16 夢の終わり

夢の終わり(1)――狂い始めた歯車

 バルコニーが崩壊する前、ミディスラシールたちに余計な手間を取らせないために、フリートは溢れ続けるモンスターを還し続けていた。出現する速度を考えると、だんだん底が見えてきたのではないかと思っていた。

 そう思った矢先、突然バルコニーの床にヒビが入ったのだ。

 ニーズホッグの仕業であるとすぐにわかったが、それを対処するところまでは思考が巡らない。最低限の怪我で済むよう、体を庇いながら落ちていこうとしたが、その前にリディスの安否が気になった。

 視線を向けると緑色の瞳とあう。彼女は廊下に避難しており、青ざめた表情で崩壊を見ている。

 彼女の後ろで相棒である銀髪の青年が、冷めた表情で見下ろしていた。

 ロカセナの表情が気になりつつも、護衛対象の無事がわかったため、二番目に優先順位が高い女性に向かってフリートは叫んだ。

「姫!」

 この崩壊の中、叫んでも聞こえないだろう。だが国でも重要な人物の安否を問わずにはいられなかった。

 崩壊が止むと、フリートたちは一階の入り口付近に落ちていた。バルコニーは入り口の真上にあり、そのまま崩れ落ちたと考えていい。部分月食がやや遠くに見える。

 近くではメリッグを庇っているルーズニルがいた。二人とも埃まみれだが、怪我は負っていないようである。

 ざっと見た感じではバルコニー内にいた人間は無事のようだ。むしろ下の階にいた者の方が危険である。誰も生き埋めになっていないことを願いながら、フリートは足場が悪い中、ミディスラシールに駆け寄った。

「姫!」

 ミディスラシールは声のした方に振り返り、一人の人間の無事を確認すると、表情を緩める。しかしすぐに険しい表情に変えて、殺気が漏れている方向に手を突き出した。

 彼女の目の前に土の壁が出現する。それがニーズホッグから放たれた黒い炎を遮った。

 ニルーフは浮いているニーズホッグの背中に乗って、崩壊した様子を眺めている。

「隙がなくて凄いねえ、お姫様。戦争時代だったら、さらに崇められているんじゃないの?」

「ありがとう。でも、そういう状況になって欲しくはないわね。……こんなことをされても、土の魔宝珠の在処ありかは教えない。ほら、騎士たちだって、誰一人死んでいないわ」

 彼女を囲むように体格のいい男性たちが立ち上がる。すぐ傍ではスキールニルが立っていた。

「知っているよ。ミスガルム王国の騎士団は大陸一の強さを誇るって。僕だってそう簡単に殺せるとは思っていないよ」

「それなら一般人でも殺すつもりだったの? そんなことさせないわ」

 ミディスラシールが手を握りしめて睨み付ける。その言葉を聞いたニルーフは声をあげて、笑い出した。

「一般人を殺すなら、もうとっくにしているよ。城下町に火を放てばすぐに死ぬもの」

「なら、何がもく――!?」

 ミディスラシールは血相を変えて、黒髪の青年を見た。彼女の形相を見て、フリートは思わず息を飲む。

「リディスは!?」

「大丈夫だ、崩壊には巻き込まれていない。運良く廊下に逃げられたみたいだ」

「誰と一緒にいたの、それとも一人!?」

「誰とって、ロカセナと――」

 ミディスラシールの顔から血の気が引いた。

 かつてバルコニーだった場所が黒い炎で包み込まれる。中にいたフリートたちは肌に突き刺さるような熱を感じた。特別な炎のようで、城には燃え移っていない。

 金色の髪の女性は拳を握りしめて、鋭い視線でニルーフを見据えた。

「最初から分裂と時間稼ぎが目的だったのね。――今日大きく動き出すことは、ずっと前から決まっていた。これより前に仕掛けたことは、所詮ついでに過ぎなかった」

「お姫様の言うとおりだよ。でもね、気づくのが遅かったかな。現に分裂しちゃった」

 挑発してくる言い様に、周囲にいた騎士たちはむっとした表情をした。ミディスラシールは耳に髪をかけつつ、不敵な笑みを浮かべる。

「ええ、遅かったし、ここまでの私の采配ミスは認めるわ。けれど、あなたたちの本当の狙いはわかっていた。対策を施さないわけある?」

「本当の目的まで勘付いているなんて、びっくりだ。……いいことを教えてあげようか。あの人はね、お姫様たちが思っている以上に強くて――残酷だよ」

 ニルーフが合図をすると、ニーズホッグが火力の強い炎を吐き出した。土の壁を召喚して防御するが、薄いものはすぐに壊される。ミディスラシールは一度に何重もの壁を作り、近くにいた精霊召喚ができる者の一人に、その場を少しだけ託した。

 険しい顔をしているフリートの元に駆け寄り、茶色の宝珠を突きつける。

「これを念じながら持っていれば、あの炎の壁を一度くらいは突破できるはずよ、持って行きなさい」

「どういう意味ですか。つまりこれは炎を弾くってことでしょう。万が一のことを考えて姫が持つべきです」


「――今すぐ、リディスのもとに駆けつけて」

「どうして俺が……。ロカセナがいるから大丈夫――」

「彼じゃ駄目なの。彼だからこそ、駄目なの!」


 今にも泣きそうな顔で首を激しく横に振られる。このように取り乱した姫を見たことがない。

 必死になって何を伝えたいのか。常に冷静なはずのミディスラシールの脳内では、何が巡っているのか。

 瞬間、ロカセナが冷めた表情でフリートたちを見下ろす光景が、脳裏をよぎった。

「今から言うことはすべて真実。すぐに理解できるはずがないし、フリートが受け止め切れるとも思えない。でも動かなければ――」

 胸騒ぎがする。

 金髪の少女と銀髪の青年が交互に脳内を駆け巡った。


「――閉じられた扉が鍵によって開かれる」


 ミディスラシールの口から語られる衝撃的な内容を聞き、フリートは愕然としていた。

 この時こそ、嘘だと願ったことはないだろう。

 この時こそ、己の無知を悔やんだことはないだろう。

 この時こそ、狂い始めた歯車を止めたいと思ったことはないだろう。

 足下が覚束おぼつかないフリートの背中を、ミディスラシールは両手で押し出す。そしてフリートは受け取った魔宝珠を握りしめて、黒い炎の中を突っ切っていった。



 * * *



 リディスはロカセナと共に廊下を走っていた。時折地響きを感じたり、モンスターと交戦する声や音が聞こえるが、予想以上に城内は静かである。たまにモンスターが単体で現れたが、難なく二人で還していた。

「ねえ、どこまで行くの?」

 三階から一階に降り、入り口からは遠ざかる方向に走っている。

「城の地下だよ。そこにモンスターの発生を止める術があるんだ」

「発生を止めるって、なんだかモンスターは作り出された存在のように言うのね」

「ようにっていうか、それが事実だからだよ」

 呟かれた内容を聞き、リディスはきょとんとした。モンスターは昔からドラシル半島とは別の場所、もしくは片隅で生きていると言われている。どこかで作り出されたなど、聞いたことがない。

 リディスはロカセナの言葉に疑問を抱き、問おうとしたが、彼はある部屋の前で立ち止まった。それに従い、ぴたりと止まる。

 ロカセナは左右を見渡してから、一本の鍵を使って鍵穴を回転させると、小気味のいい音と共に開いた。中は暗いため、リディスは光宝珠を手にして踏み入れる。

 その部屋は物置らしく、左右にある棚以外目立ったものはない。他の道に続くドアなどなく、行き止まりである。ロカセナは真っ直ぐ進むと、行き止まりの地点を指で示した。

「ほら、薄らと切れ目が入っているだろう。ここから先が地下への入り口」

 ロカセナが脇にあった若干色褪せている石を押すと、隠し扉は音をたてて横にずれ始めた。新たな通路が現れたのを目の当たりにし、リディスは目を瞬かせる。

 扉の先は、さらに濃い暗闇で覆われていた。ロカセナに支えられながら階段を降りていく。足を踏み外せば、真っ逆さまに長い距離を転がり落ちるのではないかと危惧したが、意外と底は浅く、すぐに平地に足を付けることができた。

 少し歩くとおぼろげながら道が見えてくる。道の奥には立派な巨大な扉があるようだ。

 あの先に行けば、モンスターの大量発生を止め、フリートたちを助けることができる――そう思うと、リディスは無意識のうちに走り出そうとしていた。

 しかし、ロカセナが左手首をぎゅっと握ってきた。

「――駄目だよ。この先に何がいるのか、わからないんだから」

 抑揚のない声を聞き、思わず体をびくりと震わせた。今まで聞いたことがない、冷たく突き放した声。

 恐る恐る振り返ろうとすると、急に強く引っ張られて、彼の胸元に引き寄せられた。直接触れているため、鼓動が直に聞こえてくる。

「ロカセナ?」

「……お願いだから、静かにしていてね」

 困惑していると、ロカセナに左腕を首に回され、喉元に彼の右手に持っているものを添えられた。

「な、何……?」

 状況がまったく見えなかった。背中を彼の胸に押し付けられているため、すぐ傍にいる彼の顔すら見えない。

 ただわかるのは、ロカセナの鼓動の速度はほとんど変化がないことだ。首元に冷たいものが突き刺さる。

「――いい加減にでてきたらどうですか? お二人とも。出てこないのなら、少しくらい彼女を斬りますよ」

 怖いほどに静かなロカセナの声に、本当に彼なのかと疑ってしまう。首筋に突き刺さっていた冷たいものが、少しだけ喉に食い込んだ。

「……痛っ!」

 おそらくかすり傷だが、彼がリディスに痛みを与えたという驚きの反動で、我慢することなく言葉を漏らしてしまった。

 誰かが物陰から出てくる。同時にその誰かの光宝珠によって、一帯は明るくなった。

 奥には非常に強力な結界が張られている扉があり、その前にカルロットが険しい表情で広刃の十字剣であるクレイモアを握りしめて立っていた。彼の周りには険しい顔をした騎士たちが十人ほどいる。

