其の十八「鈴を辿って」
ナヴィドが五番目の七不思議から場所を聞いた頃には、既に30分は経っていただろう。もはや普通の人間なら絶望的なタイムロスだ。そんなに時間があれば彼女が殺されるのも必然。
しかしナヴィドは冷静に家庭科室へと向かうだけの余裕があった。
なぜなら…… なぜなら彼女はただで殺されてしまうほどの人間ではない。それを今までの経験により彼は確信していたからだ。
怪異に〝 慣れているから 〟と笑った少女を、自身が死の淵にいたにも関わらずナヴィドを心配した彼女を、どこか達観したようないろはを、ナヴィドは信じていた。
六番目の七不思議は噂からかなり悪どいやつだと推測できるが、いろははいつも必ずナヴィドの迎えを待っていた。ナヴィドが助けにくるギリギリまで耐えていた。それこそ対話可能ならば話すことで時間を稼ぐことだってできるだろう。スケッチブックがあればなんとか戦うことだってできるだろう。
計算高い自分の頭が最悪の予想をしようとするたび、それを振り切って彼は馬鹿みたいに信じた。
〝 馬鹿みたいに信じる 〟なんてくだらないことができるのが人間の美徳だと、彼は知っている。
( だから私を安心させておくれ、いろはちゃん )
辿り着いた家庭科室は不気味な程静寂に包まれていた。
「いろはちゃん…… いろはちゃんいるかい!?」
そこら中に落ちた刃物に気をつけながらナヴィドは歩みを進める。
その時点で彼の嫌な予感は最高まで上り詰めていた。
けれど、最悪な結末ならばそこに七不思議の一人が立っていなければいけない。
いろはと七不思議、そのどちらも見当たらない状況が奇妙なのだ。
「いろはちゃ…… いろはちゃん!?」
そして彼は見つけてしまう。
山吹色の月に照らされ、鈍く輝くその巨大な〝 アート 〟を。
血塗れのままうつ伏せで倒れた彼女の下には、セーラー服の少女と思われる〝 絵 〟が存在した。それも、全体が真っ赤で所々黒ずんだ絵が。
側に落ちたコンパクトミラーにいろはが手を伸ばしたところで力尽きたように動きを止めている。
すぐさまナヴィドは彼女の背に手を当てた。
「生きている………… 良かった」
僅かに響く鼓動がナヴィドの手のひらから伝わってくる。
いろはが生きていたことに安堵し、彼は顔を手で覆った。
「なんて無茶なことを……」
家庭科室の隅に転がったスケッチブックはズタズタに引き裂かれている。七不思議に奪われてしまったのだろう。だからこそ彼女は〝 自分自身の血で絵を描く 〟なんて馬鹿なことをしたのだ。
「酷い血だ……」
普通の人間なら絵を描くなんてことをする前に気絶しているだろう。その上、ここまで血が出ていれば今にも死んでしまうかもしれない。
ナヴィドは自身のエプロンを包帯代わりにすることに決めていたが、やがておかしな事実に気がついた。
「おや…… ?」
彼が特に酷く血に塗れている手のひらを確認するが、血がついているのにどこにも怪我をした箇所がないのだ。
切り裂かれたように血が滴っていた膝の裏をそっと触れてみるが、そこにも傷跡はない。
もしや別のところに怪我があるのかといろはを抱き起こしてみるが、腹部はおろか、制服すら切られた跡がないのだ。
それにうつ伏せで下になっていた部分はほとんど血がついていない。血のつき方も、怪我をしたというよりは流れてきた血が沁みたような印象だった。
そう素早く分析をして彼は辺りを見渡した。
そして少し遠くに血痕と小さな羽毛を発見する。彼女が倒れていた場所とは明らかに離れている。血液が点々と残っているわけではないので、いろはが移動したのはあり得ない。
血溜まりに沈んでいた彼女が動けば動いた後が残るだろう。肌の汚れ方から手足を酷く痛めつけられたのは確かなのだから。
「助かったよ…… 彼女を救ってくれてありがとう……
ナヴィドが虚空に向かって呟く。
その言葉が届いたかどうかは本人たちにしか分からない。しかし彼はそれで満足したようだった。
いろはの元に向かい、再び抱き起す。傷がなくなっているのでやがて眼を覚ますだろうと。
「人間一人守れない先生ですまないね……」
「……………… 先生のおかげで、わたしは、助かってますよ」
「良かった、起きたんだね」
いろはは暫くぼうっと天井を見上げていたが、やがて視力が回復しているのが分かったのかパチパチ、と瞬きをすると彼を見上げる。
気怠そうに体を伸ばした彼女は自身の手のひらを不思議そうに見つめたあと 「痛く…… ない?」 と呟き、ナヴィドの腕の中から飛び起きた。
「傷がない…… どうして…… ? 夢なんて、そんなはずは…… でも血塗れで…… ?」
いろはは自分の流した悲惨な血痕と、汚れたブレザーを確認して安堵したように溜め息を吐いた。むしろ怪我をしたのが現実で良かったとさえ思っていそうな様子に、ナヴィドはなぜそんな風に思えるのかと心底不思議そうにしている。
怪我をしていないのならばそれでいいじゃないかと。
けれど、彼女はそうでないようだ。
いろはは落ちたままのコンパクトミラーをそっと持ち上げ、その内部に刻まれた名前を眺めてワイシャツの胸ポケットにしまう。
それを見ていたナヴィドは気が気でなかった。なぜなら、そのコンパクトになにが入っているのかが分かってしまったから。
