第3話 セラピー
渓合町で中華料理屋を営んでいる塩田夫妻にとって、唐突に現れた記憶喪失の少女朝子こと朝茶子は、とても嬉しい面倒ごとだった。
一人きりの愛娘が夜な夜な拾ってきた、夜闇にすら溶けきらない眩さの女の子。がらんとした閉店後の蛍光灯のほの明るさの中ですら綺羅綺羅と白く。舞台を選ぶことなくやたらと輝いて、朝茶子は夫妻に正体を見通させなかった。
まさかこんな美少女が、いいやむしろ人間の理想像の一つといっていいかもしれない整いが、間違ったことをするものとは思えずに、塩田の人達は朝茶子の話したことをまるきり信じ込む。
そうして、これからどうしようかな、と独り言つ少女に、半ば物語的な展開にわくわくとしながら、塩田家の面々は彼女の保護を選んだのだった。
医者に何を答えてどうしてこうなったのか全生活史健忘という大層な病名を付けられて、如何なる理由か警察がその身元をろくに辿ることすら出来なかった朝茶子を、家族同然として。
「それにしても。役場通いに警察さんに何だかんだあったけれど、朝子ちゃんを助けてみて、ほーんと良かったねぇ」
「そうだなぁ。給金を出すから家の手伝いをしてくれないか、と言ってみたのは思いつきだったが、思ったよりずっと働いてくれている」
「何より、美雨のお世話を買って出てくれるのも嬉しいわよね。あの子も、おねーちゃん、おねーちゃん、って懐いちゃって」
「はは。だな」
テーブルのベタつきを気にして布巾を動かしながら、感慨深げに言う
二人の良好な夫婦仲が寄り添い奏でる言葉の内容は随分と彷徨ってから、身内の一人について、に移っていた。
塩田の家にて、朝茶子は目新しく華やかな題目だ。一般的な核家族の隙間にするりと入り込んだ、絢爛な不可思議。
よく分からないけれど愛らしくて面白い、がとても楽しそうに家族の巡りを良くしてくれているなんて、なんて素敵なことだろうと縁と冬一は思うのだ。
話題にしている少女の白磁の内を知らず、二人して朝茶子の飾らない笑みに素朴を覚えながら。
「ただ少しあの子、こんな在り来たりの料理屋に置いておくには少し、見栄えが良さ過ぎるんだよなあ……」
「あら。常連さんの目当てが朝子ちゃんに変わっちゃってることには流石に、のんきなあなたも思うところがあるのかしら?」
「まあ、給仕さんがあれだけ可愛けりゃ、そりゃあオレの料理なんか霞むだろうが……そんなこっちゃなくってさあ」
「だったら、なあに?」
「なんつーかさ。背景が霞むんだよ。最近ちょくちょくそろそろ店、建て替えた方が良いかな、って思っちゃうんだよなあ」
「ああ……」
何となく、同意に頷き損ねた縁から目を逸らして、冬一はどこか黄色がかった店内を見渡す。
経年劣化は、大概の瞳においては見すぼらしく映る。最近こと清潔を心がけて清掃していようとも、こびりついた汚れに褪せは、どうしたって隠せなかった。
父親から受け継いで大切にしてきた中華飯店。しかし端々の年季はそろそろボロと呼称されてしまいそうな程に汚くて、それはそれは朝茶子の持つシノニムな美との格差を生んでいた。
しばし悩み、夫の前で口の紅を意識しながら縁は言う。
「でも家にはそんなお金もないし……それに、それは、ずっとこんな趣のあるお店で働いてみたかったんです、って言ってた朝子ちゃんをがっかりさせてしまうことになるんじゃないかしら」
「……あの子、やっぱり変わってるよなあ」
「それは間違いなくね」
半笑いで、縁と冬一は顔を合わせる。対面に、互いに老いを感じながらも、最愛のそれを酷く大事に思いながら。
そこはかとなく、仕事場に紛れて働く朝茶子を二人は見つめていた。よく働く少女は、明らかに汚れ知らず。いや、それはむしろ汚れに忌みを覚えていないのではという程の、無垢。
子供には優しく、老人には尊敬を持って、そもそもお客様を大切に。そんな文句を言われずとも徹底的に行えてしまえている辺り、朝茶子は普通ではなかった。
人の間で生きてさえいたら擦れて全身に付着してしまい元来の体を失くしてしまうだろう筈であるのに、彼女は赤子同然の精神のまま。
あれは性についてまともに知っているかさえ怪しいな、と思う冬一に、その世話の一助をしている縁はふと呟いた。
「そういえば、朝子ちゃん、皿を初めて割った時に泣いちゃったのよね。それで、何を言ったと思う?」
「ん? 割ってしまってごめんなさい、か?」
「違うの。この子、あたしみたいにしちゃった、って言ったのよ」
陶器の意味喪失。それに酷く嘆く朝茶子を見つめた覚えのある、縁は面を複雑に変える。
涙は、自然に零れたもの。朝茶子が無闇な明るさの中に、突けば底から自ずと水が溢れてしまうほどの脆さを秘めていたことは驚きであり、またある種納得のいくものであった。
きっと、頑なすぎて、穢に遠すぎるのが朝茶子の本性。それを理解して、比較的に歳近い縁は我が子同然の女の子を想うのだ。
もっと、色付いてしまっていいのに、と。母情に満ちた妻の隣に寄り添い、完全に唐揚げの用意を忘れた冬一は自らの考えを喋りだす。
「……あの子、本当に記憶喪失なのかな」
「怪しいところね。まあ、何時か本当のことを話してくれるでしょう。……つい先日のことだけど、会話の中でぽろっと修学旅行に日光に行ったっていうことを語りだして、後でしまった、ってしていたことだし」
「脇が甘いなあ、朝子ちゃん!」
思わず出た冬一の言葉は龍鳴軒の内一杯に響いた。しかし夫婦の表情に険はなく、むしろ柔らかなものであったからには、それが驚くべきことではなかったということであるだろう。
そう、彼らは彼女の嘘すらも、呑み込んでいたのだ。家族の間の嘘なんて当たり前と、意外なほどに優しく。
その判断には、朝茶子の普段の頑張りぶりとその人柄も影響しているが、何よりも。
「まあ、何か影背負っていた方がらしいというか」
「ドラマチックだよなあ……」
呑気な二人が望む、ロマンがあったからだった。
そうやって塩田夫婦は当事者意識を欠かしていて、おかげで。
「おさんぽおさんぽー」
「ふふ。美雨ちゃんは、夜のお散歩大好きだね!」
「うん! だってお星さま綺麗だし、それに……」
「それに?」
「朝子おねーちゃんに会えたのも、夜だったから、大好き!」
いつぞやの近くの海岸線にて、二人。きっと死後は地獄に堕ちるのだろう彼女は夜な夜な幼子の手を引けていた。
満月の光すら陶磁に隠された彼女の心を明るくするには足りない。けれどもその面の美しさはまざまざと浮かび上がり、そして影あればその深き彫りははっきりと映し出されて。
俯きの所作一つですら、光で色を変える花の可憐。
「……そっか」
ぎゅっと、握るその手の力優しげながらもなるだけ強く。美雨の温もりが、何よりも朝茶子を慰めているものとは、誰も知らない。
「あの子は…………ん。これ」
そして、孤独なままに小児セラピーを受けながら揺蕩う乙女を、隣町のゲームセンター帰りに大崎まひるは少し離れた位置から見かけた。
いつぞや彼女の嬉々を料理屋の前で見かけた覚えに、そして漣を隣にした今の寂しげな表情に、まひるは思わず感じ入る。
そうして満月の下の白い花が振りまく優しき照りをただ綺麗だな、という感想に窮屈にも押し込めていると、足元に何やら影が。拾い精査し、その黒が彼女のものと確信する。
落とし物が、真っ黒なハンカチーフであったことに、どうにも古典的な展開を覚えながらも、しかしまひるは都合に合わせて朝茶子に届ける気持ちを急がせなかった。
「楽しそう、だったもんな……」
だって、すれ違っただけでも分かるくらいにあの二人はとても幸せそうだったのだ。稚気の隣でそれに合わせた心が満面に。それをざわめかせるのはきっと、勇気が居るだろう。
そしてまひるにはいたずらにお邪魔をする気は更々ない。そもそも、夜分唐突に暗がりから声を掛ける男なんて、怯えさせることにしかならないだろうとも考える。
そうして、彼は美人に近づきたがる男の性に蓋をして、そうしてあくびを一つ。結果、微かな逡巡よりも眠気が勝った。
「ふぁ。後で、返してあげるか」
まひるは、まどろむ。僅か、不随意呼吸に刺激された涙腺から滲んだ汁が視界を濁らし、やがて。
彼女は闇に溶けるように消えていった。
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