2 浜宮伽耶はヤンデレである。

 脳震盪であった為、後藤が介助も兼ねて付き添ってくれるが、入鹿の足取りはしっかりしていて、本当に介助など必要なのかと思えるほどだ。


 どこも怪我が無かったのは、運がよかったと胸中で安堵の息を漏らす。


「それにしても、最近ただでさえ物騒だと言うのに、校内で、それも痴話喧嘩で傷害沙汰なんて起こさないでほしいわね」


 生徒指導室までの道すがら、静寂を埋めるように後藤は愚痴を漏らした。


「ほんとすいません」


 こればっかりは言い訳の余地なく、入鹿が悪い。


 伽耶と言う少女を知っているにも関わらず、彼女を怒らせた入鹿・・・・・・・・・が全面的に、絶対的に、圧倒的に悪いのだ。


「まったく……連続殺人なんて不気味な事件が続いているんだから、学内くらいゆっくりしたいわ。もし君が死んでたら連続殺人の被害者の人も天国でびっくりでしょうね。『同じ殺人という犯罪の被害者だというのに、こいつは動機が卵焼きかよー!』って」

「死人は喋りませんけどね」

「分かってるわよ。ジョークに決まってるでしょ、ジョーク。ジョークはお嫌い?」

「いえ、僕のもジョークです」

「……だから榎本くんって友達少ないんだわ」


 唐突に心を抉られる。心構えが出来て居なかったので全力でグサッと来た。


「友達なんて多くてもいい事なんてありませんよ。大切なのは量より質です」

「ボッチが語るわねぇ。質と量を兼ね備えるのが究極のリア充よ」


 この女は本当に教師なのだろうか。と喉まで出かかった言葉を寸でのところで飲み込む。


 亀の甲より年の功。年長者の言うことは素直に聞いておくべきなのだ。

 無言を意外に思ったのか、後藤は不思議そうに小首を傾げた。


「あら、存外素直に受け入れるのね」

「三十路寸前独身女性からのお言葉ですからね。説得力が違いますよ。さすがは究極のリア充先生。とても勉強になりますね」

「このガキ、黙ってれば良い気になりおってからに――ッ!」

「あ、指導室着きましたよ。付き添いありがとうごさいました、究極のリア充先生」

「ぐ、ぐぬぬ。わ、私だって付き合ってる人くらい居るんだから!」


 憤怒の表情を見せる後藤を横目に、生徒指導室の扉をノック。

 どうぞ、と声がかかったので入室する。


 室内は電気が付いておらず、陽の光がカーテンの隙間から零れていた。若干の埃臭さを感じるのはここが普段使われていない空き教室である証拠だ。


 教室の中心には1:2の構図で椅子が向かい合う形に設置されていた。そして1の側に腰掛ける生徒指導の禿頭へ向かって入鹿は一礼。


「失礼します、榎本入鹿です」


 恭しく自己紹介をする。しかし彼の耳朶を叩いたのは禿げ頭のしゃがれた声では無く、その対面に腰掛けていた、うら若きJKの声だった。


「入鹿っ! 入鹿入鹿ぁ――ッ!」


 目と鼻の先まで近付いた彼女は、入鹿の頭や身体をペタペタり。とても心配している様子。


 彼女の名前は浜宮はまみや伽耶かや。入鹿が伽耶ちゃんと呼ぶ少女である。


 肩口ほどまで伸びた茶髪は、セットされてるとは言い難く、所々はね散らかっていて、まさに寝癖を取っただけという感じが見て取れた。もちろん化粧もしていない。


 しかし、それでも美少女と言うことを堂々と宣言できるほどには、美少女だった。


 そんな恵まれた容姿をしている彼女であるが、顔には一際視線を集める箇所が一つ。


 彼女は自らの左目を覆うように黒い布製の眼帯を巻いていた。


「大丈夫? 怪我してない!?」


 伽耶が大きな右目いっぱいに涙を浮かべ、鼻をすすりながら安否の確認をしてくれる。美少女にここまで心配されるなど、これほど男冥利に尽きることは無い。


 ――まぁ突き落としたの伽耶ちゃんなんだけどね。


 こんな光景『突き落とした本人が何を』と第三者が見ればそう思うだろう。事実、禿頭は眉根に皺を寄せていた。


 しかし、入鹿が伽耶に対して苛立ちや嫌悪感を抱くことは無い。むしろ、身を心配してくれたことを意外に思ったほどだ。まだ怒っていると思っていたから。


「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」


 務めて優しい声音で語ると、伽耶はハッと顔を上げ目元を制服の袖でぐしぐし拭う。

