其の六「注射の中身は全て使い切ること」

「分断されるとは思ってなかったけど……」


 保健室の中は山吹色の月光で照らされ、さながら夕方のように明るい。

 そんなに強い光が差しているというのに、暗い窓の外は相変わらずなにも見えなかった。近くにあるはずの校庭も、植木もなにも真っ黒で塗りつぶされてしまってまるで黒いキャンバスに月だけを描いているような…… そんな世界が広がっている。


「出し巻き卵みたいな、色」


 黒いキャンバスに輝く月はまるで卵の黄身の色をそのまま落とし込んだような綺麗な山吹色をしている。それを眺めて彼女は拘束されていない方の手でトートバッグを探り、緊急用のカッターナイフをどこからか伸びている包帯に突き立てた。


「これだから保健室には来たくなかったのに」


 包帯を解いていくと、強く絞められた腕が圧迫されて赤くなっていた。それをさすりながら彼女は独り言ちる。そしてカッターナイフを丁寧にバッグへと戻し、包帯の端と端を持って簡単に手放さないようにぐるりと手首に巻きつけて固定する。


「あ…… あぁ…… わた、わた、し、わたし」

「こんばんわ。名前は…… 知らないや」


 ドンドンドン、廊下から叫びながら自身の名を呼ぶ声が聞こえる。

それだけのことに薄く笑みを浮かべた少女は抑揚のない声で言い、首を傾げた。


 ベッドの下から這い出して来た〝 それ 〟は落ち込んだ眼窩に血の涙を溜めながら言葉を放ったいろはに近づいていく。そんな恐ろしい姿を目にしたのにも関わらず彼女は、立ち上がり、足音一つさせずに向かって来る〝 それ 〟の攻撃を躱す。


「目は見えてるんだね……」


 試しにと極力足音を出さずに大きく移動した彼女を正確に〝 それ 〟は追いかけている。眼窩の中身がないからと言って見えていないわけではないようだ。そうしてゆっくりと迫って来るそいつの手の中には紫キャベツよりももっと濃い色をした毒々しい液体の入った注射器がある。

 …… 状況を考えればとても良い効果があるとは思えない。いろははそれをじっと見ながらゆっくりと保健室の中を後ろ向きに歩いた。

 〝 それ 〟の進む速度は欠伸の出るほど遅く、歩いてでも十分に距離を置けると判断してのことだった。


「あの人をどうにかするには……」


 そして、彼女はおもむろにトートバッグを保健室のベッドへと投げ捨てた。


「こんなに狭いんじゃ〝 描けない 〟」


 不満そうにそう言ってからいろははその歩みを止める。


「注意書きをそのまま考えるとわたしが注射されるしかないんだろうけれど……」


 ぶつぶつと何事かを呟きながら迫る〝 それ 〟の左手を、いろはは両手で固定し真っすぐと伸ばした包帯で一気に絡め捕りにかかった。

 さして力の強くないその少女の腕は巻き付いた包帯により、振り上げられたところでガクンと動きを止める。


「…… そんなに注射したいなら、あなたがすれば?」


――…… ら………… おまえ…… が…… なさい


 記憶をなぞるように絡みつけた包帯で少女の腕を振り払い、よろけたその瞬間にいろははその手の中にあった注射器を奪い取る。


 そして、酷薄な表情を浮かべて倒れた少女へと一気に振り下ろした。





××× ×××






「いろはちゃんっ!」


 いろはが保健室内に引き込まれ、初めて隣の注意書きに気が付いたナヴィドは後悔していた。いくら治療のためだとは言え、こんなおかしな状況になってしまったときに調べもせず保健室というある意味で特別な場所に連れて来てしまったことを。保健室には古今東西不吉な噂が付いて回るものである。

 油断していた…… そうナヴィドは思ったのである。


「また、笑っていたな」


 ―― だって、慣れてますからね。


 笑み。

 マイナスの感情を外に出さないわけでもないのに、決まって彼女は笑うのだ。


( そう、あのときだってそうだった…… )


