第2話

 少年は黒い瞳を上げて天上を見やる。ここは洞窟と言うよりも、長年の風雨の浸食によって崖下に生じた窪みといった方が良いだろう。この窪みにはスペースに余裕があり、息苦しい感じはしない。


「確かに、このシャーロック地方でアルビスは滅びたと言われているが、場所までは特定されていないはずだ」


「凄い、貴族様は違いますね」


 婦人がスープを椀に注ぎながら笑顔を浮かべる。ボサボサの髪に、そばかすの浮かんだ顔。お世辞にも美しいとは言えない婦人だったが、浮かべる笑顔は眩しく、スープの香りと共に優しさが心に染みいってくる。


「しかし、あの戦争がなければもう少しこの辺も発展していたんでしょうね」


 主人は無精髭の生えている顎をさする。少年はスープの椀を受け取ると、両手で包み込む。椀から伝わる温もりが、冷えて固まった体を解していく。現金な物で、先ほどは死を覚悟していた体だったが、生きられると思うと生気が漲ってくる。


「いや、それは違う。アルビスの出現により人間は魔晶の使い方を学んだ。星より湧き出る魔晶は様々な器機に応用できる魔晶術へと変化し、今の世界を支えている」


「しかし、魔晶は一部の地域でしか使えないんでしょう? 自慢じゃないが、私なんてまだ一度も車という物を見たことがない。いくら都市部が便利になったとしても、私達には関係のないことなんですがね」


 言って、主人はボリボリと豪快に頭をかく。


「……その通りだ。魔晶は地脈の関係で吹き出る場所が決まっているからな。魔晶戦争以後、魔晶の研究が盛んに行われているが、その技術は二百年ほど前から足踏みしているのが実状だ。こうしてリングに入れて断定的に使用するのが限界だからな」


 少年は左腕をまくると、煌びやかな宝石が埋め込まれたリングを見せた。


「それが、魔晶を使った魔晶術の輪っかですか?」


 マジマジと見つめてくる夫婦に少年は溜息をついた。どうやら、この二人は本当に何も知らないらしい。夫婦の言う通り、魔晶の恩恵のないこの地方では、魔晶術自体が異国の文化その物なのだろう。


「これは、『魔晶具』と呼ばれている。『魔晶石』と呼ばれる宝石の中に魔晶を充填し、『魔晶術』として使うんだ。魔物は魔晶具なしでも魔晶術を使えるが、人は魔晶具無しでは魔晶術を使うことは出来ない」


 少年の言葉に夫婦は頻りに頷く。



 オオオオオオーーーーン



 その時、一際強い風が洞窟の入り口を叩き付け、カーテンの役目を果たしていた動物の毛皮が捲れ上がる。冷たい風が暖められた洞窟に入り込んでくる。


「おい、聞こえたか?」


 突然、主人が険しい表情を浮かべた。婦人も真剣な表情を浮かべてコクリと頷く。


 二人の様子を見やりながら、少年は手にした椀を口に運ぶ。トマトの酸味のきいた温かいスープだ。塩胡椒だけの簡単な味付けだったが、冷えた上に空腹の体にはこれ以上ないご馳走だった。


