番外編3 槍術と秘めたる想い

槍術と秘めたる想い(1)

「すみません、リディス様。用事があるのをすっかり忘れていました。少し時間がかかるものですので、先にお帰りになっていただけませんか?」

 紙袋を抱えた金色の髪の少女が振り返ると、彼女の屋敷の使用人であるマデナ・イルレリカは申し訳なさそうな顔をしていた。リディスはきょとんとしていたが、すぐに頬を緩めて、首を縦に振った。

「わかったわ。先に帰らせてもらうね。これを早くお父様に渡してあげたいから」

 リディスが抱えている紙袋の中には、焼きたてのパンが入っている。シュリッセル町の中でも美味しいと有名な店のパンで、焼き上がった時に偶然居合わせたのだ。父親のオルテガはこの店のパンがたいそう好きで、ついつい手を伸ばして、食べてしまうらしい。

「お一人で大丈夫ですか? 近くに友人がいますので、彼女に付き添いを頼むことは可能ですよ」

 マデナの言葉を聞いて、思わず苦笑した。

「そんなに心配しなくても大丈夫。私はもう十四歳よ。十歳にも満たないちびっ子と一緒にしないで」

 リディスは腰に手を当てて胸を張ると、マデナの表情がやや和らいだ。そして手を振りながら、マデナが歩いていくのを見届けた。

 彼女の姿が見えなくなると、リディスは彼女が向かった先と正反対の場所にある屋敷に向かって歩き出した。


 ミスガルム領の北東部に位置するシュリッセル町――そこを治めるオルテガ・ユングリガの娘リディスは、明るい表情で町の中を歩いていた。町人たちとすれ違う際ににこやかに挨拶をすると、相手方も笑顔で返してくれている。

 肩の上で金色の髪を揺らしながら、大通りを進んでいたが、いつもよりも人通りが多く、思ったように進めなかった。

 リディスは頬を軽く膨らまし、視線を裏路地に向けた。薄暗い路地は人の気配などほとんどない。そこを通り抜ければ、かなりの時間を短縮することができる。

 軽く周囲を見渡してから、リディスは裏路地に入り込んだ。やや小走りで抜けていく。靴で瓶を蹴りつつも、視線を前に向けて駆けていた。

 路地の隙間から向けられる視線を感じると、心臓が激しく波打つ。それでも足は止めずに走っていると、開けた空間に飛び出せた。建物と建物の間に作られたこの空間を抜ければ、屋敷の裏手が見える位置まで着ける。

 リディスは口元を緩めて走っていると、空の色が若干明るくなった。シュリッセル町全体を覆っている結界が一時的に解けたのだろう。

 町の周囲は個別にたくさんの結界が張られているので、すぐに町に危機がくるということはない。ものの数分で結界は張り直されるため、心境としてはやや心許ない時間が続くが、焦るなど の感情はなかった。

 リディスは周囲をきょろきょろと見渡しながら、広場を突っ切る。そして建物の間を通過して外に出ると、ちょうど結界が張り直された直後だった。

 目の前には屋敷の屋根が見える。あと少しで辿り着ける――意気揚々と歩いていると、身もすくむような殺気を感じ取った。

 周囲の気配には注意しながら移動していた。

 だが、結界が再度張られたのに安堵してしまい、僅かな隙を作ってしまったのだ。

 モンスターが背後に回られる隙を。

 顔を引きつらせて、恐る恐る後ろを向く。すらりとした体格で黄色い体毛を持つ、四つ足のモンスター。素早いのに定評があり、出会ってしまったら逃げるのは不可能、先行して還術をしなければ、無傷で済まない相手だ。

「ほんの僅かな隙に侵入してきたの……!?」

 唸り声をあげながら、モンスターは涎を垂らして歩いてくる。

 リディスはゆっくり後ろ歩きで下がるが、距離は一向に開かない。

 ごくりと唾を呑む。視線を逸らさず、後退する。だが踵が石に当たってしまい、体勢を崩した。

 倒れるリディスを見たモンスターは、歯を見せて飛びかかってきた。

(殺される――!)