 叫びもやめ、最後に一つドンと扉を叩こうとしたときだ、丁度いろはが扉を開け、その光景に少なからず驚いて一歩足を引いた。


「……」

「……」


 扉を開けた状態で固まっている両者の間を沈黙が落ちる。

 そして、スケッチブックを腕に抱いている彼女がくすりと笑みを浮かべ、 「大丈夫だったでしょう?」 と彼に問うた。


「あ、あぁ、そうだね」


 面食らったようにナヴィドがそう返すといろはは腕に抱いていたスケッチブックをそっとトートバッグに戻し、ナヴィドのエプロンを控えめに引いて顔を見上げる。


「治療、してくださるんでしょう?」

「怪我はないかい?」

「はい、どこにも」


 静かに視線を交わし合い、ナヴィドは安心したように息を吐くと保健室の中に歩み入った。


「キミになにかあったらと冷や冷やしたよ。でも、無事でよかった」

「それは先生としての言葉でしょうか」


 伏し目がちなった彼女の顔は見えない。だが、相変わらず抑揚などないというのにどこかその口調は責めているような色を含んでいた。

 その言葉に彼女は保健室に来るのを渋っていたな、と考え付いたナヴィドは先程考えた通りに口にする。


「ごめんね、安易に保健室を選んだことは後悔しているよ。もっと考えてから来るべきだった。私は守る者だというのに」

「なんですかそれ、ヒーローかなにかのつもりですか?」


 顔を上げた彼女は笑みを浮かべていた。


「うん、ヒーローっていい響きだよね。私は好きなんだよ」

「ふふふ、なんか変な所で子供みたいですね、先生って」


 励ましを兼ねた冗談だと判断したいろはが笑う。

 それを見て複雑そうな顔をしていたナヴィドが困ったように笑い、バタバタと音を響かせながら風に靡くカーテンを五月蠅そうに見つめた。


「治療をしたあとは、もういっそそこから外に出てみようか?」


 開いた・・・窓を半分ほど閉め、ナヴィドが冗談めかして彼女に問いかける。しかしそれに対して真剣に 「いいですね、それ」 と言ってきたいろはに対して目を丸くした。


「ほ、本当にここから出るのかい?」

「閉めたら開けられなくなりそうですし、そこから出てみましょう。保健室から出てしまえば閉められてしまうかもしれません」


 勿論、ナヴィドもそう考えて窓を完全には閉めなかったのだ。

 しかし彼は職員玄関などが全滅してしまった際にここに戻ってくれば良いと考えていたが、それもいろはの言葉によりあっさり否定された。


「そうだね…… 校門が開くかどうかは分からないけれど言って見る価値はあるだろう」

「先生も、ちゃんと周りを調べてくださいよ」

「ああ、それはさっき実感したよ。キミが危ない目に遭うのはよくないからね」

「…… そういう意味ではないのですが」

「いろはちゃん、ちょっとそこに座って」


 最後にボソりと発せられたいろはの言葉は、薬品棚を調べて彼女に背を向けている彼には届かずに消える。

 それから消毒液と大きめの絆創膏を持ち出した彼はいろはをベッドに座るよう促すとキャスター付きの椅子をベッドの近くまで引き寄せた。そしてそれに座り、お互いが向き合ったような状態となる。


「傷はええと、左手…… だったよね」

「ええ、まあ小さな傷ですけど」


 彼女が差し出した左手を手に取り、コットンを消毒液で濡らして切れた指先をつつく。


「普通に絆創膏を貼ればいいと思いますけど……」

「ダメだよ。最近は風邪も流行ってるし、あとで熱でも持ったら大変だ。それに、キミはよく左手を絵具で汚しているからね。気を付けてと言ってもきっと直らないだろう?」


 呆れた表情でそう言った彼と、巻かれていく絆創膏を見つめ、いろはは首を傾げる。


「左手を怪我していても絵は描けますよ」

「筆を持たない手だって大事なものだよ。はい、できた」


 絆創膏が巻かれた左手を見ながらいろはは 「大袈裟」 と呟く。グー、パーと調子を確かめるように手を動かした後、彼女はベッドから立ち上がりコツコツと床を靴で叩く。

 トートバッグを肩にかけ、何の気なしに窓の外を見ると今度は真っ暗闇ではなく、そこにはきちんと校庭が存在していた。


 ―― 同時に、ひどく異様な光景が広がっていたのだが。


「キンギョに、カメに…… コイ。あとニワトリ……」


 校庭のグラウンドの上に、空中に浮かぶ巨大な金魚や鯉などの姿があったのだ。一匹だけいる亀のようなものは真っ黒に塗りつぶされたように影だけがそこに浮かんでいる。いや、空中をあれらは泳いでいると言っていいのかもしれない。優雅にヒレを動かして移動するぎょろ目の金魚はこちらに見向きもせずただひたすら校庭の中を泳いでいる。

 そして鶏小屋から逃げ出して来たのか、小さな影が五つ。そのどれもが一定の間隔をあけてバラバラに移動しているようだ。

 校門は2m程もある大きな金魚に遮られ、見ることができない。


「突っ込んでいくのもアレですし、もう少し様子でも見ましょうか」

「そうかい? じゃあちょっと絆創膏とか、包帯とか、使えそうなものを回収しておくとするよ」


 窓際に立ち、じっと窓の外を見る彼女の顔は真剣だ。そんな彼女の横顔をチラと盗み見てナヴィドは薬品棚から役に立ちそうなものを回収していった。

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