② 5/1 予定外の打ち合わせ

 口を塞いで後退りをする菜花に「乗るの? 乗らないの?」と、不機嫌な声を投げてきたのは司。あまりの偶然に驚いたが、ここで乗らないを選ぶのは不自然。


「乗ります」


 そそくさと乗り込み、一階のボタンを押そうとしたけど指は宙をさまよう。ボタンはすでに押してあった。

 エレベーターの扉が閉まると、司とふたりっきりに。ただでさえ静かな狭い空間。三階から一階へおりるだけでも、やけに遅く感じる。

 なにか話しかけた方がいいのか。このまま黙っているべきか。迷いながらそわそわしていると、不意に一颯いぶきのことを思い出した。


 幼い一颯が、「ぱぱぁー」と司にしがみつく姿。そこからの、ビンタ。とろけるような色男でもフラれることがある。そんなことを考えているから、つい「ぐふっ」と笑みがこぼれた。

 瞬時に、凍てつく冷たい視線が菜花に突き刺さる。ひえぇぇっ、と目を閉じたとき、ポンッと音が響いて扉が開く。


「ど、どうぞ」


 司を先におろして、離れていく背中を見送った。

 挨拶ひとつなし。素っ気ない態度。でも原因は菜花にある。飲み過ぎて送ってもらったのにぐーすか寝て、からかわれて、逆ギレのような形で別れた。気分を害して当然。菜花が淋しさを浮かべていると、司がピタリと止まって振り返った。


「もう帰るのか?」

「えっ、まだです。このあと七時から打ち合わせがあって」

「総務が残業?」

「はいはい、お金を生まない総務が残業してすみませんねぇ。わたしだって早く帰りたいのに。あなたのプロジェクトのせいで残業です」

「俺の? あー、備品の確認か。それなら、いますぐやってやるぞ」

 

 菜花は瞬きをくり返した。


「いますぐって。池田さんはまだ仕事中ですよね」

「ちょっと疲れることが多くてな。頭、冷やそうかと思って、休憩するところ」

「ええぇ……。それじゃ、ゆっくり休んでください」

「確認だけだろ。すぐ終わるからコーヒー、飲みながらでもいいか?」

 

 返事をする前に、司は一階のカフェレストランへ吸い込まれていく。早く帰れるのは嬉しいけど、疲れた笑みを浮かべる司のことも心配だった。


「痩せましたか?」

「いや、いつもと同じだと思うけど。資料、ある? それ、使うからちょっと貸して」


 窓際のボックス席に腰をおろした瞬間から、司は仕事をはじめた。分厚いファイルに目を落として、手際よくチェックを入れていく。アカツキビールオリジナルのロゴが入ったコーヒーカップが置かれても、司は口にしない。湯気と一緒に、深みのある芳香が脳を刺激してくるのに。


「コーヒー、冷めますよ」

「仕事を持ち込む奴が多いから、ここのカップは長い時間でも温度が保てるように工夫されてる。すぐには冷めないから。あっ、俺のことは気にせずに飲め」

「では、遠慮なく」


 ここのコーヒーは、ブラックで飲めば深みがあって美味しかった。でも、ミルクと砂糖を加えてからが、また一段と美味しくなる。口当たりのいい分厚さのコーヒーカップも、味のバランスも専門店以上。心地良い香りと味にホッと一息ついた菜花は、コーヒーカップを両手に持ったまま司を眺めた。

 

 口もとを引きしめて、真剣なまなざしで仕事と向きあう姿は、思わず惚れそうになる。白黒はっきりとした目が本当に綺麗で、この瞳に見初められた女性がうらやましい。そんなことをぼんやり考えていると、背中から聞き覚えのある声が飛び込んできた。


「いきなり来ても、会えるわけないだろ。もうちょっと考えて行動しろよ。田沢さん、早く仕事、終わらないかなー」

「おい、田沢さんに会いに来たんじゃないぞ」


 忘れられない、人生で最悪な合コン。そこにいた溝口みぞぐちと、良雄よしたかの声。秘書課の恵里奈えりなを狙う溝口は、人を値踏みするような不快な視線をぶつけて、派遣社員の菜花を蔑んだ。その態度が露骨すぎて、イヤな記憶として声まではっきりと覚えている。


「僕はおまえのせいで。早く大石さんに謝らないと」


 良雄の口から急に菜花の名前が出てきた。

 菜花はわたわたとコーヒーカップをソーサーに押し付けて、テーブルに突っ伏した。


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