「すみませんが、この子を少し見ていてもらって宜しいでしょうか?」


 申し訳なさそうに、主人がこちらを覗き込んでくる。


「この子?」


 少年は傍らで眠る赤ん坊を見下ろした。ゴツゴツした寝にくい場所だというのに、この子は起きることもなくスヤスヤと眠り続けている。


「構わないが、どうかしたのか?」


 少年の問いに夫婦は顔を見合わせる。


「外を野犬がうろついているようなので、追い払ってきます。心配は無用です」


「庶民を心配してどうなる。私がこの赤子を見ていてやる。とっとと追い払ってこい」


「……ハイ、宜しくお願いします」


 洞窟から出る間際、婦人は子供にキスをし、愛おしそうに頭を撫でた。それを見ている主人の目に、光る物が見えたのは気のせいだろうか。


 スープを啜り、暖を取っている少年の耳に、吹き荒れる風に混じり野犬の遠吠えが聞こえてきた。


 それから、一時間経っても、二時間経っても夫婦は戻らなかった。


 そのうち、目を覚ました赤ん坊が泣き始めた。最初こそ放って置いた少年だったが、赤ん坊はいつになっても泣き止まなかった。甲高い泣き声は狭い洞窟に反響し、次第に頭痛を呼び起こしてきた。仕方なく、慣れない手つきで赤ん坊を抱きしめた。少年には大勢の弟妹がいたが、乳母やメイドが世話をしているため、赤ん坊を抱くのはこれが初めてかも知れない。


 柔らかく、弱々しく、一人では生きていけない存在。足手まといにしかならないが、その小さな存在は自然と周囲の人を笑顔にする、掛け替えのない存在。胸に抱いた赤ん坊の温もりを確かめながら、少年は夫婦が出て行った出口を見つめた。夫婦が帰ってくる様子はない。時折、強風によって毛皮が捲り上がる。その際、僅かに血の臭いを嗅いだ気がしたが、少年は気に掛けることなく、胸に抱いた赤ん坊をあやしていた。


 そうこうしているうちに、いつしか少年は眠りについてしまった。胸に抱いた赤ん坊も、泣き疲れて一所に寝てしまった。



 刺すように冷たい空気と共に、何かが洞窟に入ってきた。


 これは夢だろうか。


 いつの間にか、風の音が止んでいた。ヒタヒタと足音が聞こえる。


 鼻につく獣の匂い。血の臭い、腐敗臭。


 複雑な匂いが混じり合い、その匂いの根源が近づいてくる。激しい息遣いは血に飢えた獣のようだが、発する気は巨大で邪悪だった。


 闇が迫ってくるような感覚。


 少年はそれを感じていた。


 起きているのか、寝ているのか分からない。


 洞窟のビジョンは見えるが、体はピクリとも動かない。


 深い闇が目の前に現れた。闇はユラユラと揺れており、四つ足の獣のようにも、人のようにも見えた。闇の足元にある固い岩盤が、音を立てて融解していく。



 お前は……未来がある……



 ……いつの日か……我がその未来を貪り食う……



 いずれ……お前は……我が宿敵となる……



 声が直接頭に響いてきた。


 闇が触手を伸ばしてきた。


 少年は闇を見つめた。


 闇の伸ばした触手は少年ではなく、胸に抱いている赤ん坊に向かっていた。



 ヤメロ! ヤメロ! その子は赤ん坊だぞ! 何も知らない子だ!



 誰だか分からないが、狙うなら私を狙え! 私の命をくれてやる!


 未来とは言わず、今、私の命を持って行け!



 だから、この子には手を出すな!



 実際声として出たのか、心の中で叫んだだけなのか、少年も分からなかった。少年の叫びに何の反応も示さず、闇は触手を赤ん坊に伸ばした。


 触手が赤ん坊に触れた瞬間、闇の姿が少年の前から消えた。


 赤ん坊が激しく泣き出した。いつまでも泣き続ける赤ん坊を、少年は動かない体で抱き続ける事しかできなかった。


 鮮烈な光が洞窟内に差し込んできた。光に照らされ少年が目を開けると、そこには鎧を着込んだ兵士達が安堵の表情を浮かべて立っていた。


「ご無事でしたか!」


 名も知らぬ兵士が駆け寄り少年を立たせた。少年の胸で眠る赤ん坊は、スヤスヤと寝息を立てていた。


 昨夜のあれは夢だったのだろうか。赤ん坊も元気だし、洞窟の中も異常は見られない。やはり夫婦は帰ってこなかったようだ。どうかしたのだろうか。


 外に出ると、昨日までの吹雪は嘘のように収まっていた。空は晴れ渡り、周囲の景観を一望できた。


 少年が一夜を明かした洞窟は谷底にあり、崖が天高く伸びている。崖の縁に切り取られた、雲一つ無い細い青空が見えた。空から降り注ぐ光が雪に反射し、渓谷を銀色に輝かせていた。鮮やかな白と青が目に眩しい、美しい光景だった。


