遠い夜明け(3)

 * * *



 その日の夜は雲が珍しく空を覆っていなかったが、満月から既に十日程経過しており、ほとんど新月に近かったため、彼らがいる小屋を月光が照らすことはなかった。

 小屋の一室で銀髪の青年は、ベッドの上で目を開けたまま横になっている。その部屋に黒色の髪を二つに結った女性が顔を出した。ブラウスもスカートも黒一色の女性だ。

「あら、起きていたの。最近寝ている時が多かったから、貴方が起きている姿を見るのは久々だわ」

「召喚術を少し使い過ぎた反動だ。じきに元通りになる。扉を開く行為は鍵があったとしても負担が大きい」

「ふうん……。結局、鍵はあっち側に残ったままなのよね。珍しい、用意周到な貴方がそんな失敗するなんて」

「僕は連れていこうとしたが、あの人は後でいいだろうって言ったんだ。『もう少しあの場にいたら、風と水の精霊使いたちもやってくる。そしたら私だけでは少々苦戦する可能性がある』って」

「あら、あの人までそんな弱気な発言を。まあかなりの数の召喚をこなした後だったから、そう言ってもおかしくはないわね」

 銀髪の青年は左手で前髪をかきあげた。

「……二人は城に戻っていないと聞いた」

「そうなのよ。間抜けなニルーフを迎えにいったら、鍵の娘と光の青年の二人は戻っていないようだったわ。あとは風と水の精霊使いのお二人さんもいなかった。四人でどこかに身を潜めているんじゃないかと思う」

 女性は腕を組んだ状態で溜息を吐き、彼を見下ろした。

「ロカセナ、心当たりはある? 既にガルザとニルーフに頼んで、あなたたち三人が回ったところに行かせているんだけど、いい報告がないのよ。予測が付かない場所だと、探すだけで骨が折れるわ」

「考えてはおく。――ただ致命傷を負った人間が、そこまで頭が回ると思うか?」

 ぼそりと呟くと、女性はあっと声を漏らし、口元を釣り上げた。

「貴方のそういう何気ない発言でも、実は意味があることを言っているの、回りくどいけど嫌いじゃない。ありがとう、そっちの方面で探してみるわ」

「すまないが頼む」

「……ねえ、見つけたら、鍵だけ連れてくればいいのかしら。貴方の相棒もたぶん五体不満足の状態になるけど、連れてくることは可能よ?」

「そこは任せる。もし僕の前に連れてこられるような状態だったら、もはや手合わせする必要もないだろうが」

「手合わせとかは別の話よ。愛する人を目の前で消えてしまった時に発生する切なさや苦しさ、そしてその後の憎悪は、あれにとってはいい栄養源になるから、どうかしらって思ったの。その点を指摘しないなんて……、まだ調子は戻っていないみたいね」

 女性はロカセナの近くに置いてある水差しを手に取り、コップに水を注いで、机に置いた。そして背を向けて、ちらりと後ろを垣間見る。

「しばらくでかけるわ。あの女も動いているのなら、いくつか心当たりがあるから」

「あの女?」

「かつて名の知られていた一族の跡継ぎと言われながら、それを嫌がり、放棄した女。貴方が光の青年の生死を問わないみたいだけど、私はその女と出会ったら真っ先に殺すわ――いいわね」

「それは構わない。他人には干渉しない、それは僕たちが同志として組んだときの条件だ」

「そうだったわね。じゃあ、ゆっくり休んでね。扉を開閉できるのは、私たちの中では貴方だけなんだから」

 そして女性は歩く度に軋む床を歩きながら、外へ出ていった。彼女の背中を見送ると、ロカセナはコップに手をつけ、水を体内に流し込んだ。

 外傷は特にない。しかし、召喚を酷使したことで、体内の治癒が追いつかなくなり、血を吐き出してしまったと思われる。あとはアスガルム領民同士の拒絶反応か。

 どちらにしても今は動ける状態ではない。外に出ればモンスターが数多く出回っている。今のロカセナにはそれに対抗する力はなく、下手をすれば命取りになるだろう。他の同志たちは、多かれ少なかれモンスターを操る術を持っているが、ロカセナは不得意分野であるため、ほぼないと言っても過言ではない。

