今日も一日が終わる

Yuu

退勤

―今日も一日が終わった。


 この会社にプログラマとして入社して1年。

たった1年の間に、わたしの手はタイムカードの前を通り過ぎると同時に全く無駄のない動作で退勤時間を打刻する術を体得していた。19:30。

打刻完了のシステム音を背中で聞くとまた改めて「今日も一日が終わった」感覚が頭の中に染み込む。

まだ「今日」はあと4時間半も残っているのに、こんな気持ちになるのって妙だよなって思う。

家に帰ってから家事をして、風呂に入って後は寝るだけって所まで持っていってもまだ「今日」は終わらない。

それでもこの心地よい「終わった感」がもたらされるのは、わたしのからだがこの後の4時間半は特に何も起こることなく、

明日を迎えるということを学習しているからだと思う。

そして、明日もこんな感じのルーティンを繰り返すだろうということもまた予測しているのだろう。


 ルーティンに最適化された「からだ」。わたしはたまにこの自分の「からだ」にゾッとすることがある。

このからだはわたしをどこまで連れて行くのだろう。

明日も明後日も、来週も再来週も、来年も再来年も、

週休二日で働いては寝て、起きては働いて、たまの休みに喜んで、を繰り返していくのだろうか。


―いつまで?



と、そろそろ自家中毒を起こしそうになったところで私の懐が震える。胸ポケットからスマホを取り出し通知を確認する。

妻からだった。あちらも仕事が片付き、退勤を済ませたとのこと。

返信のために足を止める。私の足は自宅最寄り駅で降り、改札を通過するところまで進んでいた。恐るべきわたしの足。眠ったままでも家に帰れそうな気がする。


近くのスーパーで買い物しておくから駅で合流して一緒に帰ろう、と返信する。

妻と一緒に帰るのは久しぶりだ。

妻と一緒に帰るには、わたしがほとんど残業せず、かつ、わたしが退勤時に妻に連絡をすることが必要で、

たいていはこのどちらか(おおむね後者)が成立しないからだ。


ともに朝の弱い我々が選んだ家は駅から徒歩5分ほどで、一緒に帰ったところで特に何もなくあっさり家についてしまうのだが、

時間が合わせられるのなら一緒に帰りたいと思うのが人情だろう。



 スーパーは駅から家の逆方向にまっすぐ進むとほどなく着く。

左手側には大きな幹線道路が通っており、右手には


昔一軒家があったであろう空地、


続いてこの辺ではかなり古い一軒家を構える村田さん家(住人を見たことはここに住んでから一度もないが)、


その村田さん家とは正反対に真新しくぴかぴかなクリーニング屋、


そして数か月前閉店したがかつての名残を残す老舗のラーメン屋と続き、そこを過ぎるとスーパーがどーんと構えている。


 わたしはスーパーに入るなり、からだに染み付いた独自の最短経路で食材をかごに放り込み、5分ほどで会計までたどり着く。

レジのパートさんは皆いつもの顔ぶれで、無駄のない動きで商品を清算用かごに移し、恐ろしい速度でレジのキーを叩いている。


会計を済まし、約束の駅まで向かう途中、ひっそりと閉店した件の老舗ラーメン屋あたりでこちらに向かって歩いている妻を見つける。

わたしの見込みよりずっと早く駅に着いたらしく、迎えに来てくれていたようだ。わたしに気づくと軽く手を上げ、その場で立ち止まる。

近づきながらいつものように声をかける。


「おつかれ。」


「うん、おつかれー。」


「悪いね、余分に歩かせちゃって。」


「そんなこと気にしなくていいよー。買い物ありがと。なんか持つものある?」


「や、大丈夫。」


「そ。」


妻はわたしが彼女に並ぶと同時にくるりと方向転換し、並んで歩く。

わたしは何気なしにラーメン屋の方を見る。


まだ暖簾が店内に残っていて、その先の暗闇にもかつて営業していたころそのまま椅子とテーブルが置かれているようだった。

片づけないんだろうか?それとも店は閉めたものの、土地や建物の売り先が決まってないんだろうか?


