其の三「番犬からの依頼」

「ッチ……」


 男が明らかに俺を目視して舌打ちを発した。

 逃げられない? いや、駄目だ。俺が逃げるわけにはいかない。こいつがこの惨状の犯人なら、ここで逃したりなんてしたらまだまだ被害者は出続けるだろう。

 〝 血痕だけ残った凄惨な殺人事件 〟は普通にニュースになっているし、ここら辺に住んでいる一般人がいつこいつを見つけるかも分からない。もし万が一、一般人が現場を目撃なんかしたら絶対に助からない。それに比べて俺は今、武器を持っている。体は小さくともドラゴンが味方についている。これで逃げたらとんだ臆病者だ。

 正義感? そうなのかもしれないし、違うかもしれない。慢心はしていない。

 そんなものニャルラトホテプにとっくに踏み躙られている。


「っ、リン頼む!」


 名前は今決めた。ウロコじゃ名前とも言えないしな。もし鱗に通じてなかったら赤っ恥どころか俺の死亡率が跳ね上がるだけんだけど! 


「きゅうい!」


 赤い燐光と共に現れた小さな小さなドラゴンが駆ける。俺もそれに併せて地面を蹴った。抜刀術なんてものはできるわけがないので刀は既に抜き身だ。

 勿論こんな場面を一般人が見たら…… とか、目の前のこの人が一般人だったら…… なんて危惧はある。しかし、俺の勘が告げている。これは人間以外の生き物だ、と。様々な怪異に出会ってきたせいか人型をした誰かであってもなんとなく違和感があるものだ。そもそもこんな格好をして血肉を啜る男なんて一般人だとは思いたくない。人間だったとしてもそんな狂ったことをしている人間だ。ドラゴンだなんだと騒いでも嘘つき扱いをされるだけだ。


「きゅっ!」


 男は向かってくる俺達を見て驚くでもなく、恐怖するでもなく、ただその口の端をにんまりと吊り上げた。


「ちょっとはおもしれーじゃねーか」


 男はそのままリンの牙を服の袖を使って受け流す。ガギンと硬い音が聞こえたと思ったら、その手首に嵌った手枷のような物が少しだけ見えた。あれで受けたのだろう。リンも噛みつくことができなかったせいでそのまま振り払われてしまった。

 けれど男の視線は少しだけ逸れた。


「はあああ!」


 その間に叩き斬ってしまおうと踏み込んだが途中で刀がなにか見えないものに阻まれる。金属と金属のかち合う音が響いて、空間が揺れた。そして、赤竜刀に当たった物の正体が明らかになったとき、俺の視界は反転し路地から僅かに見えるくすんだ空だけが映されていた。


「っぐ」

「きゅっ! きゅっ! ぐるるるる!」

「ふうん、アルフォードの差し金か? …… 違うな。この匂いは邪神野郎か。てことは人間、お前は噂に聞くニャルラトホテプの下僕か。そういえばその顔、見た気がするな」


 仰向けに倒れた俺の腹に男の分厚いブーツが食い込む。

 それを見て再び突進してきたリンが空中で翼を摘ままれぶらりと垂れ下げられる。

 そのすぐ隣には、巨大な鎌。紫がかった黒の死神が持つような大鎌が立てかけられている。どうやらあれに刀が当たって跳ね飛ばされたようだった。

 最初はそんなものは見当たらなかったはずなのに、だ。


「下僕……」

「あー? 違わねえだろ」


 だが、この男が俺のことを知っているのならば殺される確率は低い。普通ならあんな邪神の所有物に手を出したりしないだろ。


「この惨状は、あんたがやったのか?」

「惨状…… ?」


 嘘だろ。まさか分かってないのか? 


「あんたが食ってた、その血と肉のことだよ」

「ああ、これか。クッソ不味いんだよな…… ったく勘弁してほしいぐらいだ」

「…… ?」


 殺したのか、そうじゃないのか、できればはっきり言ってくれよ! 


「人間、お前の心配は徒労に終わる。良かったな?」


 そう言って男はさらにぐりぐりと俺の腹を踏みつける。そしてその足を退けて血の海から少しだけ離れた場所に移動すると、リンを投げて寄越して 「起き上がれよ、人間」 と命令してきた。

 仕方なく俺が体を起こして立ち上がると、丁度踏みつけられていた場所が盛大に血で汚れていた。あの野郎、俺を雑巾代わりにしただろ。


「ふんっ、お前はあいつの下僕だからな…… こないだの駄賃代わりに働いてもらおうか」

「なに…… ?」


 駄賃? 働く? なんのことだ。


「ああ、お前はあのとき、確か呑気におねんねしてたんだったか。なら自己紹介からだな」


 男は大鎌を構え、格好つけたようにゴホンと一回咳払いすると、大きく息を吸い込んだ。


「俺様は地獄の番狼ケルベロスである! 地獄から逃げ出した死者や各地に散った怪異共の被害、死体を回収する、中立にして誇り高い〝 掃除屋 〟だ! 人間、お前とは〝 脳吸い鳥 〟の事件で会っているぞ! ただし、お前が気絶した後だがな」

