愛しき人に時間を(6)
* * *
銀髪の青年は小屋から出て、外の様子を眺めていた。空気がいつもより張りつめているのが、肌を通じて感じとれる。遠い北の大地から、禍々しい殺気とそれを跳ね除けるかのような凛とした雰囲気が漂っているようだ。
周りの空気の変化に敏感なロカセナとはいえ、まさかここまで離れている場所の気配を感じるとは――。
「よほど激しい戦闘をしているみたいだ」
メリッグの精霊召喚に対する潜在能力は高いと察していたが、ヘラとまで渡り合える実力があるとはロカセナは思っていなかった。必死に抵抗しているようだが、ヘラの殺気はメリッグの気配を覆い尽くそうとしていた。
おそらく勝敗は時間の問題。このまま第三者の介入がなければ、勝負は決しているだろう。
「さて、僕は扉を開ける準備をしなければ」
視線を上げれば、宙に浮かんでいる巨大な扉がある。そこからモンスターが小さなものから大きなものまで出続けていた。扉が片側しか開いていないため、極端に巨大なモンスターは現れていなかった。
ヘラのように高度な召喚技術を持つ者であれば、この地に巨大なモンスターを召喚することは可能だが、今の状態では限られた回数しかできないらしい。
「扉が開けばモンスターは出続ける。同時に樹も導けるかもしれない。それが何を意味しているか知らず、僕たちの邪魔をしてもらっては困る」
ロカセナは部屋に戻って、折り畳まれた外套を手にした。その下には騎士団時代に支給されたマントも綺麗に畳んで置いてある。思考を数瞬巡らした後、外套を置いて、マントを手に取った。
支給されたマントは、知っている者であれば、それがミスガルム騎士団のものであるということが一目でわかる雰囲気を漂わせているものだった。騎士団から離れた後、ゼオドアたちは処分しようかと言ったが、騎士という身分を使うこともあるかもしれないから、と言って断っていた。
その言葉に嘘はない。だが、おそらくこれを羽織ることはないだろう。自分は騎士団から離脱した身、これを羽織るなど許される行為ではない。
マントをさらに小さく折り畳んで、他の人に見られないよう自分の鞄に無理矢理詰め込み、部屋の片隅に置いておいた。そして地味な色をした外套を羽織る。初めてマントを羽織ったときは
必要なものを手に取って小屋を出る。暗くなり始めた道を一人で淡々と歩く。隣には眉間にしわを寄せている人も、笑顔で話しかけてくる人もいない。背中はもちろんがら空きだ。
「一人で考え事をしたいときは、静かなのに限る」
近くにある湖を横目で見ながら、目的地へと進んでいく。夕陽も見えるが、やや欠けた月も雲の合間からうっすらと顔を出し始めている。それが湖にもちらりと映っていた。
湖を覗きこむと、やややつれた自分の顔が見えた。療養のためにしばらく動いていなかったためだろう。
足を湖の端に伸ばすと、地面にあった小石を蹴っていた。それは転がって、湖に落ちて波紋を作る。ロカセナの顔が波紋によって揺らいでいた。表情を変えないまま、静かな空間の中で呟く。
「君たちにとって最悪なことは、実は世界にとっては最良のこと。必要な犠牲は存在するんだ」
ロカセナは小袋から掌に軽々と乗る小さな石を取り出した。母親から生き別れになった兄と共に受け取ったものである。それをじっと見た後に、真上に投げて、手で掴みとった。そして踵を返して、しっかりとした足取りで森の中に入っていった。
* * *
「絶対に気を緩めないで。これからが本番よ!」
赤き陽が暮れゆく中、凛とした女性の声が辺りに響き渡った。周囲にいた男たちは持っていた武器を握りなおし、
金色の髪の女性は額に浮き出た汗を拭うと、隣にいた薄灰色の髪の青年に声をかけた。
「夕方から攻めてくるなんて、どういうことかしら」
「姫が思っている通りだと思われます」
「貴方と同じ考えなら、心強いわね。――大気が震えている。この地のどこかでもっと大きな力が発生しているわ」
ミディスラシールはどこにいるかわからない、鍵の娘を護っている人々の顔を思い浮かべる。
トルという傭兵は、無事に彼女たちの元に辿り着いただろうか。
