一番強い」
「百聞は一見にしかず」
「ということじゃないかな」
「でも書生さんはさ、興味本位で手を出すべきじゃないって言ってるよ。興味を持たずに経験を積むことって難しいんじゃないかな」
「いつか時期ってものが来るよ」
「私にはそうは思えないけど」
彼女は階段をそれ以上踏まずに、恐らく三階部分で進路を
「ところで今はどんなお話を書いているのかな」
「興味があるんだ」
「別にないけど、世間話って必要でしょう」
「今は、昔の話を書いてるよ」
「歴史小説ってことだね」
「そこまで堅苦しいものじゃないよ。でも、もっと人口が多くて、もっと技術が
「私があまり好きじゃない時代の話なんだ」彼女は少しがっかりしたように言った。「あまり好きじゃないんだよね、あの時代は」
「どうしてか聞いてもいいかな」
「本が面白くないから」と彼女は言った。「もちろん、素敵なものもあるけれど、母数が多すぎて」
「なるほどね。大衆娯楽的だったってことか」
「それもあるけど、本じゃないんだよね。あれは、原作。質の悪い
「なるほど」
「あとね、個人製作の本がたくさんあったから。あれってね、ひどいものがたくさんあるよ。一応書庫にあるけど、外には出せないな」
「そんなにひどいのか」
「書生さんは見ないでね。文学力が下がるから」
文学力なんていう言葉にこそ文学力が
「ねえ、これなんかいいと思うな」と彼女は一冊の本を僕に手渡してくれた。「これはね、売れなければ小説を書くのをやめようという決意で書かれた作品なんだよ。推理小説なんだけど」
「面白いんだ」
「どうかな。けど、書生さんの書きたい時代に書かれた小説だから、参考になるんじゃないかな」
「そう、じゃあ読ませてもらうよ」
「お茶でも
「持ち出しは」
「禁止だよ」
僕に押しつけた本を、彼女は中指の関節で二度小突いた。戸を叩くような仕草だった。
彼女の部屋は五階にある。僕は先に部屋に行くよう
天窓からは心地良い日差しが降り注いでいる。まったく職権乱用というか、彼女の部屋には彼女が気に入った本ばかりが置いてあった。それも乱雑に積まれている。これらは図書館の利用客の手に触れることはないので、永遠に彼女のものだ。唯一ある家具らしい家具は揺り椅子で、彼女はそこで寝ているらしい。本を読むのもそこだ。中央にある丸机は、家具というよりは部屋の一部という印象だ。
僕は壁によりかかり、本を開いた。独自な文体の本だったので、すぐに言葉が引っ張られそうになる。僕はいつでもそうだ。すぐに影響を受ける。けれどそれならそれで良いのかもしれない。もっと面白い小説が書けるんだろう。それはきっと幸せなことだ。
「お待たせ。今日は閉館だからゆっくりしていって」
「ありがとう。お湯を沸かすのを手伝おうか」
「書生さんは、もっとたくさん本を読んで」
怒られてしまったのかもしれない。僕は大人しく本を開いた。実際のところを言えば、あまり本を読むのは好きではないのだ。僕の一番嫌いな言葉に「人間を二種類に分けると」というものがあるが、それに
「ねえ、ところで、原稿はまだかな」と、彼女が問う。「私も何か読みたいよ」
「原稿はまだないよ」
「何言ってるかわかんない」
「まだね、書いている最中だから、原稿はない」
「じゃあ帰って」
「嘘だよね」
「嘘だけど、帰って欲しいくらい傷付いてる」幽霊は死んだような顔をして
「そうだったんだ。それは、悪いことしたね。でも、流石の僕もね、昨日の今日でまた別の物語を書き終えるなんてことは無理だよ」
「書生さんは書くこと以外に才能がないんだから、毎日書いて
まったく彼女は頭のおかしいことを言うけれど、案外それは間違っていない気もした。さっき僕は自分で人間を二種類に
「明日は書いて持って来るよ」
「じゃあ、前借りでお菓子を出してあげるね」恩着せがましい言い方は、彼女らしい。「ねえ書生さん、もし明日持って来たお話が面白かったら、ご飯を作ってあげるよ」
「それはいいなあ。実は昨日から何も食べてないんだ」
「まるで小説家みたいだね」
「なにが」
「物語を書いてご飯を食べさせてもらうなんて」
「ああ、そういう職業が、昔はあったみたいだね」と、僕は懐かしむように言う。知らない時代のことを、さも思い出のように。「幸せな職業だよね」
「悲しい職業だよ」
まるで僕の言葉を否定するのが仕事だと言わんばかりに彼女は言う。けれど僕は傷付かない。彼女のことは、嫌いにならないことにしているからだ。
「悲しい職業ってのは、どうしてだろう」
「だって、好きに小説が書けないんだよ。悲しいよね、私は、お金がもらえても本は読みたくないな」
「趣味は仕事にするなってことか」
「ううん、だって書生さんは、私に書いてくれるんでしょう」
彼女は
「まあそうだね」
「そして私は、書生さんのお話を読むの。もし小説家になったら、色んな人に読んでもらって、色んな人に読ませないといけないんでしょう。そんなの大変だよ。悲しいよ」
「一人にだけ
「ううん、嬉しいだけだよ」
やっぱり僕の言葉を否定する。まるで僕の語彙を増やそうとするような行為だ。そうして僕は彼女の好みを知らされて、それに合わせるようにして物語を書くんだ。そしてたまにご飯をごちそうしてもらったり、お茶とお菓子を食べさせてもらって、暮らしている。
そんな気持ちを表す感情を、僕は今までなんと表現していただろう。けれど今はきっと、嬉しい、と表現することだろう。すぐに僕は影響を受ける。けれどそれで彼女が喜んでくれるなら、やっぱり、嬉しいと思う。
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