 ハンカチがスカートのポケットから見えているのでそれを使えばいいのに、という思いは口にせず、空々しい笑みを浮かべた。


 やがて目元を赤く泣き腫らした伽耶が入鹿を鋭い視線で睨む。 


 身長差の関係上、彼女の睥睨はただの上目遣いでしかない。

 正直、恐怖より愛らしさの方が勝っている。


「し、心配なんてしてないんだから!」


 口調をがらりと変えて、ぷくーっと頬を膨らませながら、伽耶はぷいっ、とそっぽを向いた。

 古典的な感情表現に、思わず苦笑。


「そうなの?」

「だって、元はと言えば入鹿が悪いんだもん!」


 口論の原因。それはしょっぱい卵焼きを好む入鹿が伽耶の甘い卵焼きに対して思わず「甘いんだ……」と落胆気味に言ってしまったことである。これは確かに『入鹿が悪い』。


 だからと言って突き落とすのはやりすぎな気もするが。

 そう思いつつも入鹿は安心していた。彼女の反応が当初の予想通りであったからだ。


 しかし、


「おい、浜宮ァ! お前なんだその態度は!」


 入鹿以外の人物は違う。


 その一人である禿げ頭が、伽耶の身勝手な言葉の数々に怒り心頭。眉間に皺を寄せて怒鳴った。


 だが伽耶はこれを華麗にスルー。


「だいたい、入鹿が私の作ったお弁当に文句を言うのが悪いの! 入鹿に喜んでもらおうって必死に――ち、違う! 食べたいっていうから折角作ったのに! それなのに愚痴を言った入鹿が全部悪いんだから!」


 禿頭の事など歯牙にも掛けず、伽耶はあざとく頬を膨らまして入鹿に詰め寄った。

 彼女の豊満な胸元が僅かに当たるほどの距離。


 顔に血が上って行くのを感じつつも言葉を返そうとして――その前に、禿げ頭の我慢が限界を迎え、憤怒の表情で怒声を上げる。


「お前らっ、いい加減に――」


 青筋を浮かべる禿頭の言葉は、しかし伽耶により遮られる。


「さっきから五月蝿いなぁッ!! いま入鹿が喋ろうとしてるじゃん!!」


 彼女の目は血走っており、今にも殺さんと言う雰囲気がこれでもかと漏れ出ていた。

 伽耶は自分の座っていた椅子を両手で持つと、大きく振りかぶる。


「ちょっ」


 それはさすがにマズいと判断し、慌てて伽耶を後ろから抱きしめた。


「あ、あふぅ……」


 途端に、伽耶が気の抜けた声を挙げ、椅子が落下。ガタガタと音を立てて床を撥ねる。


「伽耶ちゃん、大丈夫だよ。伽耶ちゃんは悪くないから。だから落ち着いて、ね?」

「……ん、うん。分かった」


 変わり身の速さに禿げ頭は目を丸くするしかない。でも仕方がない事だ。彼は普段伽耶と接することのない教師なのだから。


 伽耶と入鹿の関係性を知っている教師は、すでに彼女に何かを言うことを諦め、すべてを入鹿に委ねている。後藤がいい例だ。


「伽耶ちゃんのお弁当、本当においしかった。歓喜とか感動とかが溢れかえって、今はまだ整理できないからさ、放課後に時間用意してもらえないかな?」


 伽耶は耳元で囁かれる声に恥ずかしそうに頬を染め、両手の指の先をウニウニと合わせてコクリと頷く。


「し、仕方ないわね。そこまで言うなら……うん、仕方ないから用意してあげる。……だから、もう離して」


 言われた通りに身体を離すと「あ……」と寂しげな声が聞こえた。


 しかしそれに構うことはせず、入鹿は伽耶の肩を押して指導室の外へと連れ出した。


「あとは僕がやっとくからさ、伽耶ちゃんは先戻って授業受けておいで」

「……うん、分かった。……じゃあ、後で」


 去り際、階段の近くで一度振り返ると、伽耶は腰の高さで小さく手を振った。

 それに応えてから、生徒指導室に戻る。


「お待たせしました、先生」

「お、おう……」


 何が何だか分からないと言わんばかりの表情と反応に、入鹿は内心で大きくため息を吐く。


 彼のような表情を浮かべる人を、入鹿は何人も見てきた。否、見るだけではなく自身もまた体験した一人だ。


 基本的に初めて伽耶とあった人は、その容姿に見惚れ、接し、そして異常性に放心する。


 ――伽耶ちゃんは、頭のねじを十年前に落としちゃったからね。


 だから仕方のない事、仕方のない事なのだ。

 それから入鹿が解放されたのは、六限目のチャイムが鳴った十分後であった。

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