「――フリート、お前は絶望でもしているのか? リディスちゃんは果たして満足な状態で生きているのか?」

 そっと唇に触れ、にやりと笑った。

「彼女の唇は僕のものだ。お前は決して触れられない」

 夜は更け、モンスターがさらに活発化する時間帯となっていった。



 * * *



「しばらくあの子と接触しないでくれると有り難いわ。記憶喪失というのは、非常に繊細な問題なのよ。貴方が突然あんな行動に出たから、あの娘の脳内では恐怖の対象になっている。むやみに脳内を引っかき回したら、取り返しのつかないことが起きるかもしれない」

 腕を組んだメリッグは躊躇いもせず、起き上がっているフリートに言い放った。それを聞いたフリートは、反論する言葉が出てこなかった。

 リディスが記憶喪失とわかると、フリートは彼女の部屋から即座に追い出された。あまりに衝撃的過ぎたため、ルーズニルに促されるがままに部屋に戻っている。リディスの脅えた表情は、未だに脳内に残っていた。

「……記憶は元に戻るのか?」


「わからない」


 さらに追い打ちをかけてくる。鏡で確認しなくても、フリートの顔色は真っ青だろう。

「本来ならあの扉を開けるには、命を捧げるはずだった。けれど幸か不幸か、半分しか開かず、捧げるものも一部――今回で言うと記憶――だった。その法則に当てはめれば、あの扉を閉じない限り記憶は戻らない。最悪、鍵として既に使われたと見なされれば、二度と戻らない」

 手をぎゅっと握りしめた。爪が皮膚に食い込むくらい、強く。

「フリート君、記憶が絶対に戻らないというわけではない。医学的な観点から見れば、記憶喪失は些細なきっかけで戻ることもある。もし記憶を自ら閉じたのなら、その閉じた原因を解決することができれば、戻る可能性はある。……どちらにしても、今は彼女に刺激を与えるのはよくない」

「わかっています」

 前向きに感情がいくよう、ルーズニルは諭してくれる。しかし、今のフリートには意味をなさなかった。

 沈黙の後、堅く閉じていた口をゆっくり開く。これから言うことは、彼女のために最善を尽くす行為だ。彼女のことを、これ以上傷つけてはいけない。

「リディスが落ち着くまでは会わない。容態によってはもう二度と会わない。ただ、俺しか知らないことが何かあるかもしれないから、その時は遠慮なく聞いてください」

 それが今できる、精一杯の返答だった。



 フリートに話をし、彼の部屋を後にしたルーズニルとメリッグは小屋の外を歩いていた。外は若干雪が残っている。ミスガルム領内で着ていた服のみでは肌寒いため、現地で調達したローブを羽織っていた。

「フリート君、かなり辛そうだったね」

「惚れている女性に会えないと知ったら、誰でもあんな状況になるでしょう。それと、おそらくロカセナ・ラズニールのことを引きずっているわ」

 目を細めながら遠くの方をメリッグは眺める。

「まだ信じられないようね。出会った当初からリディスを苦しめていた張本人であり、あの惨劇を作り出し、自ら斬られたという事実に」

「二年以上も一緒にいた相手を、すぐに敵だと言われても難しい気が……」

「貴方でさえ一緒にいた期間は短かったのに、ロカセナの言動には違和感があったでしょう。もし長くいたからという理由で、彼に対して正しい判断ができなかったとしたら、ある意味騎士として失格。無論薄々勘付いていても、失格。今の彼は大陸で随一を誇るミスガルム騎士団員ではなく、ただのちっぽけな弱い青年よ」

 その言葉に異論はなかった。今、モンスターが襲ってきたら、おそらく彼は剣を満足に握れないだろう。表面上の怪我の具合もあるが、精神に負った傷はまったく癒えていないからだ。

「フリート君のためにも、一刻も早くミスガルム城に連れて帰る必要があるね」

「私はそうは思わない。お姫様に尻を叩いてもらっても、彼の心中が晴れるわけではないわ」

 メリッグは両手に息を吐きながら、少しでも暖かさを保とうとする。そして手のひらをじっと見つめた。


「――鍵を使用して、扉を開くのは光か影。私は予言からそう読みとったわ」


 ルーズニルは初めて聞く予言内容に、目を大きく見開いた。

「鍵はリディス・ユングリガというのはわかるわよね。光はフリート・シグムンド、影はロカセナ・ラズニール。予言をした時はどちらが鍵を使用するかはわからなかった」

「フリート君もあの扉を開く可能性があったということ?」

 ロカセナの過去はわからないが、一貴族の息子であるフリートの過去は比較的はっきりしている。話を聞いている限り、モンスターが大量にいる空間へと続く扉を開く理由はない。

