貝殻綺譚
ミヤマ
貝殻綺譚
日本海に面する港町で、私と一つ上の姉は生まれ育った。父は家よりも漁船にいる日が多く、母はホステスとして働いていた。夜の留守番は、姉と私の役目だった。
姉の顔の右上部分は、
皮膚が弱いために感染症に罹りやすかった彼女は、家に籠りがちだった。それゆえ日に当たることもなく顔は蒼白だった。軟膏と保湿剤を塗ると、露わになった肉が照る。その赤みと青白い皮膚の色彩は鮮烈で、今も記憶に残っている。
ねぇ、と姉は私に、しきりに呟いていた。
「私の肌って、どうしてこうなんだろうねぇ。偶にね、本当はどっかに私の皮膚、落っことしちゃったんじゃないのかって思う」 口癖だった。喪失した自分の皮膚は、いまも何処かにあるのだと、呟いていた。
「もし見つけたら、その時は、私に届けてちょうだいな」 と冗談めかして。
幼い頃から姉は、絵を描いていた。絵だけが達者だった。一度は小学校の絵画コンクールで二等賞を貰った。不要紙や雑記帳への落書きが、色鉛筆やクレヨンのスケッチになり、偶に来る親戚の小遣いが溜まればそれはキャンバスと水彩絵具になった。
姉に友達はおらず、独りスケッチブック片手に町をぶらつき、家に帰っては紙に気儘な空想を具象化する日々。
好んで描いたのは、窓のある風景だった。自宅の木枠に嵌められた摺り硝子窓や汚れた窓の路面電車。体調が良いときにはその電車に乗って市街地まで、昔の建築物を見に出かけたこともしばしばだった。かつて
絵は、そのものが窓みたいなものよ。キャンバス越しに向こうの世界を眺めているのだから、それは窓なの、と。姉は語っていた。
あどけない空想だ。たわいのない、稚気に満ちた空想だ。
だからね、絵は、此処と繋がって、地続きなのよ。窓を開けば、いつでも行けるの。
そうして描いた窓を指の腹で押した。
一九八七年の七月、中学一年生だった自分が家へ帰ったら姉はいなかった。何処へ行ったのだろうと不思議だったが見当もつかず、味噌汁を作る支度をした。惣菜はたいてい母が仕事前に買ってきた揚げ物だった。
夕暮れ、姉が帰ってきた。
帰ってきたときの姉は笑顔で、スカートの下端は濡れそぼっていた。
「何処かで遊んできたの」
「海、行ってきたの」
弾んだ声で答え、学生カバンを置いた。中から乾いた音が響く。
夕餉を終えると、居間で姉はカバンから中身を広げた。数冊の教科書と筆箱に紛れて、貝殻が畳を転がる。桜の花びらほどの、血の滲んだような貝が何枚も。カラカラと。
「そんなに沢山、どうしたんだい」
姉はふふんと笑って、三菱鉛筆を手に取る。
「拾ったの」
画用紙に鉛筆を走らせる。描き始めた姉には話しかけても適当な相槌しか打たない。自分は背を向けて食器を流しに下げた。
居間へ戻ると、姉は貝殻を一枚ずつ、モノクロの海と砂浜の上に張り付けていた。貝の縁に紙粘土を盛り、ボンドを塗って接着していた。
「どこで採ったんだい。そんな色の貝。近くの浜じゃあ見かけないけどな」
「洞窟の、奥。いっぱいあったよ。母さんには言わないでね」
「言わないさ。洞窟。あぁ、あそこか」
「行ってみたかったの」
「何にもなかったよ、あんなところ」
砂浜を西へ、突き当たった崖の下には
そんなところへ姉が独りで行ったというのは少し信じられなかった。制服にも手足にも傷の跡一つとて無かったからだ。
その日から、姉が家を空ける時間が増えた。夕飯の支度が出来る頃合には帰ってきたのが、すっかり陽が沈む頃に、私が独りで飯を食べ終わる頃にと伸びていった。貝殻も、鞄にはち切れんばかり詰めてくるようになった。
以前の様に、姉は絵を描き始めた。窓というモチーフに加えて、貝殻が彼女の絵を支配した。
そこには、昔の風景画には無い一種の緊密さがあった。
冷たい夜の海辺に白い窓が浮かび、後ろではあの海蝕洞が黒々と口を開けている。岩壁に嵌められた窓から挿し込む毒々しい光に照らされた洞窟で宙に浮かぶ渦巻。弓出形窓のついた屋敷の庭園で佇む真っ赤な
「今日も行ったのかい。長くいると濡れてしまうだろうに」
「平気。濡れないもの」
「どうして」
「あそこの奥、波が来ないから。それでとっても静かで。海の音って厭。だって、ザアザア、ドウドウって、朝も夜も響いているんでしょう。あそこの浜の端っこから、海面をつまんで、べろんって、捲れたらいいのに」
「貝を採ってくるだけだろう。飽きないね」
「拾うだけじゃないもの。並べてね、見るの。楽しいよ」
「貝殻を?」
「ええ。この薄紅色がぼおと光って」
そう言って姉は絵に小さい貝を貼る。目を細めると爛れた皮膚も縮み膿が滲んだ。
描いていたのは、人のようなものだった。あの洞に似た半球状の空間で、赤黒く塗られた人の形が踊っている。
姉はそれに貝を貼り付けた。小さい貝だから、埋め尽くすにはたくさん要る。
「そこに貝を貼るんだったら、塗らなくてもいいのに」
「塗らないと駄目」
「どうして」
「失くしちゃった皮膚ってきっと、貝になるんだよ。ホラ、だからこんな肌みたいな色してる」
一枚を電球の光に透かす。反射して薄橙の幽光が
「だから、こうやって赤く塗ってね、そこからまた皮膚を、貝を、皮膚を貼るの。落とし物だから。貼って届けてやるのよ」
「なんだいそれ」
「届けないと駄目でしょう、落し物は。失くしちゃった皮膚は貝になって、あそこへカラコロと流れつくのね。だから落とし物みたいでしょう。でも私のだけじゃないかも。あんなにたくさん漂着してるんだから、きっとよその私みたいな人の落とし物も混じってるね」
そう言って彼女はフ、フと笑って、顔の
学校をサボり一日中をそこで過ごしている日さえあったのだろう。姉はあの海蝕洞の闇のなかで何をして、何を見ていたのだろう。真っ暗な海蝕洞の中で、ぼんやりと光る貝殻に囲まれて、姉は何をしていたのだろう。洞窟には何があるのだろう。
だからもう一度、私は海蝕洞へ単身足を運んだ。引き潮の日だった。
しかし、何も無かった。あの日と同じように。穏やかな波だったので衣服が破れることこそ免れたものの、学生ズボンは膝の丈まで濡れる破目になった。念の為に懐中電灯を携帯して行ったが、何の役にも立たなかった。洞の闇は数年前と同じ濃さで、果てしなく続いていた。歩き続けて見えるのは、フジツボの張り付いた壁と、石くれだけだった。
ましてや、貝殻など。
姉の最後の絵は、未完成だった。
画面全体に閉じられた窓が描かれ、その窓硝子越しに、海と砂浜の燦燦とした風景が見えた。遠くには、黒々とした海蝕洞。
海辺に立つ家の窓から外を眺めている構図だ。
砂浜には、姉が立っていた。藍色のジャンパースカート姿だった。
それの顔半分は一部分だけに貝が貼られ、残りは肉の赤だった。
全てに貼り終える前に貝が足りなくなったのだ。
「明日また、拾いに行かなくちゃ」
その後姉は消えた。一九八九年の一月、私の高校受験を控えた冬の夕暮れに。
晩、いつものように味噌汁を作り、偶々帰っていた父と鯵の煮付けを食べた。テレビでは、眼鏡を掛けた男性が平成と書かれた紙を掲げて、新しい元号を伝えていた。
姉はまだ帰って来てなかった。
一日経っても帰ってこなかった。
洞窟(あそこ)へ行ったまま。いつものように。貝を採りに。
警察は彼女を行方不明として扱った。
七年が経った。家裁が失踪宣告を通達し、姉の死亡が認定された。
私は遠くの大学へ進学し、今は夏季休暇で実家に戻っている。
「姉さんの絵、まだ取ってあるのかい」
「ん。あぁ、あるよ。物置」 居間でテレビを見ている母が言う。姉が消えた翌年、ホステスを辞めた。父は沖合へ漁に出ているので当分帰ってこない。
廊下を歩き、物置の襖を開ける。何年も開かれていないからか、滑りが悪い。
開けた。埃が漂う。
すぐ手前に作品があった。キャンバスたちは少し斜めに倒れ、列を成している。足元には、貝殻が転がっていた。埃を被っている。絵に貼られていたのが、剥がれ落ちたのだろう。何という気もなく、私はその数枚を拾った。握ると手の中でカチャカチャと音が鳴る。
左の端に未完成の絵があった。
引っ張り出す。窓と、砂浜と、洞窟。
多少色褪せてはいたが、砂浜に立つ姉はまだ笑っていた。
掌の貝を、指の腹で数える。貼られなかった部分を埋めるのには、十分な枚数だ。
私は手にした貝を、姉がしていたように、重ねようとする。
——絵は、そのものが窓みたいなものよ。
その言葉を思い出す。
手が、閉ざされた窓に触れる。
触れた瞬間、私は一種の確信を持った。
蝶番の軋む音が、した。
手の甲には、感触があった。乾いた木の堅さだ。
——キャンバス越しに向こうの世界を眺めているのだから、それは窓なの。
向こうの世界があった。私の目の前に。色彩を帯びた、現実と地続きの世界。
窓の向こうで揺籃している海の水碧の色で、雲一つない空と溶けている。
そのまま、手に力を込めた。窓が開いた。鼻腔に潮の匂いが溢れる。
窓を越えて、砂浜へ足を下ろした。裸足の裏で砂利が擦れた。
向こうには洞窟があった。黒い口から風が吹き込んでいる。
姉が立っていた。貝に覆われた皮膚。覗く熟れた肉。
私は前に進んだ。貝を貼りに。落とし物を届けに。
露出した部分へ薄橙の貝を一枚ずつ重ねる。
薄橙の貝の皮膚が出来上がった。
前方で波が打ち寄せている。
わずかの音もしない。
静寂の海だった。
貝殻綺譚 ミヤマ @miyama_book
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