④ 5/1 京都へ行こう。これって口説かれてます?
怖い。本気で怒っている司の表情は、菜花の知らない姿。ビクッと身をすくめたけど、硬直している場合ではなかった。
「あぁ、ごめんなさい。打ち合わせの途中でしたね。あとは上で。行きましょう」
袖を引っ張ると、怒りに満ちた目が菜花をにらむ。ふざけるなと言いたそうだが、ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
「周りをよく見てください。これ以上は……」
菜花の双眸に光るものが盛り上がった。オシャレなカフェレストランといっても、ここはアカツキビール本社の一階。社員たちが多く利用している。揉め事を起こせば瞬く間に広まり、よからぬ噂だけがひとり歩きしていく。それだけは避けたいと、菜花は震える指先に力を入れた。
「行きましょう。池田さん」
もう一度促すと司は素直に応じた。袖から伝わる菜花の震えが、抑えきれない怒りと、口もとまで出かかった言葉を呑み込ませた。
司はぐっと堪えたのに、良雄が顔色を変えて立ち上がった。
「あなたが、池田司?」
凍りつくような緊張が走ったが、溝口が司と良雄の間に割り込んだ。
「おい、良雄。やめとけって」
溝口の判断は素早く、正確だった。良雄と溝口を見下ろす司は、爆発しそうな怒りを抑え込んでいる。その異様ともいえる表情に真っ向から挑んでも、壮絶に散るのは目に見えていた。
「大石さん、ごめんね。いまのは」
溝口がへらへらと笑いながら言い訳をはじめたけど、菜花は無視して歩きだした。そして良雄とすれ違う。
良雄は拳を強く握りしめていた。その
菜花は目を伏せた。もし司と千乃が結婚を考えた仲なら、良雄の恋は確実に実らない。司と良雄が真逆すぎて胸が痛んだ。
「大丈夫か?」
カフェレストランを出ると、司が声をかけてきた。大丈夫だと言いたいのに、涙がこぼれる。
良雄は追って来ない。それが現実で、あっけなさすぎる幕切れと、ひどい仕打ちに身が砕かれそうだった。
司はうつむく菜花を人目から隠すように歩いて、自動販売機が並ぶ
「ココア、飲むか?」
首を横に振った。菜花はひとりになりたかった。だから手のひらで顔を拭って偽物の笑顔をつくったのに、温かいココアが目の前に。
「飲むか? じゃなくて、飲め」
なめらかなチョコレートの香りに包まれた。やさしい甘さと温かさが、泣いてもいいよと伝えてくる。また涙がこぼれそうになったけど、司が意外な言葉を口にした。
「一緒に、京都へ行かないか?」
菜花は驚きすぎて瞬きをくり返す。たったいま、良雄にフラれたばかりなのに口説いてきた? 急激に心拍数があがって、一気に目が乾く。
わたわたと慌てふためく菜花の横に腰をおろして、司は話を続けた。
「ずいぶん前に、おもてなしブームがあっただろ。それに便乗して、ナスのビールを開発しようとしたんだ」
「ナスって、なすび? 野菜味のビール?」
京都とはまったく関係ない話に、首を傾げた。
「そう、その名も「もてナスビール」だ。贈答品用にも売れると思ったんだが、失敗した」
「……そりゃ、野菜味のビールなんて聞いたことありませんよ」
「だから、いいと思ったんだ。完成すれば、この世をあっと驚かせるビールだぞ。でも、失敗した」
「池田さんでも失敗するんですね」
「当たり前だ。失敗があるからくやしいし、同じ過ちをくり返さないように賢くなる。あっ、そうだ。ナスの味ってわかるか?」
「ナスの……味?」
温かいココアから視線を外して、白い天井を眺めた。
「少しぬるっとして、炒めると野菜の旨味をぎゅっと油ごと詰め込んで美味しいですよね。ナスの柴漬けも酸味があって、ご飯のお供に丁度いいし」
「それはナス単体の味じゃないだろ」
あきれ顔で言い返されても、ずっしりと重いナスにかぶりついた経験はない。調理後のナスしか知らないので、単体の味などわからない。
菜花はハッとひらめく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます