③ 4/22 なぜか気になる。あの人のことが
良雄は周囲を警戒しながら口を開いたが、声より先に、スマホの着信音がふたりの鼓膜に突き刺さる。
突然のことに、「わっ」と驚きの声を上げてのけぞると、良雄は慌ててスーツのポケットに手を突っ込んだ。
「あー、すみません。電源、切るの忘れてました。メールかな」
やわらかい笑顔で頭をかきながら、良雄はスマホの画面に視線を落とす。すると数秒で顔色が変わった。和やかな雰囲気から一転して、ピンと張りつめた空気が漂う。なにかあったのか尋ねようとすると、良雄は険しい表情のまま立ち上がった。
「ごめん、会社に戻ります。アプリケーションエンジニアの溝口が、要望通りに性能を見直さないインフラエンジニアに食ってかかったみたいで」
「ん? アプリケーション……えっ、インフラ?」
菜花は聞き覚えのある単語だけを口にしたが、さっぱり意味がわからない。良雄が荒々しく伝票をつかむから、慌ててカバンに手を伸ばした。
「今日のお詫びに僕が持ちます。大石さんはゆっくりしててください。それから」
良雄はテーブルの上に名刺を置いた。
「これ、僕の連絡先です。それじゃ」
嵐のように去る背中を眺めて呆然とする。同時に肩の力が一気に抜けて、テーブルに突っ伏した。
「とっても楽しかったのに、……疲れた」
だらけた姿勢のまま腕を伸ばして、名刺を引き寄せた。
司が突き付けてきた、ビジネス用の堅苦しい名刺と違って、良雄の名刺は明るく華やか。菜花はじっと眺めてまた頭を悩ませる。
「これ、どうすればいいのよ」
名刺の裏にはスマホの番号とQRコードが。
「やだな。QRコードを読み込んで、こっちから連絡しないと、次、ないってこと? ハードル、たかッ。千乃さんにお願いしようかな」
今度会う約束を千乃に頼めば、胸を叩いて快く引き受けてくれる。でも軽く首をふった。
誰かに頼ると必ず迷惑がかかる。実家を出てから、ずっとひとりで頑張ってきたのに、やさしい人たちと出会えて甘えている。だから失敗ばかりしていた。これではいけないと残りのコーヒーをぐっと飲み干して、外に出た。
東京の夜は昼間よりも輝き、派手で、にぎやか。ひとりで歩いていると笑われているような気がして、早足になる。早く帰って飲み直そうと思ったが、コンビニの前で足が止まった。
――おまえが好きなあのクラフトビール。絵本のようなラベルのやつ。あれも、俺の案が盗まれた。そんな奴が素敵だって?
松山勝美を褒めたとき、司は噛みつかんばかりの勢いで怒り出した。その話が本当なら、もう飲む気がしない。菜花はスマホを取り出した。
『お疲れ様です。今夜は中山さんとお話しできて、本当に楽しかったです。その上、すっかりご馳走になってしまい恐縮するばかりです。もしよろしければ』
また会いたい。このままだと心苦しいから、次の機会にはぜひ――。そのようなことを伝えたかったのに、指が動かない。『もしよろしければ』を『ありがとうございました』に変えてメッセージを送信する。
「いつからだろう」
星のない夜空を見上げて、菜花はつぶやいた。
学生の頃は部活も勉強も一生懸命やって、友達も多かった。二十五歳のときに実家を出て、ゼロからのスタートがはじまった。不安だらけだったけど、頑張ればうまくいく。そう信じていたのに現実は厳しかった。
新卒カードを失った就職活動はうまくいかない。いつの間にかひとりぼっちになって、不安定な派遣社員のまま三十歳に。
良雄との出会いは幸せをつかむ最後のチャンス。なのに、自信のなさが菜花を躊躇させる。
ため息をついた。良雄は二十七歳。菜花は三十路の派遣社員。どうしても自分自身を卑下してしまうが、それに囚われ続けると自信や誇り、豊かな人間性まで失っていく気がして、怖い。
「やっぱ、帰ろう」
コンビニに背を向けて、駅へと急ぐ。コツコツと靴音を響かせていると、ふと気になることを思い出した。
「どうして池田さんの名前が出てきたんだろ?」
司と良雄の接点がまったく思い浮かばない。仕事も違う。歳も離れている。だが、司自身もふしぎな人だった。
神社の息子だと口外してはならない。
薫との関係は?
松山と大きなトラブルを起こしたわりには、マーケティング部の課長代理で出世街道をまっしぐら。でもそれだと、あの神社が違う人の手に渡る。
気が付けば、眉根を寄せて「んー」と頭を悩ませていた。菜花にはまったく関係ないことなのに。
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