想いは風に乗せて(3)

 漆黒の空からデーモンを連れた老人が現れると、トルは為す術もなく倒され、ロカセナも同様に地面に叩きつけられた。

 しばらく静観していたメリッグだったが、老人と一匹のデーモンが中に入ろうとしたのを見て、とっさに攻撃をした。だが、簡単に防がれてしまい、彼女までもが容赦なく殴り倒された。

 そして老人とデーモンは何事もなかったかのように、塔の中へ入っていった。

 残されたのはトル、ロカセナ、メリッグ、そしてその様子を見張る八匹のデーモンたち。状況は最悪である。

「殺しはしねえのか……」

 トルは軽く手を握りしめた。多少傷は負っているがまだ動ける。しかし、圧倒的な力の差を見せつけられ、すぐに動こうという気持ちにはなれない。

 こういうとき、ロカセナやメリッグは何を考えているのだろうか。

 フリートやリディス、ルーズニルなら何をするだろうか。

 思考を巡らすことなく、ただ体に任せて動いていたトルにとって、この状況では何も考え付かなかった。


 このまま何もせずに、中にいる人たちの断末魔を聞くしかないのか――。


 不意に火の魔宝珠の欠片がほんのりと熱を帯びているのに気づく。寒々とした夜の風が体に触れる中、その温かさを感じることで、少しだけ落ち着くことができた。

 耳をつけていた地面から、微かに何かが響いてくる。

 何だろうとぼんやりと思った矢先、塔の下部から緑色の光が放出し始めた。その光景を見てトルは自分の目を疑った。光はさらに大きくなり、塔全体を包もうとしている。

 デーモンもその光に目を奪われており、トルたちから視線を外していた。その隙を見てトルは起き上がり、余所見をしている相手にウォーハンマーで叩きつけた。驚くぐらい簡単に当たり、デーモンは地面に転がる。火の精霊サラマンダーを召喚して、ピック部分に加護を付け、急所を狙って還術した。

 それを見たロカセナ、メリッグも傍にいたデーモンに対して、流れるような手つきで還す。

 メリッグのもとに青年二人が近づくと、三人は依然として光り続けている塔に視線を向けた。

「何が起こっているんだ? リディスたちは大丈夫なのか!?」

「光を見ると、あれ自体には私たちに害はないと思うわ。おそらくモンスターに影響力のある、精霊からの光。ただ塔の中でどうなっているかは、これだけではわからないわ」

 メリッグが首を振っている最中に、急激に光は小さくなっていく。逆にデーモンの動きは活発になり始めていた。

 彼女は埃にまみれた服を叩き、先ほどより鈍いが動き出した残りのデーモンに視線を向けた。

「光が完全に消える前に、地上にいる残り五匹を還す必要があるわ。できるかしら?」

「そんな確認をしている暇はないみたいだよ」 

 ロカセナがサーベルの切っ先を地面から正面に向けた。そしてトルが辛うじて目に見える速さで、近づいてきたデーモンが持っているトライデントを跳ね除ける。そのまま両者の攻防戦が始まった。

「この速さでさえ、一匹が限界だろ!」

 メリッグを襲おうとしたデーモンに、彼女の盾になるようにしてトルは立ちはだかり、無我夢中でウォーハンマーを振り回した。

 もう一度あの光が、いや誰でもいいから助太刀が欲しい。

 少しでもモンスターの気を紛らわす、何かがあれば状況は変わるはずだ。

 そう思いながらとにかく振り回していると、トルの手からウォーハンマーがなくなっていた。

 口をあんぐりとあけたまま立っていると、脇から手を出した他のデーモンが、ハンマーを力ずくで奪い取っていた。

「嘘だろ……?」

 呆然とするトルを見たデーモンたちは口を大きく開いていた。そして躊躇いもなくトライデントを振り――。


 瞬間、トルの耳に聞きなれない音が入り込んできた。


 音というより、音色といった方が正しいだろう。

 透き通るような、どこまでも響くような笛の音。

 騒いでいた心の中が穏やかになるような、心地よい旋律――。

 そのまま聞き入っていたかったが、今置かれている状況を思い出し、慌てて意識を戻す。正面ではデーモンがトライデントを振り下ろそうとした状態で止まっていた。

 呆気にとられていると、右腕を華奢な手で握られ、後ろへ引っ張られる。

「メリッグ!?」

「せっかく助けが入ったのだから、早く武器を取り戻して、下がりなさい!」

 遠目から見ても美しい顔が目の前に現れ、思わず息を呑む。メリッグは厳しい表情のまま、ウォーハンマーを目で示した。トルは彼女から離れ、転がっているウォーハンマーを慌てて拾い上げる。

 美しい音色ははまだ続いていた。

 音が反響しているため、聴いただけでは音の出所の正確な位置はわからなかったが、一周辺りを見渡すと、場所が判明した。オカリナを口に付けた黒髪の青年から音が流れている。

