あの世の色を冠する場所
「紫雲は極楽浄土を表すから、
見事に紫塗れだな。
当たり前だが、紫を冠する地区と言っても全部に紫の名前がついているわけではない。じゃないと一箇所に絞れなかっただろうな。
「しかしあの世の紫なあ……なんか釣れそうで嫌だな」
「発想があまりにも貧困かな。まあ、釣れたとしても……化け物しか釣れないだろうけれど」
「化け物?」
ベンチに座ったまま首を傾ける。
紅子さんは仕方がないなとでも言うように微笑んで、話を続けた。
「そう、化け物。池があの世に繋がっているということは、その先は水場なわけだよ。さて、お兄さん。あの世の水場と言えば?」
「さ、三途の川……とか」
それしかない、よな?
「正解。三途の川にいる生き物は大昔に滅びた水生生物とか、川に落ちた罪人を食べるやばい化け物しかいないよ」
「へえ……たとえば、なにがいるんだろうな」
彼女は目を瞬かせてすぐに答えた。
「海王類とか?」
「こわっ、いや、ねーよ。架空の奴じゃないか」
そんなものが現実にいてたまるか。
「冗談だよ、冗談。精々海竜とか……クラーケンとか……ジョーズとか……」
「余計怖いわ! っていうか、海竜とかクラーケンはいそうだからともかく、ジョーズは架空の話だろ」
「海竜もクラーケンも、ほとんどの人はいないと思ってるだろうけれどね。アタシ達はドラゴンもリヴァイアサンも見たことがあるから、そう信じられるだけで」
ドラゴンもリヴァイアサンも見たことがあるっていう嘘みたいな事実も、残念ながら肯定するしかないんだよな。どっちも人型に化けてたけれど。
「えっとね、ジョーズみたいに1匹のサメが複数の人を襲った話はないけれど、あの映画の元となった小説には、更に元にしたサメの事件というものがあるんだよ。ま、それは自分で調べてほしいかな」
「うわ……ってことは、本当に化け物が釣れるかもしれないってことか」
「うん、だから紫鏡中に釣り糸なんて垂らさないようにね」
「やるわけないだろ。例えばの話だよ」
そもそも釣り糸なんて持ってないからな。
「知ってる。さて、ちょうど暗くなってきたことだし……頃合いかな」
「そうだな」
現在時刻は午後7時。比較的明るい黄昏時から
「紅子さん、寒くないか?」
昼間は日差しが強すぎるくらいだったが、今は風が少し冷たいくらいだ。
紅子さんは半袖のセーラー服姿ではあるが、長めの赤いマントのような、ポンチョのような上着を羽織っている。冬場も本来の姿は変わらなかったが、後からマフラーをしたり、コートを更に羽織ったりしていたから、寒いものは寒いのだろう。
「春にはなったものの、まだ夜は涼しいよねぇ。どう? アタシは寒いのかな」
ベンチの空白を詰めた彼女の手が、そっと俺の頬に押し当てられる。
およそ体温というものが感じにくい、真っ白な手。体温がないわけではないのだろう。でも、普通の女子高生よりもずっと低いだろうその手。
本来は幽霊なのだから当然ではあるが、少しだけ寂しくなった。
頬に当てられた手に自分の手を重ねて「……寒いんじゃないかな。こんなに手、冷たいし」と呟くと、おかしそうに笑って紅子さんは手をするりと抜いてしまう。
「お触り禁止かな」
「自分から触れてきたくせになに言ってるんだよ」
悪戯気な表情で「そうだったね」なんて言う彼女は、見間違いでなければほんの少しだけ頬が紅潮しているように思えた。
自分でやっておいて恥ずかしくなったのかもしれない。とんだ自爆だが、そんなところが俺は好きなんだよなあ。
「このあと、どうしようかな」
「移動……しておくか」
「そうだね、いつ始まってもおかしくないから……もしかして、既に始まっていたりして」
「気の早い人がいたら、そうかもしれないな」
紅子さんの授業終わりに待ち合わせをして、二人で紫陽花公園までやってきて、聞き込みをして、議論を交わし合った。
結論が出てからも軽い雑談をしていたために、結構な時間が経ってしまっている。行かなくては。
自然に紅子さんの手に自身の手を伸ばすが、彼女はそれに気がつくと、またもやするりと幽霊のように抜け出て一歩、二歩と離れてしまう。
「〝おにさん〟こちら、てのなるほうへ……お兄さんだけに」
「なに上手いこと言ったみたいな顔してんだよ」
ちろり、と舌を出して悪戯気に笑う。
こういうところだけは見た目相応なんだか、子供っぽいんだか……
「ふふふ、さっきも言ったけれど、お触り禁止。手を繋ぐ行為は有料コンテンツだよ」
「あー、はいはい。で、いくらなんです?」
「……んん、冗談だよ。分かってるだろうに、意地悪だなぁ。そう真顔で財布を探し始めるのやめてくれないかな。変態みたいだよ」
「いつもからかってくるのは紅子さんのほうだろ。意趣返しくらい少しはさせてくれ」
それに、俺が財布探す素ぶりしたのもポーズに決まってるだろ。一緒にいるときの八割くらいはいいようにからかわれるこっちの身にもなってくれ。
あと、一言余計だ。変態じゃない。ポーズなんだから本気で金を出してでも手を繋ぎたいとか思ったわけではない。たとえそれで手を繋げるとしても、そんなものに価値なんてあるものか。
「はあ、
「分かってるよ」
どちらかというと紅子さんが変な絡みかたをしてくるから、それに対応しているうちに足止めされているような状態になるんだ。
口の回る紅子さんと言葉遊びをしていると、いつのまにか時間が過ぎていってしまう。
「紫雲公園はこっちの方面だね」
「迷わないでくれよ」
「そう思うならお兄さんも地図アプリ起動しなよ。アタシにだけ任せてお兄さんはついて歩くだけだなんて恥ずかしくないの? ついて歩くだけだなんて、そんなの生まれたばかりのヒヨコでもできるよ」
黙ってアプリを開いた。
別に傷ついてなんかない。本当のことだしな。
しかし、まあ、年下の子に先導させて任せっきりだなんて普通はしないよな。恥ずかしい大人になるところだった。心の片隅で忠告に感謝する。
「紅子さん、こっちだ」
「あれ?」
方向音痴か。
「……えっと、細かいことは」
「苦手、なんだろ」
「…………うん」
恥ずかしそうにしゅんとした彼女のマントを引っ張り、誘導する。
手を繋ごうとしないのは先程逃げられてしまったから、その気遣いだ。彼女の意に添わぬなら、俺は普通に我慢するだけだ。
だって、まだ告白すらしたこともないしな。
恋を自覚してからそれなりに時間は経っているが、今のままでは……拒絶されるのがオチだ。
彼女はどこか気安く、下ネタでからかってきたり、思わせぶりなことをしたりと俺を散々弄んでくれているが、その実深く切り込もうとすると強固な壁で阻まれる。
いや、違うな。掴もうと思っても、そこに彼女はもういない。
〝幽霊〟
まさにそんな感じなのだ。
性急にしてもいいことはない。焦るあまりに俺が行動すれば、二度と彼女は顔を見せてくれなくなるだろうな。そんな漠然とした、しかしはっきりとした予感がする。矛盾しているが、気持ち的にそうとしか言い表せないのだから仕方ない。
たまにスマホの地図を見ながら二人で歩き、三十分程の徒歩の時間。
軽口を叩いてばかりの彼女は、一言も。そして俺自身も、一言も喋らなかった。
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