「……扉を開くという行為が、果たしてモンスターをこの大地上に導き出すことだけなのかしら?」

「それはどういう意味なんだい?」

「他にもそれ相応の理由があるかもしれないと思っただけよ。……さっきの私の言葉を逆説的にとれば、鍵を使って扉を閉めるのも彼らしかいないことになるわ。扉の開け閉めは、多大な精神力を使うと言われている。だから今の状況を自分自身で脱却できなければ、そのときになった際、おそらく体がもたない」

 抽象的過ぎるメリッグの発言に対し、ルーズニルはすべて理解できなかった。

 だが、これだけは言える。

 フリートが体力だけでなく、精神的にも復活しなければ、今後の見通しはよくないのだ。

 メリッグは立ち止まり、ルーズニルの横顔をほんの少しだけ見た。

「……一人で行きたいところがあるから、先に戻ってもらえるかしら?」

「けど、モンスターが……」

「ここら辺は雑魚程度なら入れない結界が張られている。かつて水の精霊ウンディーネの村としても名をとどろかした地。範囲は小さいけれど、ミスガルム王国よりも結界の質は上よ」

 ルーズニルが立ち止まっているのをしりめに、くすりと笑いながら彼女は一人でどこかに行ってしまった。

 ここに来てから、ルーズニルでさえも水の精霊の存在を何となく感じることができている。他の精霊の加護を受けているにも関わらず感じられるのは、その精霊の加護が強いからだろう。

「メリッグさんもかなりの使い手。何かあったらすぐに知らせてくれるはずさ」

 そう呟きながら、ルーズニルは心に深い傷を負った娘と青年がいる小屋に戻った。



 リディスの傍には、ルーズニルかメリッグが常にいるようにしていた。何が起こるかわからない、リディスはこの戦いの鍵だ。絶対に渡すわけにはいかず、本来なら騎士団員がやる仕事を二人で行っている。

 ミスガルム城には伝書鳩を使って連絡をしていた。万が一手紙が敵の元に渡り、こちらの場所が把握されると非常にまずいため、あくまで生存報告と現状を一方的に伝えただけである。

 リディスが記憶喪失になったと知り、ミディスラシールがどう動くかはわからないが、傷が癒えるまではこちら側は動ける状態ではなかった。

 数日過ごした結果、リディスはメリッグには特に心を開いたのか、二人の時はよく会話が弾んでいた。その事実に気付いたメリッグは首を傾げていた。

「記憶が戻っても、ここまで懐かれないでしょうね。どこが気に入ったのかしら」

「メリッグさんが今のリディスさんと接している時、辛口な言葉を発していないから。それがなければ世話焼きのお姉さんだよ」

「あら嫌だ、そういう性格じゃないのに。――今の彼女を見ていると、ついつい慎重に接してしまうわ」

 壊れものを扱うかのようにリディスと接しているのは、ルーズニルも同じだった。

 彼女と話をする時は、なるべく今の世の中ではなく、物語の話をしていた。今を知れば、必要以上に恐怖を与えてしまう。物語であれば、楽しいこと、面白いことを伝えられる。

 昔からルーズニルは読書をするのが好きだったため、話の内容が尽きることはなかった。

 リディスが一番興味をひいていたのは、ある樹を守っていた一族が主人公以外死亡するという、衝撃的な始まりの後に、各地を駆け回り、新たな仲間と共に枯れ落ちた樹を救うという――楽しく、好奇心を刺激するような冒険譚だった。

「どうしてこの話が気に入ったの?」

「何でだろう……。昔、読んだのかな」

「そうだね、有名な物語だから、読んでいてもおかしくはないね」

 にこにこしながら、ルーズニルはさらりと嘘を言った。書物として出てはいるが、今は出回っていない、古い本だ。誰かから物語を聞いたのか、それとも古本でも購入したのか――ルーズニルには知る術はない。

 窓の外から美しい夕陽が部屋の中を照らしている。それを嬉しそうにリディスは眺めていた。

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