33 暗闇の中に光を
暗闇の中に光を(1)
僅かな雲の合間から見える満月を背景にして、彼女は静かに微笑んでいた。
哀愁漂いつつも、覚悟を決めた表情で。
その覚悟がどのようなものかは容易に想像できた。
だから躊躇いもなく彼女の華奢な腕を握りしめたのだ。彼女の行いを全力で止めるために。
しかし次の瞬間、柔らかいものが唇に押しつけられた。
同時に血の味も――。
何をされたのか判断できないまま、握っていた彼女の腕が手からすり抜けた。気づいた頃には彼女の背中は離れたところにあった。これでは間に合わないと悟り、彼女に向かって叫んでいた。
自分にとって道標である彼女を一生忘れることはできない――。
それを受けた彼女は逆に言い返してきた。貴方が私の道を切り開いてくれた、出会えて幸せだったと。
最後は拒絶を示す意味も込められた、別れの言葉を告げられた。
呆然としている中、彼女は愛用のショートスピアを握り、その先にいる絶望の使者に向かって走っていく。そしてそのものと一緒に、暗闇が続く扉の奥へと行ってしまった。
姿が見えなくなると扉は閉じられ、この大地からそれらは消失した。
* * *
フリートはその場に膝を付け、がくりと項垂れながら、土の上に拳を叩きつけた。辺りは静けさに包まれていたため、その音は微かであったにも関わらず、離れていたミディスラシールやロカセナ、メリッグたちも聞くことができた。
誰もが口を閉じて、扉があった場所に視線を向けている。扉は無くなり、その中から垣間見えていた黒い霧も消えた。先ほどまで大地を荒廃させようとしていた、恐ろしいモンスターの姿も気配もない。
傷ついている人間たちや大地を見なければ、何事もなかったかのようだ。
俯いているフリートの元に二人分の足音が近づいてくる。視線をおもむろに横に向けると、橙色のバンダナを結んだ青年に支えられた、左腕と腿に怪我を負っている紺色の髪の女性が寄ってきた。
彼女はフリートに視線を一瞬だけあわすと、扉があった方に視線を向けた。
「リディスは貴方を愛しており、護りたかったから、自ら鍵として向こう側へ飛び込んだ。扉を開閉できる者はフリートかロカセナのどちらか。今回は彼女が能動的に行った結果だったということね」
淡々と告げられる事実を聞き、フリートは地面を拳で強く押し付けた。
「俺がリディスを鍵として使わせたって言うのか……? 俺のせいだって言うのか!?」
「いいえ。彼女はそんなこと微塵も思っていないでしょう。彼女の口から直接聞き出す方法はないけれど」
頭に血が昇ったフリートは、拳を握りしめながら鋭い視線をメリッグに向けた。だが彼女を見て、吐き出そうとしていた言葉を飲み込んでいた。
ぼろぼろになった体や顔、そして目からは一筋の涙が流れていたのだ。
メリッグが言うべきことを言ったと悟ったトルは、その場に彼女を座らせた。細かに呼吸をしている彼女の肩に恐々と触れている。白いスカートの一部は赤く染まっていた。おそらくかなり無理をして立っていたのだろう、フリートに真正面から現実を伝えるために。
次にルーズニルに支えられたロカセナが歩み寄ってきた。そしてフリートの左隣に腰を降ろし、横になった。左脇腹の傷は想像以上に深そうだ。止血を手伝おうとしたが、ルーズニルにやんわりと断られた。
「フリート君は自分のをやってくれ。右足、傷ついているんだろう?」
眼鏡をかけた青年に諭され、フリートは差し出された布を受け取って、自分の右足に触れた。ラグナレクからの攻撃で臑を斬られていた。その痛みは動きを鈍くするのには充分な深さだったが、背中を護って欲しいと言われた娘のために耐えていたのだ。
だが、その娘はもういない。
フリートは歯をぎりっと噛み締めながら、ズボンの上から傷の部分をきつく縛り上げた。これで多少動きが良くなるだろう。
満身創痍の人々が無言で深手を負った者に対して応急処置をしていく。
スキールニルはミディスラシールを横にして右太腿の止血をしている。彼は触れた途端、布が赤く染まっていくのを見て眉をひそませていた。その布を何重にもすることで、ようやくその色は見えなくなっている。
剣も振るわず、周囲の気配も極端に気にしない状態。少し前では考えられない光景が広がっている。
しかし視線を上げれば先ほどと変わらず、空は厚い雲に覆われていた。僅かな隙間から満月が顔を覗かせた時もあったが、今は見える気配すら感じられない。
「姫、止血が終わりました。他の者たちも準備はできているようです」
スキールニルが腰を降ろしている他の騎士たちの姿を確認してから口を開く。その言葉を受けたミディスラシールは起き上がる。フリートと視線が合うと若干視線を逸らされた。