「地獄の番犬…… ケルベロス……」


 それなら流石に知っている。有名すぎるからだ。

 俺が呆然としながら呟くと、ケルベロスは怒ったように眉を吊り上げグルルと唸り声を上げた。


「俺様は犬じゃない!」

「は?」

「犬って言うんじゃねぇ! 狼だ! オオカミ! 二度と間違えるな!」


 そういえば自分でも番狼って名乗ってたな。


「でも伝承だと番犬」

「俺様を犬扱いするんじゃねぇ!」


 話が進まない。疑問はいくつもあるがとりあえず置いておこう。


「おいアルフォードの鱗! お前もドラゴンじゃなくて真っ赤なトカゲなんて言われたくねーだろ!」


 リンもそれを聞いて、俺の腕の中できゅいきゅい言いながら頷いている。そういうもんか? 

 俺が未だ分かっていないのに気付いたのか、その小さな手で俺の頬をペチペチ叩いてくる。こいつらにとってはそんなに大事なことか。


「俺様にとっちゃ聞き分けが良けりゃ猿でも人間でも変わらねぇ。これでも分からねぇか?」


 猿扱いされるのは確かに心外だ。なるほど理解した。


「悪かった」

「分かりゃいいんだよ」


 問答無用で殺しにこないだけでも十分優しい気がしてきたぞ。

 本当にケルベロスさんがこの現場の犯人か? いや、さっきの口上からするとこの人は死体処理に来ただけなのか? 


「……」


 あれ、黙ってしまったぞ。どうしたんだ? 


「じゃあ、あんたはここの死体を処理しにきただけで、事件には関与していない…… ?」

「…… ああそうだ。俺様はただこの事件を起こした死者を追っているだけだ。そこで人間、お前には〝 脳吸い鳥事件 〟の駄賃代わりに働いてもらう。あのクソ邪神がよりにもよって俺様にツケを要求してきやがったのさ。だからお前が払え」


 あいつのとばっちりかよ…… という最悪な気分ではあるが、仕方ないか。


「で、なにをすればいいんだ?」

「…… 人間」

「なんだ?」

「人間」

「だからなんだよ」


 ケルベロスが苛々したように貧乏揺すりをしている。これでは威厳も台無しだな。


「んきゅう……」


 リンまでどうしたんだ? 


「なあ人間、自己紹介された相手にされっぱなしで放置するのが人間のマナーってやつか? それはそれは……ご立派なもんだな?」

「あっ」


 そういえば、こちらの名前は教えてなかった。完全に忘れていた。


「はあーあ、主人が主人なら下僕も下僕だなー?」

「わ、悪かったって! 俺は下土井令一。不本意ながら邪神ニャルラトホテプの眷属なんかをやってる。だからあいつと一緒にしないでくれ」

「俺様のことはケルベロスでもいいが、普通の人間には警察関係者のケルヴェアートと名乗っている。アートかアーティか、好きなように呼べ」

「警察関係者?」

「おら、手帳だよ。偽造だけどな」


 そう言ってアートさんが取り出したのは、確かにこの辺の警察署の警察手帳だ。というか初めて見たので偽造と言われてもなにが違うのかもさっぱりだ。

 せめて探偵とかだったらまだ分かるのだが、ロングコートとか首輪とか奇抜なファッションをしているこの人が警察を名乗るのは少し無理があるんじゃないかな。


「探偵より警察のほうが人間の信頼は得られやすいんだよ。都合がいいのさ」


 血肉を貪っているのを見られたら完全にアウトだけどな。


「ん? ああ、食ってるときは普通の人間には見つからねーように結界を張ってるから問題はねぇよ。お前が特殊だっただけだ」

「結界……」


 血拭きされて汚れた服をなんとか上着で覆い隠すと、なにが面白いのかリンが服の中をもそもそと移動しながら冒険している。ああ、お前だけが俺の癒しだよ。家に帰っても待っているのはクソヤローだけだからな。


「人間じゃねーものは皆自分の領域ってやつを持ってるんだよ。それを使って人間を逃げられなくしたり、人間を観察したり、ゲームしたりいろんなパターンがあるな。勿論人間を食うために結界を張ることもある。食う目的で結界を使うのは基本的にそうしないと生きていけない奴だが、それ以外の奴が娯楽で虐殺するために使うと事件が発覚、同盟の奴らのブラックリスト入りだ。所謂指名手配犯になる。人間に寄り添って生きてる奴らだからな、人間風に言うなら〝 討伐クエスト 〟みたいなもんだぜ」