「ねえ、このラーメン屋さ、閉店したのいつだっけ?」


「さあわからないなー。そういうの覚えられないからなー私。数か月前じゃなーい?」


そうだ、妻はそういう感じの人だ。


「まー、私の方がこの辺住んでて長いけどさ、いつも人気ひとけなかったし、数年前からやってんだかやってないんだかわかんなかったけどねー。」


たしかに、そこそこラーメン通のわたしでも、この店に入ろうと思ったことすらなかった。

店の前を通ってもラーメン屋特有の熱気や、油っこい匂いとか、そういうのはほとんどなく、

営業時間内でも店内は明るかったり暗かったりで、存在感がぜんぜん感じられなかった。


「なるほどね。こういう住宅地に一軒はあるよねそういう飲食店。むしろ数年前から最近まで存続してたのがすごいね。」


「そうだねー。」


「そういう店ほど潰れない法則。」


「あはは。あるあるー。なんなんだろうね、どうやって保ってるんだろ。

さっき通ったクリーニング屋ん所なんかは一年もてば長い方ってくらいころころ店舗変わるんだけどね。」


「あーそれもあるあるだね。需要も存在感もそこそこあるのに生き残れない法則。」


「また法則増えた。なんなんだろうね、土地運みたいなのあるのかなー。」


「あ、それ面白いね。土地運。」


「超適当に言ってるだけだから食いつかれると困るんだけど。」


「ははは。や、大丈夫。適当具合伝わってる伝わってる。」


などと他愛のないやりとりをしつつ、家に着く。

この家は我々が2年前に結婚する前から妻が住んでいた一人暮らし向けのアパートで、

結婚を機にわたしがここに転がり込んだ、という寸法でここに暮らすことになった。

築年数はそれほど経っておらず、オートロックも付いていて、ここら一帯で住むならこれ以上ないって具合の良物件だった。


妻が部屋の鍵を開け、先に入るよう促す。促されるまま家に入り、廊下の電気をつける。

さっさと居間の電気をつけ、買ったものをそのままキッチンに置いて部屋着に着替える。

手洗いうがいを済ませ、そのままキッチンに向かう。


ここでうっかりソファに身体を明け渡してしまってはいけない。

そのまま二度と身体をキッチンに向けることができず、今日の晩飯がコンビニ飯に決定するからだ。


いやコンビニ飯が悪いわけでは決してない。ただ、さっき買った食材は何だったのってなりたくないのだ。


買い物袋から、今使う予定にないものを仕分けて冷蔵庫に入れる。

残ったやつらを順に一口大に切っていく。


妻はテレビをつけ、タバコに火をつけた所だった。


「さっきのさ、土地運がなんちゃらって話なんだけど。」


「ん、なんもオチ無いよ?」


「うん、わかってるわかってる。こっちもオチないんだけどさ。

あそこのクリーニング屋。前、なんの店だったっけ?」


「あー…」

妻が視線を左上にくいっと移動させ、2、3秒動きを止めて考える。


「なんだったっけね。全然思い出せない。」


「あーほんと?実はわたしもなんだよね。なんだろうね、いつも目の前通ってるのに。」


別にあのクリーニング屋が特別なわけじゃない。でもいつも見ている景色が、変化しているということには気付けるのに、

何が何から何に変化したのかということを全然認識できないのは何なんだろう。


「あーなんかいい匂いしてきたー!」

妻が演技っぽく言う。


「でしょー?今日はなんと…


肉野菜炒めなんですねー!」


「やたー!」


食事を二人分テーブルに並べ、ようやくソファーに身体を預ける。

妻は二人で観ようと録画していた映画を再生してくれる。


いつものやりとり。


そしていつもの通り、いつものように、一日が終わった。

わたしの「一日が終わった感」はまた正しかった。

わたしのからだはまた一つ、仕事の終わり ≒ 一日の終わりであるというデータの信頼性を高めたのだった。




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