脱走
編み物を終えて道具を片付けようとしたアーシェラは、ふとリーズのそばにある読みかけの本が気になった。表紙に題名は書いていないが、彼にとっては何度も読んだ本なので、一目見ただけで何の本なのかは分かったが、リーズがこの本に興味を持ったのが少々意外だった。
「リーズが読んでた本って『払暁への行軍』だよね。結構真剣に読んでたけど、おもしろかった?」
「ん~、おもしろかったというよりも、ちょっとためになったかも」
リーズが読んでいた『払暁への行軍』という本は、カナケル王国建国記の一つで、人類で初めて旧街道を踏破した騎士シレジア・カナケル――――つまりカナケル王室のご先祖にまつわるあれこれが書かれている。
かなり昔のカナケル地方は、高い山に隔てられているせいで海から船で回り込むしかないと思われていたが、騎士カナケルは道なき道を踏破して、この地方を開拓したと伝えられている。
「カナケルがやってることが、リーズやシェラたちの今にちょっと似てる気がするのっ。ほとんど人が住んでなくて、獣が跋扈する荒野を開拓するところとか、特にね」
「そうなんだよね。この本は冒険者時代に買った本で、僕がいつか故郷を復興する時はこれを参考にしようかなんて思いながら読んでいたよ。まぁ……内容はちょっと難しかったから、その頃は読むのに苦労したけど」
「確かに…………リーズも読んでいて途中で眠くなっちゃった」
何しろ内容が古い本なので、記述が小難しいことこの上ない。
リーズも、内容に興味を持っていたからこそ途中までは読めたが、そうでなければ最初の数ページでやめていただろう。
「リーズたちは結構のほほんと暮らしてるけど、この本に出てくる騎士カナケルは、かなり苦労してたんだね…………毎日のように脱走兵が出て、どんどん仲間がいなくなるって、ちょっと怖いかも」
「そこが、今の僕たちと違うところだよね。当時は食べるものの確保も苦労しただろうし、故郷が恋しくなる兵がいてもおかしくはない。一時期は反乱も起きかけていたようだし、よっぽど切羽詰まっていたんだろうね」
とはいえ、当時のカナケルはアーシェラと違って自領の兵を半ば強引に連れてきたという事情もある。
彼らには帰る故郷も、守るべき家族もいたわけだから、いつ終わるかわからない開拓に従事させられるなど、堪ったものではなかったはずだ。
一方でアーシェラと村人たちは、初めから強く結束していたのもあるが、彼らは山向こうに帰る場所がないという事情もある。それはリーズも同じで、アーシェラがいてくれればずっとこの地に住んでいられるし、何より王国にはもう二度と帰りたくはなかった。
カナケルとアーシェラのどちらが優れているかは一概には言えないが、当時のカナケルのことを考えると、彼の苦労はアーシェラの比ではなかっただろう。
「僕自身が訳ありの人たちを選んだとはいえ、厳しい環境でも文句ひとつ言わずに、逃げることなく力を貸してくれた村人のみんなには感謝してもしきれないな…………」
「えっへへ~たとえみんなが逃げても、リーズだけはずっとシェラと一緒だよ…………って言いたいとこだけど、今住んでるみんなが逃げるなんて考えられないねっ!」
ブロス夫妻も、イングリッド姉妹も、ディーター一家もレスカ姉弟も…………それにアイリーンの一家も、みんなそれぞれに重要な役割があり、一人でも欠けると村は立ちいかなくなってしまいかねない。
そんな彼らが自分の役目を放棄してまで、厳しい旧街道を越えて山向こうに逃げていくことは、ほとんど考えられなかった。
もっとも…………ミルカだけは村を去ってしまう可能性があるが、それはミーナをはじめ村の子供たちがある程度大きくなり、自分の力がなくても大丈夫だと確信する頃の話だろう。
昔から、辺境の開拓には徴募人員の脱走はつきものであったが、この開拓村ではそのような心配をすることはなさそうだった。
「さてと、少し早いけど夕ご飯の支度をしようかな。ディーターさんから大麦の
「いいねっ! 今日はリーズも手伝うっ!」
本と裁縫道具を片付けたアーシェラは、早めに夕食を作ることにした。
せっかくなので、茹でるのにそれなりに時間がかかるスパゲッティーを作ろうと思い立ち、リーズも久々の麺類で嬉しくなったのか、料理の手伝いを申し出た。
だが、そんなのんびりとした空気は、突然激しく叩かれた玄関のドアの音と、焦りが見られるレスカの声で一変した。
「村長、リーズさん、ゆっくりしているところで悪いが、緊急事態だ!」
「どうしたのレスカさん!? 今開けるねっ!」
リーズがすぐに玄関を開けると、切羽詰まった表情をしているレスカが立っていた。
「イングリッド姉妹のところの羊が一匹脱走した!!」
「羊が脱走!?」
「そうきたか…………」
ついさっきまで、村人が脱走することはないと語り合っていたリーズとアーシェラだったが……
家畜が脱走するのは想定外だったようだ。
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