「……あのモンスターはひとまず消えたようです。個々のモンスターも現れてはいないことから、扉が閉じて消えたことで、モンスターの脅威は薄れたと考えられます。ただし残っているものが地上に何体かいるはずです。そちらに関しては城に戻ってから討伐隊でも出して、対処しましょう」
「つまり城に戻るってことですか?」
フリートが問いかけると、ミディスラシールは悔しさを表情に滲ませながら頷いた。
「……他に何かできることはありますか?」
その質問は返答に窮するものだった。ラグナレクはこの大地にはいない。それを封印か還術をするために来た一同だ。相手がいなければ動く理由など無かった。
ミディスラシールの言葉を聞いても頷けないフリートは、ふと地面に落ちている葉っぱに視線がいった。枯れかかっているが、緑色にもやや色づいている。なぜこのような所にあるのか疑問に思っていると、それは光の粒子となって消えていった。僅かに見えた魔宝樹が落とした葉の
その魔宝樹は未だに鍵によって閉ざされた扉の奥――。
何か重要なことを忘れている気がする。
起き上がって顔を右手で覆っている銀髪の青年に、フリートは顔を向けた。
「樹がこの地に戻ってないな、ロカセナ」
「見ればわかる。数ヶ月前と同じ状態に戻っただけだ、彼女は消え、多くの人や建物が犠牲になった以外は」
投げやりな言い方に若干苛立ちを感じたが、彼の握りしめられた拳を見て、その感情はすぐに収まった。誰もが同じように悔しさを抱いているのだ。
力の無い自分たちのせいで、彼女は消えてしまった。
そして彼女と引き替えに手に入れたのは――未来へ繋ぐための時間のみ。
あれだけ欲していた魔宝樹すらない。
この状況は自分たちが長年望んでいたものとは、程遠いものだった。
フリートは魔宝珠の欠片に宿っている
今は忘れているかもしれないことを必死に思い出すよりも、体を動かしたほうがよさそうだ。
フリートは重い腰を上げようとすると、煌めく何かが視界に入った。ちょうどリディスが消えた場所だ。
腰を上げて、ゆっくり歩を進める。他の者たちはフリートの奇妙な行動に視線を追っていたが、その視線すら感じずに、前に集中して歩いていた。
やがて煌めきの正体を見つけると、目を丸くしながら傷ついた手で拾い上げた。
それはフリートがリディスに贈った、鍵の形をしたペンダント。鍵の持ち手に埋め込まれている魔宝珠が煌めいているのだ。温かくなったり冷たくなったりと、まるで宝珠が存在を自己主張しているように感じられる。さらに色が緑、茶、赤、青と鮮やかに輝いているのだ。
よく見ればペンダントの紐の部分が千切れている。まるで扉がこれのみ拒絶したようにも見えた。
「何かあったの、フリート?」
代表してミディスラシールが問いかけてくる。
「少々気になるものが落ちていまして……」
鍵を見せるために振り返ろうとすると、リディスと一緒に見た魔宝樹が脳裏をよぎった。ノルエール女王に導かれた先にあった、枯れ始めているが、荘厳な雰囲気を漂わせた、あの大樹を――。
「フリート?」
再度問いかけられるが、フリートの耳には入ってこなかった。目を細めているロカセナに質問を投げかける。
「なあロカセナ、あの時お前は魔宝樹の下にどうやって行ったんだ?」
「あの時? ああ、一週間くらい前のことか。突然現れた光の先から聞こえた女性の声に従って進んだら行けたよ」
「その声、ノルエール女王じゃなかったか?」
ミディスラシールの眉がぴくりと動く。ロカセナは僅かに首を傾げた。
「わからない。ただ凛としたはっきりとした声だったから、それなりに威厳や地位がある人ではないかと思ったよ。あと樹の守り人とか言っていたな。……それがどうしたんだ?」
話の内容が掴めないロカセナや他の者たちは、訝しげな表情でフリートを見てくる。
フリートは今まで得た断片的な知識を必死にかき集め始めた。
魔宝樹がある空間に、リディスとラグナレクはいる。
その空間に以前フリートたちは行ったことがあり、そこまでは樹の守り人であるノルエールに導かれた。
そしてその時、フリートとロカセナは――“扉を開ける者”と言われている。
ロカセナは実際に月食の日に半分とはいえ開いたが、フリートはどうだろうか。リディスが自分の気持ちを汲んで出た行動であったとしても、結果として開いたのではなく、閉じている。
フリートの手元にあるのは、リディスが残した鍵。
鍵とは閉じられた扉を開けるために必要なもの――。
「……俺はまだ扉を開けていない」
ぼそりと呟くと、メリッグとミディスラシール、そしてロカセナがはっとした表情をして、顔を上げた。
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