⑦ 5/15 キスしてくれたら許してやろう
はい、と小さな声をしぼり出して、菜花は離れた場所に座った。
司はずっとキーボードを打ち続けていたが、その横顔が不機嫌になっていく。やはり仕事の邪魔をされて怒っている。そう感じた菜花はしゅんとうつむいた。すると司の手が止まる。
「俺だけ扱いが低い」
「えっ?」
「今朝、連絡するって言ったくせに」
「千乃さんからのメッセージは届きませんでしたか? クビは回避で七月からも」
「届いてた。俺は千乃からで、薫さんには菜花から。この違いはなんだ」
言いたいことだけ言って、そっぽをむく。すねた子どもみたいな態度に菜花は戸惑った。
「もしかして、私からの連絡を待ってましたか? それならすみません。会って話がしたかったので」
パソコンに視線を戻していた司は、菜花を見据えた。
「会いたかったから、こんな時間までここに? 待たせて悪かったな。それで?」
「それでって?」
「話があるんだろ」
「あー、そうでした。七月からは総務部以外で働くことになりました。六月にはどの部署に行くのかわかると思いますが、またしばらくアカツキにいるのでよろしくお願いします」
軽く頭を下げて立ち上がった。
「それだけ?」
「……? それだけですよ」
「それだけのために、わざわざ?」
「いけませんか?」
司の眉間にしわが刻まれる。また不機嫌な空気を漂わせるので菜花は焦った。
「なにが不満なんですか?」
「京都はどうする」
「あっ……」
言葉に詰まった。こんな時間まで仕事をしている司は毎日、忙しい。京都には行きたいけど、わがままを通していいのか悩む。
押し黙っていると司の肩が落ちた。
「菜花から誘ったくせに」
「クビにならなかったから。京都の話もどうしようかと……。忙しいですよね」
「真面目すぎる答えだな。それが不満かな」
司は冷めた言葉を投げて、視線をパソコンに戻した。菜花は消え入りそうな声で「ごめんなさい」と、またうつむく。
「あー、もう。顔、上げて」
キーボードの音が止まり、菜花の肩に大きな手が乗った。ふと見上げると、お互いの前髪がふれそうな距離に司がいる。
「キスしてくれたら許してやろう」
菜花は驚きすぎてのけぞった。
「またそうやって、すぐにからかう。お仕事の邪魔してすみませんでした。もう帰ります」
立ち上がって帰ろうとした菜花を、司はうしろから抱きしめた。
ひゃっ、と短い悲鳴を発したけど、たくましい腕は菜花を放さない。それどころか「菜花」と低くかすれた声が耳もとでささやくから、大きな声を出していた。
「ダ、ダメですよ、池田さん。オフィスの天井には防犯カメラが埋め込まれていて、そこと、そこに」
ジタバタしながら腕の中から逃げ出そうとするから、司は「ぶはっ」と吹き出した。そのまま腹を抱えて笑っているので、菜花はカッとなった。
「いまのは冗談になりませんよ。セクハラです!」
顔が熱すぎて泣きたくなる。司が女の人を抱きしめるのは慣れたことかもしれないが、菜花は違う。本気で怒っているのに、司は不思議そうな目をする。
「今朝、京都に行こうって誘ったのは菜花だろ。つまりそれは、そういうことだ」
「そういうことって言われても……」
「えっ、じゃあ好きでもない男と一緒に行くつもりだったのか?」
「そうじゃ……なくて、その……、京都なら日帰りで……遠足みたいに……」
しどろもどろになって動揺する菜花に向かって、話にならないと言いたげな表情で司は低い声を出す。
「二泊は必要だろ」
「と、泊まりですか⁉」
おまえは子どもか、と言いかけて口をつぐんだ。素っ頓狂な声を上げていちいち驚く菜花は、恥ずかしがり屋の子どもだった。
「面倒くさいな」
司はパソコンの電源を落として、オフィスの電気を消した。
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