 逃げられなくする…… のは覚えがあるな。ニャルラトホテプの遊戯には精神的な誘導がされてその現場…… 神話生物の出現する町や村から逃げ帰るという選択肢を消してしまうらしい。正規の手段であいつの“シナリオ”を終わらせないと生還できない鬼畜使用になっている。基本的にどんな手段でもシナリオクリアがされればあいつは満足するが、例えば現場への招待チケットを他人に譲ったり、売ったり、そもそも使わなかったりして現場に〝 行かない 〟という手段は無意識下に働きかけて選択肢を抹消してしまう。

 辺境の村への旅行チケットが当たりました。行きますか? 〝 はい 〟か〝 yes 〟で答えてね、となるわけだ。

 また、脳吸い鳥の事件は鳥達が包囲していて外に出られなくなる物理的な結界だったな。


 そして人間の観察やゲーム。これは紅子さんのパターンか。

 人間にゲームを仕掛けて楽しんだり、恐怖や混乱などの感情を食べる人外が使う手段。


「今回の事件は、その討伐クエストとやらなのか?」

「そのうちそうなるかもな。俺様はなんらかの目的のために地獄から脱走してきた死者を追っている。これはそいつが起こした事件だ。大方復讐でもしてるんだろーよ。いつもいつも後手に回ってんのは、そいつが俺様の鼻を誤魔化す手段を持ってるからだ。臭いで追うのは俺様対策がバッチリでどうも上手く行かねえ。だからお前は別の手段で調べろ。ターゲットは一週間前に死んだ女子高生だ。いいな?」


 調べろって言われてもな。

 それにこの辺の高校だって一か所しか知らないし。


「名前は分からないのか?」

「知らねー。確認せずに飛び出して来たからな!」


 あれ、この人意外とポンコツなんじゃあ……

 そもそも地獄の門番なのに門放ってこんなところに調査に来ていて大丈夫なのか? 他にも仕事してるみたいだし、もしかして交代制門番とか? 

 日本にいる理由も分からないし、日本の死神やら門番やらはどうしたんだ? この人ギリシア神話の冥界出身だろ? アルフォードさんみたいなドラゴンも日本をちゃんと認識してるみたいだし、実は有名な観光スポットになってるとか、もしくは人外の被害率何位みたいな物騒な理由で派遣されてきていたり? うーん謎だ。

 いや、俺が気にしても仕方ないか。できれば駄賃は俺のクソ主人に払ってもらいたかったが、やるしかないな。


「これは俺様の番号だ、それっぽい奴を見つけたら場所を教えろ。五分で駆けつける。それまでに逃げられそうならなんとしてでも時間を稼げ。分かったか、人間?」

「当てつけみたいに人間って呼ぶなよ……」

「まあいい、俺様はもう行く」

「分かった」


 肉片を全て片づけたらしいアートさんはそのまま軽く地面を蹴っただけで建物の上へと跳躍していった。流石地獄の番犬ケルベロス。人間の身体能力じゃないな。


 視線をビルの上から戻し、路地裏で一人立ち尽くす。


「帰るか」


 服の中でぴすぴすと鼻息を漏らしながら寝ているリンをそのまま支え、なんとか刀を鞘に納めた。もうすぐ夜が降りてくる。早く帰らなけらば盛大に怒られるだろう。折檻さえあるかもしれない。リンは刀に宿っているから大丈夫だと思うが、なるべく痛い目には遭わせたくないから後で刀に戻ってもらわないと。


  ◆


「おそーい!」

「いろいろあったんですよ……」

「まったく令一くんは仕方ないなあ。そんなにおいたばっかしてるとドMなのかと疑っちゃうよ。それとも…… してほしい?」

「んなわけねーだろですよ! 首絞められたり焼きゴテ当てられたりするので喜ぶのはあんただけだ!」

「ええ! なんで知ってるの!?」

「脳吸われるのに恍惚としてた奴がなに言ってるんですか!」


 疲れた…… もう嫌だこの邪神。

 毎日毎日バリエーション豊富に拷問を勧めてくるの本当嫌だ。夜刀神さん助けて……


「へえ、アーティに会ったんだ…… まあ、お使いはちゃんとできたみたいだし、そっちの手伝いに行ってもいいよ。どちらにせよ、くふふふ」


 突っ込まないぞ。そもそも処理代払わなかったクソご主人の所為だからな。


「そうそう、私は明日図書館に行くからお前は好きにしてていいよ」


 待ち合わせがあるんだ、きゃっ! なんてくねくねした気持ち悪い動きで言い出したので無視して寝よう。ああいや、朝早くから主人が出かけるなら朝ご飯を用意しておかなくちゃいけないのか? 簡単な物でいいよな。おにぎりとか、でもこいつがそんな庶民食を好んで食って行くのか? 気まぐれすぎて未だによく分からない。

 一応サンドイッチとおにぎり両方用意して冷蔵庫に入れておくか。エプロン、エプロンっと。


「主婦みたい」


 俺はなにも言わないぞ。これで怒鳴ったら折檻されるのが目に見えてるからな。もうそんな挑発には乗らん。

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