魔宝樹の鍵

桐谷瑞香

序章 転がる樹の雫

序章 転がる樹の雫

 真っ青な空が広がる中、小鳥のさえずりが、川のせせらぎが、そして風によって葉が触れあう音が辺りに響き渡る。まるでそこに居るだけで、心が和らぐような優しい空気が漂っていた。

 その空間の中心には雄大にそびえ立ち、青々とした葉を付けている一本の大樹があった。

 いったい何百年、いや何千年この場にあるのだろうかと思うほど、堂々とした大きさである。

 樹の周りは微かにもやのようなものがかかっており、それによって大樹は神聖な雰囲気を醸し出していた。

 その近くで樹を見上げている者が一人いた。大きなフードを被っているため顔は判別できないが、金色の長い髪がフードの隙間から零れ出ている。

 その人が一歩近づく度に、風が吹く。

 また一歩近づく度に、より強い風が吹く。

 風が吹く度に、小鳥は飛び去り、空は黒く厚い雲で覆われ始める。空気が張り詰めてきた。

 その人はこれ以上樹に近づくのは難しいと判断し、その場に跪き、両手を握りしめて瞳を閉じる。しばらく祈りを送っていたが、苦悶の表情を浮かべただけだった。

「私の祈りが大樹に届きにくくなっている。依然として扉は閉じられたまま。このままでは――」

 切羽詰まった内容を呟いた声は凛とした女性のもの。静かな空間では呟きであっても遠くまで聞こえるものだった。

 引き続き彼女は祈りを捧げるが、樹を取り巻く空間に変化はない。握りしめる力が強くなる。

 ただひたすらに、想いを込めて――。



 やがてどれくらい祈り続けたのだろうか。

 長い時間祈り続け、彼女の想いが通じたのか、僅かに樹を揺らす風が穏やかになった。

 雲の合間から少しずつ光が漏れ出し、穏やかな空間に戻りつつある。

 祈りを捧げていた女性は目を開いて、両手を解くと、激しく呼吸をし出した。

「時間が……ない」

 苦しそうに呟きながら立ち上がり、一歩離れて樹を見上げた。

 少しずつではあるが葉の量が少なくなり、枯れ始めている。それが目に見える範囲での気がかりだった。

 その様子を一瞥して、女性は重い足取りで歩き出し、樹を後にした。



 彼女が去ってからしばらくして、何の前触れもなく樹から小さな石がその場に落下した。

 それは意思を持っているかのように転がり、近くの川へと吸い込まれるように落ちていった。

 その後は変わらず、大きな樹は風によって葉や枝を揺らされ続ける。

 何事もなかったかのように、その場に静かに居座っていた――。




 * * *




 遠い、遠い昔から――世界創世の時代から暗黙の内で了解をし、人々に言い伝えられていることがあった。


 一つ、その樹に触れてはならない。

 一つ、その樹から出た雫は返さねばならない。

 一つ、その樹を巡る循環を乱してはならない。

 もし過ちを起こせば、不幸が襲い掛かるであろう。



 その内容を子供は親から厳しく言い聞かせられて育つ。

 しかし悲しいことに、伝承よりも好奇心を優先する者がいたのも事実だった。

 遠くから見ているのに耐えきれず、その樹を近くで見て触れるために、奥地まで旅に出た者もいたが、帰ってくる者はいなかったという。



 一方、この樹は人々の生活に恩恵を与えている、非常に大切なものだった。

 “魔宝珠まほうじゅ”、別名“樹の雫”とも呼ばれる、特殊な珠をもたらしているのである。

 それを利用し、使い方を様々な方面で発展させることで、文明は進化していった。

 この恩恵がない世界など考えられないほど、人々に密着している珠を生み出す大樹。ただし謎に包まれている部分が多数あるため、多くの研究者たちが躍起になって調べていた時代もあった。

 だが、今はそれをすることはできない。



 なぜなら、その樹はこの世界からなくなってしまったのだから――。




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