「フリートの兄貴?」

 フリートとは真逆と言ってもいいくらい、物腰が柔らかなハームンド。流れるような旋律を聴いていると、自然と活力が湧いてくる。

「あのオカリナは他の人の願いも込められているようね。彼以外の想いも強く感じ取れるわ。きっとその方の想いによって、モンスターは動けなくなった。悪や憎しみは、愛を込めた願いには敵わないものだから」

 目を細め、右手をそっと頬に触れて、うっとりするような表情でメリッグは眺めている。

 その場で聞き入っていると、メリッグの紺色の髪がなびかれた。初めはそよ風が吹いている程度、しかし気づけば、手で押さえなければならないほど激しい風が吹く。


「もう過去に捕らわれるのは終わりだわ。今こそ踏み出さなければならない。闇夜の先にある、風が吹き抜ける方へ――」


 彼女が微笑みながら喋る姿を見ていれば、もう恐怖など感じられなかった。

 意識を外に向けると、幅広い年代の男女が、緑色に光る魔宝珠を手のひらに乗せて近づいていた。その周りから風が発生し、集まった風がデーモンたちを包み込んでいく。

 個々の力はどうということは無い。しかしたくさんの風が集まったことで、大きな風に変貌しているのだ。

 やがて残っていたデーモンたちは黒い霧となり始めた。大量の黒い霧が風と共に、空へ浮かび上がる。

 幻想的な雰囲気が漂う中、トルはじっと夜空を見上げていた。

 雲がかかり暗かった空だったが、いつしか星が輝くくらい、空は晴れていた。



 塔の内部では、美しい笛の音が徐々に大きくなるのをフリートたちは聞き取っていた。音が出現するなり、老人から出された黒い炎の竜巻は消え去っている。

「音によって動きを止めたわけですね。器用な人がいるものです。ですが所詮音が聞こえる範囲の出来事」

 老人が右手を掲げると、まがまがしい黒い炎の固まりが現れる。騒々しい音がするほど、激しく燃えていた。

 しかし老人の思惑に反して、外から聞こえる音が大きくなった。

 ふと風がフリートたちの脇を通り抜ける。それを感じたスレイヤは目からこぼれる涙をそっと拭った。

「また昔の村に戻ろうとしている。活発な議論で溢れ、積極的な交流で村が栄えていたあの時代に。いえ、さらなる発展を望む、新たなミーミル村が始まろうとしているわ!」

 スレイヤは立ち上がり、手紙を脇に挟んで両手を胸の前で組んだ。

「風の魔宝珠に宿る、風の女神よ、我らの想いを受け入れたまえ。村を護るために、悪しきものを排除せよ!」

 言い終わると同時に突風が吹いた。あまりの強風にフリートは壁へ寄りかかる。

 老人は悔しそうな表情でさらに後退していた。下がる度に彼の血の雫が床に落ちる。

「これが結界の本当の力というわけですか。いやはや、これでは侵入は困難だ。残念ですが今回は撤退させてもらいますよ」

 そして老人はフリート、そしてリディスに対して目を細めて見た。

「しかし最後に笑うのは私たちだ。人の心など揺り動かせば一瞬で崩れる。再び心を保とうとするだろうが、既に時は遅かろう。その日まで少しでも楽しい時間を過ごしなされ」

 ふふっと含んだ笑いをし、指をぱちんと鳴らすと、老人の目の前に天井に届くほどの竜巻が発生した。

 すぐにその竜巻は消えたが、その間に老人は去ってしまった。あとに残っていたのは老人から流れ落ちた血だけ。

「逃げたか……」 

 呟きながら、階段の先をじっと見つめた。

 おそらくあの老人が風の魔宝珠を奪うために、デーモンや他の大量のモンスターたちを操り、ミーミル村を襲った。

 だが、結界が再構築されたため、中にいたモンスターたちは還され、老人もそれ以上攻めるのは難しいと判断して、逃げたのだろう。

 気になる点はいくつもあったが、思考を巡らすのは後にして、スレイヤたちのもとに近づいた。不思議なことに、風の刃がフリートの体を切り刻むようなことはなかった。

 さっきまでは生気がなかったスレイヤだが、今は生き生きとした表情をしている。

「スレイヤさん、もう大丈夫なのですか?」

「ええ、この手紙のおかげで、だいぶすっきりしたから」

 くしゃくしゃになった手紙には“愛するスレイヤへ”と書かれた冒頭文が。

「三年近く前に離れてしまった、私の婚約者から。あの人、少しでも私の護り人である時間が短くなるよう、必死に調べていたんですって。なぜ護り人を立てなければならないのか――などを。けどその途中で大怪我を負って、それを知られるのが格好悪いからって、ずっと連絡をしなかったの。でもたまたま優しい男性と親しくなって、その人にその想いを漏らしたら『手紙を書くべきです。僕が届けに行きますから!』って、言われて、手紙を書いたらしいわ。――ねえ、その届けてもらった人に会いたいのだけれども、まだいるかしら?」

 フリートは額に手をあてて、思わず呟いた。

「……まったく、お人好しで、自分の力量も考えない馬鹿兄貴が……」

「その人ってフリート君のお兄さんなの?」

「そうですよ、スレイヤ姉さん。さっきフリートのお兄さんから渡されたんです。まだ村の中にはいるはずですよ」

 耳ざとく言葉を拾ったスレイヤに、リディスがさらに余計なことを付け加える。フリートは鋭い声をあげた。

「お前、勝手に喋るな!」

「むしろどうして喋っちゃいけないの? ……疑問に思っていたけど、なぜフリートは一方的にお兄さんのこと嫌っているの?」

「別にそういうわけじゃない! 親の言うことばかり従って、決められた道をそのまま進んで、肝心な時に親父と二人でいなかった奴なんか、何とも思ってねえよ!」

 言ってしまった直後、断片的とはいえ、一番触れたくなかった過去をさらけ出したことに後悔する。

 目を丸くしていたリディスは顔を曇らせる。

「何か……あったんだね」

 リディスから視線を逸らし、仕方なく首を縦に振る。もう何も聞かないで欲しいと思ったが、彼女はフリートの心の中にそっと踏み入れてきた。

「過去に何があったかは知らないけど、お兄さんはフリートと話したがっていたと思うよ。せっかくの機会だし、会って話したら? フリートも話したいんでしょう?」

「まさか、どうしてあいつと話を……」

「あら、気づいていない? フリート、久々にお兄さんと会った時、口では怒っていたけど、ほんの少し笑みも浮かべていたんだよ」

 逸らしていた視線を戻すと、緑色の瞳に吸い寄せられる。

 前はそのような言葉を出されたら、怒って言い返していたが、優しく微笑んでいる少女を見ると、今回はできなかった。


(ああ、こいつは俺のことをいつも真正面から見てくれていたのか)


「ねえ、話してみて、少しでいいから。もしかしたらフリートの中にあるわだかまりも、なくなるかもしれない」

 今まで出会った誰もが、フリートの心の中では時が止まっていることなど知らず、ただ過去に何かがあったという理由だけで、それ以上触れてこなかった。

 しかし金色の髪の彼女は、詳しい事情は知らないが、その奥底にあるものを見抜いて、そっと背中を押してくれたのだ。

(リディスの言葉に乗ってみるか……?)

 フリートはその場で考え込んでいたが、ルーズニルが状況整理のためにあちこち動いているのに気付くと、思考を元に戻した。皆の怪我の具合を見て、重傷者がいないことを確認する。

 そして風の魔宝珠を中心に、村全体に新たな結界が張られていることをスレイヤが確かめてから、四人は階段を上り、塔から出た。

 出た瞬間、予想外の光景に一同は目を大きく見開いた。スレイヤの目には涙さえ浮かんでいる。

「みんな……」

 ミーミル村にこれほど人がいたのだろうかという勢いで、塔の前にある広場は人で溢れていた。ぽつりぽつりと話し声も聞こえていたが、スレイヤたちが出てきたことに気づくと、自然と静まり返る。

 再び張りつめた空気、そして集まる視線にごくりと唾を呑む。

 それから少しして、奥から人々が一本の通路を作るようにして分かれていく。一番手前の人がその場から体をどけると、ダリウスと老人が現れた。背筋を真っ直ぐ伸ばしており、実年齢より若く見える老人。彼はルーズニルに鋭い視線を向けた。

「ルーズニルか、久しぶりだな」

「お久しぶりです、村長。ご挨拶が遅くなってしまい、申し訳ありません」

 珍しくルーズニルの表情が堅い。この人がミーミル村を治める村長、そしてルーズニルが会わねばならないと言っていた人物。

 村長は視線をスレイヤ、そしてフリートやリディスに向けて、値踏みでもするかのように観察する。やがてその視線は空へ向けられた。

「久々に心地よいともいえる風がこの村に吹いた。ただの風ではなく、まるで大気の吐息のようであった。そして同時に、村に漂っていた不穏な空気も少しずつ消えていった――」

 再度視線がルーズニルとスレイヤに向けられる。村長の目元がさっきよりも緩んでいた。

「いつまでも過去の出来事に縛られてはいかん。隠遁した状態がいつまでも続いては、この村はやがて滅びるだろう。しかし、それを望んでいる者はいない。今、この場にいる村人たちを見ればわかるはずだ」

 村長の言葉を聞いた村人たちは誰もが前を向いて頷いていた。

「ドラシル半島のさらなる知の繁栄のために前に踏み出そう。それを行うためには、村を引き続き脅威から護り続けねばならない。護り人には負荷がかかってしまうが、わしらも支えあうから頑張ってくれぬか、スレイヤ・ヴァフス?」

 村長からの心からの願いを感じ取ったスレイヤは、流れた涙を拭って、首をはっきり縦に振った。

「はい。私ができる範囲で役割を果たし、村を護り続けます」


 凛とした声と共に穏やかな風が吹いた。

 触れた者の心を温かな想いにさせる風が。

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