彼はムスヘイム領からミスガルム城まで、道中多数のモンスターと交戦したらしいが、大きな怪我を負うことなく城まで着いた。その力を見込んで、一人でリディスたちの元に行かせた。その際、道中何かあってからでは遅いので、多めに結宝珠を持たせている。その中に
一方、今感じる、禍々しい巨大な力に立ち向かっているのは誰だろうか。
おそらく相手側はロカセナたち、鍵を狙う者たちと考えていいだろう。こちら側はメリッグという、
「相手側は私たちを彼女の元に行かせたくないから、今攻めてきているんでしょうね。……城を攻めている、この細かなモンスターを操っている者が一番厄介かもしれない」
リディスたちが今まで交戦した人物たちから考えると、ミーミル村で出会った老人が有力候補だ。
「扉を開くことで、樹をこの地に降ろそうとしている人間たち。剣術に優れている者、多数のモンスターを操る者、一匹ではあるけれど非常に手強いモンスターを操る者、非常に高度な精霊召喚をする者、そして人の感情に介入する召喚をする者――。どれも対策がたてにくいわ」
ミディスラシールは迫ってくるモンスターの群衆を見ながら、溜息を吐いた。本当は今後のことを奥の部屋にいる国王やアルヴィースなどと共に話し合いたかった。
しかし戦場に立つことで、皆の士気は上がるし、そこで見えてくるものもある。
城壁を越え、地を這いながら城に迫ってくるモンスターを見て、ミディスラシールは手をそっと地面に添えた。
「――
精霊召喚が不安定であり、使用を控えるように言ったが、この状況下で出し惜しみはできない。
仮に失敗したら、騎士団たちが予定通り還しに行くはずだ。その負担を少しでも軽くしたく、ミディスラシールは険しい表情のままあえて挑戦した。
「大地を揺るがせ……!」
そこを中心として激しい地響きが揺れ渡った。その揺れはミスガルム王国全体に伝わっていく。
すべてを在るべき処に還すために、ミディスラシールは願いと共に魔法を放った。
* * *
フリートは一瞬僅かな地面の揺れを感じた。視線が南にいるミディスラシールの方に向く。距離が離れているため、本当に揺れたかどうか疑わしいが、彼女がいる方向から巨大な召喚魔法が使われているのがおぼろ気であるが感じ取れた。
すぐに意識を戻し、三つの頭を持つ巨大なモンスター――ガルームにフリートは正面から突っ込んでいく。目の前には悠々とフリートを待ち構え、牙を光らせている獣。
既に言われているし、わかりきっていることだが、この相手に囮とはいえ、単独で攻めるのは無謀過ぎた。
以前、シュリッセル町のルセリ祠において、リディスとロカセナから気を逸らすために、単独で巨大モンスターに挑んだこともあったが、それはリディスの潜在能力を察し、考慮した上での作戦だった。
しかし、今回はそのような状況になることはまずないだろう。
たしかにトルは昔共闘した時よりも、格段にモンスターを還す技術は上手くなっているが、それはもともとあった戦闘能力と還術が噛み合い始めただけだ。
ルーズニルは武道や精霊召喚に関しては、成熟しきっているようにも見える。
つまりこの戦闘で誰かの潜在能力が引き出されて、大逆転できるような特別なことが起きるとは考えにくかった。
(――にも関わらず、こんな無茶な行動に出るとは――隊長の性格が移ったか)
口元を緩めつつ、目の前で牙を向けてくる真ん中の頭の攻撃をフリートは軽やかに左に動いてかわす。すれ違うところで、左の頭の牙が飛び込んでくる。それをバスタードソードで弾いた。相手の勢いと弾いた衝撃で何歩か後ろに下がる。
たった一回交えただけだが、手から痺れを感じた。予想以上に相手は力強い。
切っ先をガルームに向けて間合いをとる。相手の攻撃範囲はフリートが思ったよりも広く、一歩踏み出したかと思えば、すぐ傍に牙が近づいていた。
その牙を受け流し、そのまま顔に一斬り入れる。表面はかすった。だがあまりにも浅すぎたため、出血すらしなかった。
ガルームの左右の頭がフリートを挟み込むようにして噛みつこうとしてきた。背中を倒しながら避け、弾いて後ろへ跳躍する。
交戦時間としてはかなり短いが、フリートの息は既に上がっていた。