今までずっと霊を浄化してきたいろはを見ていたからこそ、その道を選んだことに疑問でならなかったのだ。
なぜ、襲いかかってきた〝 妖怪 〟を浄化せずに生かしたのか。
「先生…… わたしいつもここに来ると、彼女のことが視えていました」
「…… そうかい、キミなら普段から見えていても不思議じゃないね」
彼女が自分からなにか話すときは、その行いの理由を話すときだ。
この一夜でいろはのことをよく知ったナヴィドにはそれがよく分かった。
「桜子さんっていつも授業を見てるんですよ。調理実習のときなんか、ところどころ味見して回ったりなんて悪戯をして…… 誰かが刃物を落としたときは怪我をしないように落下速度を緩やかにしたり…… 怪我をしなかったらそれで安心して笑顔を見せるんです。普段は、復讐に身を燃やしているなんて分からないくらい…… ときどき人の失敗に大笑いしてますけれど…… でも、危険なことはやらないはずなんです」
「それで? キミは彼女に更生の余地があるって?」
「桜子さん言っていました。影に、〝 影にアドバイスされた 〟って。自分を持っていないわたしならカラダを奪えるって、誰かに教えてもらったみたいでした」
珍しく饒舌に話すいろはを見てナヴィドは笑みを浮かべた。
「だから、キミは絵を完成させなかったの?」
「…… ええ」
いろはは既に妖怪に対してもダメージを与えることが可能になっていた。
普通に絵を描くだけならそれは不可能だろうが、血液を用いればそれは別なのだ。いろは自身の血液で絵を描けば、妖怪であっても致命傷を与えることは可能だった。けれど、彼女は絵を完成させず、〝 目 〟を除いて桜子を描いた。
そしてお互いの名前を呼ばせ、彼女の名前に返事をさせ、〝 契約 〟してから道具を用いて目を完成させた。ぶっつけ本番だったのにも関わらず、失敗に終わる可能性が高かったにも関わらず、結果的にいろはの思惑が成った。
桜子はコンパクトミラーに吸い込まれるように消えた。
「ただの思いつきにしてはよくできたでしょう?」
「…… そうだね。君は天才さ」
「からかわないでくださいよ、先生」
「……」
「……」
お互いに見つめ合う。
ナヴィドに向かってバツの悪そうな顔で微笑むいろはに彼はとうとう折れた。
「困ったな…… そんなことを言われたら、私からはもうなにも言えない……」
「ありがとう、先生」
「…… いいや、いいんだよ」
彼はふっ、と息を吐いてその手を頭上に持ち上げた。
そこには羽根飾りのついたテンガロンハットが乗っている。肌身離さず身につけていたその帽子を片手で降ろし、羽根飾りを一枚剥ぎ取るといろはの髪に巻かれたヘアバンドに手早く付け、頷いた。
「キミにはこれを渡しておこうかな」
「…… 羽根、ですか?」
いろはが明るい暖色のヘアバンドに軽く触れると、耳の上でふわりと黄色い羽根が揺れた。校章代わりのクローバーの飾りでしっかりと止められている。
「変な目で見ないでくれないかな? これでも真剣なんだよ。…… これはお守りだ」
ナヴィドが困ったように言うといろはは目を細めて羽根飾りをいじる。
「お守り…… 本当に先生は鳥が好きですね。青くはないけれど」
「青? ああ、青い鳥のことを言っているのかな。ほら、遠くにあるものはありがたみがあるけれど、身近なもののほうがなにかと安心できるだろう?」
悪いことなどなにも言っていないのに焦っているような彼に、いろははくすくすと笑って 「…… 屁理屈ですね」 と答えた。
「屁理屈だね。でもちゃんと効果はあるよ」
「どんな効果ですか? 交通安全?」
適当に答えるいろはに彼は苦笑して 「確かに、鳥ならば怪異との正面衝突事故はなくなるだろうけどね……」 と続ける。
「実はそれを燃やすと私がキミのピンチに現れるのさ」
「結局物理的なお守りなんですね。まるでヒーローみたい」
戯けて言う彼に合わせていろはも首を傾げて薄く笑う。
「呆れないでよ、これでも先生は真剣なんだから」
「はいはい、分かりましたよー、ニコー」
わざと無表情を装って口の端を引っ張る彼女にナヴィドは 「ふふふ」 と笑って 「中身のない笑顔じゃ嬉しくないんだけどね…… さっきの笑顔はどこに行ったの?」 と訊ねた。
それに合わせていろはが目を伏せて 「…… ? どこに行ったんでしょう。そっちにはありますか?」 と訊ねると、その場に暫く静寂が続き…… どちらともなく二人は笑い出した。
「あははは! 笑顔の行方なんてキミにしか分からないよ!」
「ふふふ、そこにあったみたいですね」
「そっちにもしっかりあるじゃないか」
「…… そうですね」
いろはは大切そうに羽根飾りを撫ぜてその場から立ち上がる。
それから血液で汚れたブレザーを叩き、自らの先生に 「もう大丈夫ですよ」 と告げた。
「…… 分かっていたのかい?」
「なんのことでしょうか」
傷跡がなくなっても彼女は暫く立ち上がることができなかった。
それを気遣って背を預けたままにさせていたナヴィドは彼女に次いで立ち上がりエプロンを叩く。
知らぬふりをするのなら良いとばかりに 「なんだったかな」と誤魔化し、二人は自然に被服室へと向かった。
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