「若い夫婦を見なかったか? 彼らが俺を助けてくれたんだ。礼くらいはしたい。それに、大事な預かり物もしているからな」


 少年は抱く子供の寝顔を見て頬を緩めた。少年は気がついていなかったが、彼が顔を緩めたのはここ数年なかった。


「大変申し訳ありませんが、見て頂きたい物が」


 少年の言葉に目を伏せた兵士は、少し離れた場所に少年を誘った。


 兵士が導いた場所、そこに辿り着いた時、少年は息を飲んだ。足の力が抜けそうになり、強く意識を保っていなければ、その場に座り込んでしまいそうだった。抱える腕に力が入り、驚いた赤ん坊が大きな声を上げて泣き出した。


「そんな、どうして……?」


 泣き叫ぶ声も耳に入らず、少年は足下に広がる惨状を呆然と見つめた。


 足下には、かつて人だったモノの肉片が散乱していた。顔も、腕も、足も、内蔵も食い散らかされ、男女の判別も難しいほどだったが、彼らが身につけている物だけは辛うじて原形を留めていた。血にまみれて本来の姿は殆どとどめていなかったが、汚れた皮のマントに茶色い洋服は、紛れもなく若夫婦の物に違いなかった。


 雪の上に落とされた一滴の赤いシミ。目にも鮮やかな白と赤のコントラストを前にして、少年はたじろいだように後退した。


 何故? どうして? 疑問符ばかりが混乱した頭の中を駆け巡る。普段は冴え渡る思考力も、この瞬間だけは錆び付いてしまったかのように、まともに動いてくれなかった。


「野犬を追い払いに行っただけなのに……」


「この辺りに野犬はいません。恐らく、狼でしょう」


 兵士は少年の頭に巻かれた包帯を見て、辛そうに言葉を紡いだ。


「狼は血の匂いを追っていたのでしょう。恐らく、この夫婦は貴方を助けるために犠牲になったのだと思います。二人も喰えば、狼も腹がふくれるでしょうから」


「私を助けるために……犠牲になったのか……?」


 ついに少年の膝が折れた。雪の上にぺたんと腰を下ろした少年の目から、熱い雫が流れ落ちた。その雫は、足下に広がる雪にいくつもの穴を穿った。


「どうして私のために……、私は生きていたって何も出来ないのに。どうして、どうして……! 私は自分の名前も名乗らなかったし、お前達の名前だって知らないんだぞ! 初めて会った人間に、どうして大事な子供を託して……!」


 嗚咽を漏らしながら、ボロボロと涙を流す少年の耳に、昨夜聞いた主人の言葉が蘇った。



「貴方が貴族様だからです。貴族様は、人々の暮らしを良くして下さる。だからこそ、私達は貴族様や、王様を守らなければいけないのです。年齢なんて関係ありません。貴方は私達を導ける方なんですから」



 腕の中で泣く赤ん坊の頭を、震える手で撫でた。


「ゴメン、ゴメンよ。私は、君の両親を殺してしまった。本当に済まない……! 許してくれ……!」


 優しく子供を抱きしめた少年は、この時、一つの誓いを立てた。自分の為に死んでいったこの夫婦に報いるためにも、この国をより良い方向へと導けるような人物になると。この子供が成長した時、胸を張ってその成長を称えられる立派な大人になることを。


 晴れ渡り、風一つ無い雪渓に響く子供の泣き声は、天国へと旅立った両親を恋しがるようにいつまでも響いていた。

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