体は大きく、牙は鋭い。三つの頭が交互に攻めてくるため、隙がなかった。決定的な一撃を与えられないのはもちろんのこと、まともに体を斬ることさえ叶わない。トルとルーズニルの二人がかりでも、太刀打ちできなかったのも納得できる。
メリッグのように離れたところから広範囲に攻撃できる者がいれば、状況は変わるだろう。
せめて相手の体の上に降り立てれば、形勢は若干変わるはずだ。つまり高々と飛ぶ必要がある。
ガルームから目を離さないよう、辺りを見渡した。トルとルーズニルが周囲にいるモンスターを蹴散らして、ガルームを挟んでフリートと逆側に行こうとしている。しかし、モンスターたちもその意図を感じ取って動いているのか、ガルームの後ろの方がモンスターの密度が濃くなっていた。
フリートは眉間にしわを寄せて、周りにあるものをさらに確認する。目に付いたのは枯れ果てた一本の樹。手を伸ばせば登るのに手頃な枝がある。
ガルームに切っ先を所々で見せつつ、その樹に駆け寄ろうとした。半分背を向けているフリートに、相手は一歩踏み出すと、一気に追いかけてきた。徐々に重くなってくる体に鞭を打ちながら駆けていく。
樹までもう少しというところで、突然ガルームが加速した。舌打ちをして、フリートは切っ先を真っ直ぐ向ける。だがそれはフリートの予想に反して、脇を走り抜けて行ってしまった。
なぜだ――そう思った矢先に、何かがへし折られる鈍い音が聞こえた。はっとして視線を樹に向けると、ガルームの体当たりにより、樹が音をたてて折れていた。
呆然とその様子を眺める。辛うじてあった頼み綱がなくなった。焦りが募り、剣を握りしめる手が強くなる。
ふと、突然ポケットが温かくなった。左手でそれを取り上げると、
『わしが突破口を作ろう。上手く生かせ』
足下が揺らぎ始めた。この次に起こる事象を即座に予想したフリートは身を屈める。
そしてフリートの足下から土の台座が勢いよく飛び出た。あっという間にガルームを見下ろす体勢となる。六つの目玉がぎろりとこっちに向いた。
ここで躊躇ったらおそらく負けであり、それは死へと通じるだろう。
フリートは勢いを付けて土の台座から跳び、マントをはためかせながら、ガルームの背中へ降り立った。
着地した衝撃が全身を駆け巡る。同時に不意に感じた痛みをその場で飲み込んだ。
異物が乗ったことに混乱が生じる三つの頭。右の頭が背中に顔を向けようとしていた。フリートはその頭に向かって走り、それが振り返った瞬間、目を斬った。けたたましい悲鳴が上がる。
ガルームは激しく横に振って、フリートを落とそうとした。それを防ぐために首下にバスタードソードを力強く突き刺す。
刺さってはいるが致命傷には程遠い。トルとルーズニルの登場を待ちつつ、振り落とされまいと必死に柄を掴んだ。
だが、着地した時に感じた痛みがまた発生する。視線を下げると、ガルームの背中に僅かだが血が滴っていた。
このモンスターからまだ傷はつけられていない。おそらくロカセナによって斬られた傷が開いたのだ。歯を食い縛りながら、痛みに耐えようとする。
急に足下が前へと揺れ動いた。左右に振っても落とせないことに業を煮やしたガルームが、前進し始めたのだ。目の前には真二つに折られた樹がある。
フリートはしっかり柄を握りしめた。ガルームがその樹の残りの部分に体当たりすると、その衝撃で腹の痛みが一気に爆発した。手に力が入らなくなったフリートは背中から軽々と飛ばされ、腹から地面に叩きつけられる。
「……っ痛!」
思わず声をあげるが、地面に横たわって呻いている時間もない。
大きな影がフリートを覆う。すぐに顔を影の持ち主へ向けると、口を大きく開いているガルームの姿がすぐそこまできていた。躊躇いもなく人間を簡単に噛み砕く牙を近づけてくる。
死を覚悟した――その時、脳裏に金色の髪の娘がよぎった。
その姿は記憶を失う前の様子であり、晴れやかな笑みを浮かべていた。
彼女の未来を護るためには、ここでみすみす死を受け入れるわけにはいかない。
フリートは土の魔宝珠を力強く握りしめた。
(俺の残りの体力と精神力を使って、こいつに最期の一石を……!)
願った瞬間、別の激しい光がフリートを包み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます