第十一話 ネコと話せる少年少女

 14:02。


 事務所に寄って、樹下家のあるマンションに着いた頃にはいい時間だった。約束は昼の二時過ぎなので、遅刻したわけでもない。というか、よく考えたら二時過ぎなんて曖昧な時間を約束してしまって良かったのだろうか?


 結構、緩い感じだがこれもしっかりした仕事なんだからきっかりと時間指定した方が良かったんじゃないだろうか。


 役にも立たない落書き程度のメモ書きより、家庭教師マニュアルみたいのが欲しかったな。まぁ、昨日の失敗があったからこそ、今日このマンションに真っ直ぐ来れた事だけで嬉しかったりするんだけど。


 さて、もう一つの昨日の失敗を再現しないようにボクは、エレベーターを呼ぶためにボタンを押した。二日連続で、同じボケを繰り返しても受けはしないだろう。


 ん、別に観てくれる客がいるわけでもないのに、何だこの考えは? 樹下桜音己に毒されてる?


 そういえば、あれから一通もメールが来なかった。もしかして、機嫌を損ねたのだろうか。


 家庭教師とは、なかなか面倒なもんだ。


「それじゃ、ネコに私たちが来たこと伝えておいてください」


 エレベーターが五階に着いてドアが開くと、樹下家の方からそう聞こえた。


 玄関口には、樹下母と少年少女。


 少し距離のあるここからでも、少年の不満そうな顔と礼儀正しくお辞儀する少女が見える。


 猫とお話ができます、とメルヘンな事を言う若者を考えないとして、多分あの二人はネコこと樹下桜音己の友達じゃないだろうか。


 友人はネコと呼ぶ、と彼女も言っていたしな。


「ありがとうね。桜音己の事、気を悪くしないでね。あの子、少し変わってるから」


 昨日ボクにそう言ったように、樹下母は少女に告げた。


 少女は頭を上げて、ええ、わかってます。幼なじみですからと答えた。


 本人のいないところで、変な人間扱いを誰も否定せずなのはなかなか不憫に思えて仕方ない。まぁ、フォローしづらい性格と言動の持ち主なので仕方ないのかもしれない。


 本人が聞いてない事を切に願うばかりだが、何分玄関口での会話であるし多少距離のあるこのエレベーター前でも聞こえてしまってるわけだから、聞いてない可能性の方が低そうだ。


 エレベーターの前で、じっとその一連の会話を待っているボクに気づき不審に思ったのか、少年がこちらを睨みつけてきた。


 少年といっても、樹下桜音己の同級生ならボクとは二歳程度しか離れてはいないのだが、見た目があまりに、野球少年です、と主張するので年齢より幼く見える。


 無地の黒いタンクトップに、学校指定だろう赤いジャージズボン。綺麗だと、褒めたくなるほどの丸刈り。むき出しの腕は、細くがっしり鍛えられてて肌も健康的に褐色にやけている。


 この日射し鋭く熱い夏に、テレビをつけたら感動を与えてくれそうな典型的な高校球児。


 まぁ、見た目の話で実際野球をやってるかはわからないんだけども。


 もしかしたら、お寺の子供という場合もあるし、彼のポリシーなのかもしれない。


 そんな彼が、こちらを睨んだまま目を離そうとはしない。


 状況からしてエレベーターから出てきて、ものの数秒じっとつっ立っているだけのボクなんだが、彼には不審に思えたのだろうか?


 昨日エレベーターの前でぼけっとしてた時に会ったオバサンですら、あんなに敵対心むき出しに睨んでは来なかったのに。


 ボクは、彼の何を刺激したのだろうか?


「ちょっと、ヒデちゃん」


 その少年の眼光に気づいたのか、少女が声を上げる。少年はそれを無視して、ボクを睨み続ける。


 そんなに睨まれるような事を、ボクはしてしまったのだろうか?


 目を逸らしたら負けな気がして、ボクも少年を睨んだ。まじまじと少年を見てみたが、過去に会った記憶が無い。


 なら、睨まれる理由はなんだろう。


「あ、先生。こんにちわ、いらっしゃってくださったんですね?」


 樹下母が、爽やかにこちらに手を振る。


 樹下母は女子高生の母親という事が不思議な程若く見えるので、変な誤解が生じないかと少し心配になった。


 誰に対しての何の誤解かは、深く考えないでおく。


「先生? って事はアンタが家庭教師ってやつか?」


 一瞬和やかな気持ちになったのに、少年の言葉でまた妙な緊迫感が生まれた。


 少年は、ボクの返事お構い無しにこっちに向かって歩いてきた。


 ドカドカと、わかりやすいぐらい怒っている事を表面に出した歩き方。


 怒っている理由は、さっぱりわからないんだけども。

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