 リディスは買い物袋をきつく抱きしめて、目をつぶった。

 しかし、いくら待っても体に激痛は走らなかった。

 リディスはうっすらと目を開ける。その視界に入ったのはモンスターではなく、亜麻色の長い髪を一本で結っている女性の背中だった。

 抱きしめる力を緩めながら、目を開いてく。女性は彼女の背よりも長いスピアを握りしめている。リディスに目を向けることなく、モンスターを睨み付けていた。

「まったく、こちらの隙に突け込んで侵入してくるなんて、いったいモンスターはどうなっているのかしら」

 独り言のように呟いた女性は、モンスターに向かって声を投げかける。

「ねえ、どうしてこの子を襲おうとするの。この子が何をしたっていうの?」

 もちろんモンスターが応えるわけがない。依然として唸り続けている。

 周囲を見渡してから、じっとモンスターを見た。そしてリディスとモンスターの間を遮るようにして、彼女は左腕を真横に突き出した。

「ここで引き下がってくれれば、私は何もしない」

 リディスは女性の言葉を聞いて目を見張った。

「でも、もし危害を加えるのであれば容赦はしない! 私の前では誰一人傷つけさせない!」

 気迫がこもった声を聞き、リディスはごくりと唾を飲み込んだ。まだ十代半ばのリディスだが、女性の並々ならぬ思いをしかと感じ取っていた。

 モンスターはやや足を前に踏み出すと、一直線に女性に向かって突進してきた。

 速い。女性が立ち向かったとしても、あの軽い体ではあっという間に弾き飛ばされてしまう。

 リディスは応援を呼ぼうと思って駆け出そうとしたが、それよりも女性がスピアの切っ先をモンスターに向ける方が先だった。

 モンスターは女性に突っ込んでいく。彼女はぎりぎりまでその場から動かず、直前で数歩脇に逸れた。

 遮るものが無くなったモンスターは、リディスの方に走り込んでくる。

 とっさのことで反応できず、足はまるで地面に張り付けられたかのようにぴくりとも動かなかった。

 歪んだ顔でモンスターを見ていると、それは唐突に動きを止めた。

 脇腹に鋭い棒が突き刺さっている。そこから赤黒いものが染み出ていた。

「在るべき処に――」

 凛とした女性の声は、モンスターを在るべき処に還す方法、還術の最後の言葉を紡いだ。

「還れ!」

 声と同時にモンスターは黒い霧となって消え始める。それはモンスターの脅威もなくなったということも意味していた。

 途端リディスの体の力は抜け、その場に座り込んでしまう。立ち上がれずにいると、女性がスピアの召喚を解いて近寄ってきた。微笑みながら、手を差し伸べてくる。

「大丈夫?」

「は、はい!」

 女性の手を取り、リディスは立ち上がる。風が吹くと亜麻色の柔らかな髪がさらさらとなびいていた。

「よく逃げ出さなかったわね。逃げていたらモンスターの意識が私から貴女にまた戻って、対処がちょっと手こずったかもしれなかったから、助かったわ」

「い、いえ……。ただ動けなかっただけです……」

「理由としてはそうかもしれないけれど、結果的にはよかったのよ」

 女性は町中に向けて軽く視線を送った。

「まだ他にもモンスターがいるかもしれないから、お家まで送っていくわ。案内してくれる?」

「そこまでしていただかな――」

「スレイヤ、そこにいたか!」

 若い男性の声がリディスの言葉の間に入り込んでくる。スレイヤと呼ばれた女性は声がした方に振り返った。赤褐色の短髪の青年が中年の男性と共に駆け寄っていた。

「お前は目を離すと、すぐにいなくなるんだから!」

「あのね、フェル、心配しすぎ。ちょっと離れたくらいで、口うるさく言わないで」

「お前の兄さんから目を離すなって言われているんだよ。好奇心旺盛過ぎて、すぐにどこかに行ってしまうから、気をつけてくれって」