 一方、後ろからも静かな足取りで近づいてくる人物がいた。

「姿が見えないと思ったら、カルロット隊長は土の魔宝珠の護り番を任されていたわけですか。騎士団の中で、一対一ならほぼ誰にも負けないですからね。セリオーヌ副隊長は、ずっと僕のことを尾行していましたね。いつからしていたんですか。おそらく今日だけではないでしょう。さっきたまたま乱戦の時に振り返らなかったら、気付きませんでしたよ」

 カルロットは大剣を背負って近づいてくる。セリオーヌも同様にして、背後から歩み寄っているようだ。


「お前、本当に城を裏切る気なのか」


(裏切る?)

「裏切るだろうって、いつから気付いていたんですか? 僕、これでもかなり気を付けて動いていましたよ」

「初めて嬢ちゃんと会った時、嬢ちゃん、投げナイフで襲われかけただろう――その時からだ」

 ロカセナが目を丸くした。そして感心したように頷く。

「それは、それは……。さすが隊長、甘く見過ぎていました」

 カルロットの眉間にしわが大きく寄る。彼が口を開く前に、リディスの背後からはっきりとした女性の声が聞こえた。

「現実とは違うある異空間を召喚させて、そこを通じてナイフを投げつける。ある相手の脳内に、映像や音を無理矢理召喚させる。ロカセナ、あんたはどの程度まで召喚ができるんだい?」

 セリオーヌの言葉の中に、聞き捨てならない内容があった。

「映像や音を無理矢理召喚させる……?」

 リディスは復唱をし、視線を軽く動かす。ほんの少しだけ見えたロカセナの顔は、普段見せる優しげな笑みを浮かべていた。

「あとで話してあげるね、リディスちゃん。今はちょっと急いでいるから」

「ロカセナ、見損なったぞ! お前、そこまで墜ちている人間だったのか!」

 直属の上司からの悲鳴に似た叫び。

 それに対し、溜息を吐きながら返される。

「勘違いしないで下さい。この行為をすることが墜ちているというのなら、僕は入隊する前から墜ちていた人間ということになりますよ」

「――っお前!」

「そこをどいてくれますか、カルロット隊長。そして双剣を僕の背中に突き刺している、セリオーヌ副隊長。今まで良くしてもらったお二人には多少恩があります。いいですか、忠告です――死にたくなければ、どいて下さい」

 低く、重い声で伝えられる忠告。

 それは――ただの脅しという雰囲気ではなかった。

 恐ろしさのあまり、リディスは声を出すのを忘れていた。ただ無性に目から涙が零れ始めている。

 なぜ、このような状況になっているのかは、わからない。

 これから彼が何をしようとしているのかも、今のリディスではわからない。

 ただ、カルロットやセリオーヌの悔しそうな声や内容を聞いて、確実に言えることがあった。


 ロカセナはミスガルム城側に、反旗を翻したということに――。


「どくわけねぇだろう。部下が誤った道に外れようとしているのを、むざむざと見過ごせるか!」

「忠告は有り難いけど、それに従うわけにはいかない。これは姫からの直のお願いでもあるのだから」

 姫の名前を聞くと、ロカセナは軽く目を見開いた。

「ミディスラシール姫も気付いていたんだ。だから予定のものと警備の位置が違ったわけか。だいぶ手間取ったよ、誰にも気付かれずに移動することが。時間までに間に合わないかと思った」

「姫はロカセナのことを思って……!」

「……副隊長、生きていたら姫に伝えて下さい。いつも気を使ってくれてありがとうございました。でも、僕は自分の為すことをするために、もう戻りません、さようなら……と」

 そしてロカセナは視線を移し、リディスを見下ろす。涙に溢れた顔を見て、やや顔を曇らした。

「その状態じゃ、これからする事は少し刺激が強すぎるかな。少しの間、眠っていてね」

「待って、ロカ――」

 止めに入る前に、リディスの首筋に深々と手刀が入った。意識が一瞬で飛んでいく。最後に見たのはロカセナの寂しげな表情。

 リディスは為す術もなく、意識を失い、ロカセナの腕の中でがっくりと項垂れてしまった。

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