⑥ 4/18 薫の過去と五円玉女
「さっき、クリーニング店から電話があって、スーツのポケットに」
「出し忘れか。他人の服だからな、仕方がないよ。また取りに来るだろうから、そのときにでも返せば」
「それじゃ、遅いのよ」
「遅い?」
「忘れ物は会社のICカードなの。入退出に使うし、社内情報のアクセスにも必要でしょう。早く届けてあげないと」
「あいつは総務だから、再発行の手続きに慣れてるって」
「でも、どこでなくしたのかわからないと、不安でかわいそうよ。明日、スーツと一緒に届けてあげて」
面倒くさい。顔一面に表したけど、薫は引かない。
「菜花ちゃん、頼れる人がいないんじゃないかな。少し髪を汚しちゃったから、お風呂をすすめたとき」
「ひとりになりたくないって、泣いてたな」
「あんな姿を見たら、もう放っておけなくて。私も、同じだったから」
「薫さんは、あいつとは違うだろ」
「一緒よ。ひとりになりたくないのに、それが言えなかった。菜花ちゃんの場合はお酒が入って、本音がこぼれただけ。ひとりにはなりたくないのに、それを誰に言えばいいのかわからないのよ。周りはみんなうまくやってるのに、自分だけうまくいかない。でも、それを認めたくなくて」
「あー、もういい。わかりました。明日、全部、ちゃんと、しっかり、届けてきます」
「ありがとう。できれば、菜花ちゃんの話を聞いてあげて。たったひとりでも話を聞いてくれたら、救われるんだから」
「そんなもんかねぇ」
「大事なことなのよ。だって、熊一さんに出会わなかったら、私、きっとこの世にいないから」
いつも笑顔を絶やさない薫が、きゅっと唇を噛んだ。それにはもうお手上げ。司は「わかりました」とため息をこぼした。
「薫さんは親父に救われたかもしれないけど、もう充分、恩は返したと思う。もっと自由に、好きなように生きればいいのに」
「あら、私は毎日楽しく過ごしているわよ。熊一さんが守ろうとしているこの神社を、私も守りたいの。熊一さんと出会った場所だし」
「すみませんねぇ、熊一の息子が俺で。跡を継ぐ気がなくて。親父と結婚して、薫さんが跡を継げばいいのに」
「司くん」
口調はきついけれど、怒るというより考えに沈んだ顔で司をじっと見つめている。ふたりのことに口を出すなと、無言の圧力をかけていた。
春の陽射しのように温かでやさしい薫だが、怒らせると厄介。司は「すみません」と小声で謝った。すると薫は「よろしい」と背伸びをして頭をなでる。
五歳年上の薫は、司を弟のように扱う。それに反抗したこともあったが、薫はいまの立場を貫いた。司が自由に働けるのも、社務を引き受けた薫のおかげで、頭があがらない。
「そうだ、司くん。菜花ちゃんにちゃんと言った方がいいんじゃないかな」
「なにを?」
「ここは、縁結びの神社じゃないって」
「あー、そうだった」
司は天を仰ぐ。
はじめて菜花を見かけたのは、二年ほど前。五円玉を放り込んでから、必死になって手を合わせる小さな背中が印象的だった。それから賽銭にやたらと綺麗な五円玉が増えて、しまいには……。
パンパンに膨らんだポーチから、五円玉をジャラジャラ投げ込む菜花。その姿が異様すぎて神社の有名人に。
本人の知らないところで「五円玉女」と呼ばれている。
「神様なんてどこにもいないってことも、伝えないとな」
「またそんな身も蓋もないことを。菜花ちゃんと司くん、気が合うと思うけど?」
「男と女がいたら、くっつけようとするのやめてくれ。どうせ、女の方から逃げていく」
「あら、菜花ちゃんはこの場所、好きみたいなのに?」
返事をしなかった。そうすると薫はそれ以上、踏み込んでこない。社務所の奥へと消えた。
薫とはじめて出会ったのもこの場所。どっと堰を切ったかのように、雨水が薄い屋根を叩きつけていた日、司の父、熊一が連れてきた。
全身ずぶ濡れで、死んだ魚みたいにうつろな目が怖かった。
『今日から、司の姉ちゃんだ』
熊一は、それだけしか言わなかった。
当時中学生だった司は、薫を受け入れることができなかった。それでも月日が経てば、家族になる。
行かないでと袖を握った菜花の手は震えていた。そのうち菜花といい友達になれそうな気がして、司は目を細めた。
ところが翌日、その考えは大きく覆される。
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