 スレイヤは口を尖らせて、フェルを睨みつける。

「自分の世界に入り込んで、黙々と資料を探し回っている兄さんに言われたくない!」

「……あと方向音痴だから、くれぐれも離れるなと言われている。俺たちと離れるなっていうのが条件で村を出たんだろう。そこら辺は自覚して欲しい」

 スレイヤの顔はかっと赤くなった。拳を握りしめていたが、ぐっと言葉を飲みこみ、腕を組んでリディスの方に向いた。

「邪魔者が入ったけど、家まで送るわ。私は来たばかりでこの町に詳しくないから、先行して進んでね」

「は、はあ……」

「ちなみに名前は? 私はスレイヤ・ヴァフス。この人たちと半島中を旅して回っている還術士よ」

 スレイヤが名乗ると、後ろにいたフェルと中年の男性は軽く頷いた。

 還術士には何度か会ったことはあるが、スレイヤのような若い女性の術士に会うのは初めてだった。戸惑いながらも、リディスは口を開く。

「私はリディス・ユングリガと言います。自宅は……あちらの方です」

 やや大きめの屋根を指で示すと、フェルは目を瞬かせていた。リディスの名前を聞いた時から、やや反応があった。町に来たばかりだが、最低限必要な情報は既にいくつか得ているらしい。

「お嬢さん、もしかして……」

 リディスは姿勢を正し、表情を緩めてにこりと笑った。

「シュリッセル町を治めるオルテガ・ユングリガの娘です。この度はお助けいただき、ありがとうございます。お礼もしたいので、是非屋敷までお越しください」

 余所行きの表情を完全に取り繕った。二人の男性は驚いていたが、スレイヤだけが真顔でリディスのことを見ていた。



「この度は娘を護っていただき、誠にありがとうございました。ほんの僅かな時間とはいえ、モンスターを侵入させてしまったのは、由々しき事態です。急いで詰め所の者に言って、結界が解けている時間帯の動きを改めてもらうことにします」

 スレイヤたちを屋敷にあげたリディスは、オルテガと並んで椅子に座り、彼女に向かって深々と頭を下げた。

 頭を上げると、机の上に乗っているお茶を薦めた。ささやかながらの感謝の印である。

 促されたスレイヤは、躊躇いつつも「いただきます」と言ってから、カップに口を付けた。一口飲むと、目を丸くして軽く口元を抑えた。

「美味しい……」

「ありがとうございます。この町でとれた茶葉を使って、淹れたものですよ」

 クッキーなどの茶菓子を並べた皿を持ってきたマデナは、微笑を浮かべてお礼を言った。やや緊張していたスレイヤの表情が緩む。マデナはその緊張をさらにほぐすかのように、茶菓子も薦める。それを有り難く受け取ったスレイヤはお菓子を口にすると、さらに顔を明るくした。

 その勢いでクッキーを二、三個食べ、お茶を飲むと、ほっと一息を吐いた。

「お茶菓子もとても美味しいです。しばらく各地を放浪していた関係で、食は栄養補給するという点でしか見ていなかったのですが、やはり美味しいものを食べている時は幸せになりますね」

「そうですよ、人の欲には食欲というものがあるのですから。よろしかったら、どんどん食べてください。こちらとしても作ったかいがありますので」

 時々マデナは茶菓子を作り過ぎてしまうときがある。リディスやオルテガも必死になって食べても余るため、マデナが知り合いにあげることで、どうにか食べ尽くすことができていた。

 スレイヤは嬉しそうに、また違った味の茶菓子を手に取っていた。

 リディスはちらりと彼女のことを見る。美味しそうに食べる姿からは、スピアを振り回し、還術をする様子など想像できない。しかし、彼女はリディスの目の前でモンスターを還した。とても印象深く、記憶に留まる光景だった。

 スレイヤが茶菓子を食べ終わったところを見計らって、口を開いた。

「スレイヤさんたちは、色々なところを旅して回っているんですよね。今までどこに回ったのですか?」

「ヨトンルム領からムスヘイム領を経由して、ミスガルム領に来た。ムスヘイム領はモンスターが少ないから、還術するというよりも外の世界を見ながら通ったという感じね」

「外の世界……?」

 リディスが目を瞬かせていると、スレイヤは二つのペンダントを机の上に置いた。

 一つは綺麗に加工された、リディスも店先で見るペンダント。もう一つは原石に近いものを紐でぶら下げているものだ。スレイヤは加工された方を指す。

「こっちはミスガルム王国で購入したもので、そっちのはムスヘイム領の小さな町で購入したものよ。両方とも首からぶら下げるものなのに、まったく違うでしょう? 町の中を歩いていても、雰囲気も人々の歩く姿も違っていて、違う町や村に訪れる度にいつも刺激を受けているのよ」

「そうなんですか……」

 リディスはじっとペンダントを見比べた。これだけを見ても、まだ見ぬ世界に夢が膨らむ。自然と頬が緩んだ。

「シュリッセル町はいいところよね。他の町にも行きやすいし、情報を得やすい。町の中の雰囲気もいい。ミスガルム王国は入場するにも、制限があって動きにくかった……」

 スレイヤがフェルと苦笑している。

「そんなにいい町なんですか?」

 町から滅多に出たことがないリディスは首を傾げて尋ねる。スレイヤは笑顔で頷いた。

「そうよ。しばらくここに滞在してもいいくらい。この町は色々な知識が寄り集まっているようだから、その点も調べたらきっと面白いでしょうね」

「しばらくいるのですか? もう宿は借りたのですか?」

「まだよ。さっき来たばかりだから。これから探すつもり」

 リディスはふとオルテガに視線を送った。

 この家はリディスたちだけで住むには広すぎる屋敷だ。遠方からの急な訪問にも応えられるよう、客間もいくつかあった。三人を泊めるなど、たいした手間はかからないはずである。

 視線を受けたオルテガは、困ったような顔をしていた。

 リディスの考えていることは察しており、その上で回答に渋っているようだ。出会って間もない人間を泊めることに、抵抗があるのだろう。

 スレイヤが棚の中に並んでいる本に視線を留めると、目を細めてその本の背表紙を見た。

「……古代文字の本ですね。しかもヨトンルム領の中にある村の名前が書かれている」

 オルテガは軽く目を見開き、振り返って背後にある本を見た。古代文字はある程度の知識と辞書があって、初めて読めると言われている。辞書なしで判断できる人など、ほとんどいない。

「スレイヤさん、詳しいんですね、古代文字に」

「古代文字で書かれた書物を読まなければならない機会があって、そこで基本的な読み方は教えてもらった。代表的な名詞くらいはなんとなく覚えているわ。兄なら文章を細かく訳すことができるけど、私には単語の意味を把握するので精一杯ね」

「強いだけでなく、教養もあるなんて、凄いです……!」

 スレイヤへの憧れが、リディスの中で大きくなる。

 このような一時的な茶の場で話を聞いただけでは、彼女が持っている様々な経験を聞き出すことはできない。もっと時間をかけて、じっくり聞きたかった。

 再びオルテガのもとに視線を送ると、彼は肩をすくめてから、スレイヤたちを眺めた。

「スレイヤさんたち、宿をお探しのようなら、部屋は余っていますので、屋敷の客間はどうでしょうか?」

 数瞬の後、スレイヤは首を小刻みに横に振った。

「いえ、そんなお気遣いは!」

「むしろ泊まっていただけないでしょうか? そして不躾(ぶしつけ)なお願いですが、村にいるときは、村を護ってくれないでしょうか? 最近結界が緩んでモンスターが侵入してくる機会が多くなっています。この屋敷であれば比較的早く情報を得られて、現場に向かうことができます。動き始めるのには最適の場所でしょう」

「還術することに場所は問いませんので、お願いされなくても還しに行きますが……」

 ずっと見つめていたリディスの視線に気付いたスレイヤは目を軽く瞬かせて、表情を緩めた。

「……分かりました。せっかくのご厚意、有り難く受けさせていただきます」

 リディスの顔がぱっと明るくなる。それを見たスレイヤは口元に笑みを浮かべた。

「しばらく厄介になるね、リディスちゃん」

「お時間がある時にでも、色々とお話を聞かせてください!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る