⑤ 4/18 オルコットの生き方
「若草物語、読んだことありますか?」
「ん? 読んだことないけど、四姉妹の成長物語だったかな。そういえば昔、男の子は勇猛に育つように『トム・ソーヤの冒険』が流行って、女の子は良妻賢母になるように『若草物語』を流行らせたとか。そんな話をイギリス出身の奴から聞いたことがあるなぁ」
「良妻賢母ですか……。南北戦争当時のアメリカ、ニューイングランドの物語で、父親は戦地に。残されたのは、やさしくてしっかり者の母親と四人の姉妹。 戦争への不安や、悩みや苦しみを抱えながらも、一歩、一歩、確実に大人への道を進むんです」
「好きなの? その物語」
「好きですよ。でも、物語よりも作者の生き方が意外で、驚きました」
「作者?」
「ルイーザ・メイ・オルコットです。若草物語を読んで、結婚して幸せになるのがゴールみたいに感じたのに、オルコットは生涯独身だったんです。いまよりも結婚が女の幸せだと疑わない時代で、結婚を選ばなかった。物語はとても素敵なのに、オルコットの生き方はどこか淋しくて、どうしてなんだろって」
そこでしばらく沈黙が続いた。車は、どこにでもあるようなマンションや、これといった特徴のない住宅街を走り抜けている。
後ろへ遠ざかっていく建物を目で追いながら、菜花はつぶやいた。
「大人になれば結婚できるって、信じてました。でも、オルコットの生き方を知ってからは、結婚だけが女の幸せじゃない。他の幸せを追求するのも大事なことだなぁって」
「でも、結婚したいんだろ? あきらめてないくせに」
くすっと笑われて、嫌なことが頭をめぐる。
ユウユに派遣社員だとバラされたとき、溝口と泉谷の目は変わった。四月十八日で三十歳になると聞いて、売れ残りだと蔑む視線を投げてきた。
菜花はぶかぶかの袖をぎゅっとつかんで、うつむいたまま口を大きく開けた。
「バカにしないでください。そりゃ、結婚できたらいいですよ。でも、こればっかりは相手がいないと、どうしようもないでしょう。自分は結婚してるからって、見下さないでください」
「あ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。俺も、まだ結婚してないし」
「は?」
助手席に座って、はじめて顔をあげた。
やわらかな黒の瞳が申し訳なさそうに菜花を覗いている。だが、春の陽射しのように温かい薫の姿が脳裏に浮かぶ。
「あ、薫さんは同棲している彼女ですか? それならもう、結婚してるのと変わらないですよね」
「薫さんは、親父が勝手に連れてきた俺の姉だ」
「えっ、それって」
複雑な家庭環境。聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかと、血の気が引く。同時に、見慣れた町の佇まいが菜花の瞳に飛び込んできた。
「あっ、ここ、曲がってください」
「えっ、ナビは真っ直ぐって」
「こっちの方が車、少なくて近いんです」
「了解」
左折して、街路樹に面したマンションの前でおりた。すると、たくさんの人たちが背中を通り過ぎていく。土曜日でも家族を連れて出掛ける人。ジョギングを楽しむ人。犬の散歩も目立つ。ありったけのお礼とお詫びをしたい菜花でも、ぶかぶかのジャージが恥ずかしい。
司が話しかける前に深々と頭を下げて逃げた。でも、途中で立ち止まり「本当にすみませんでした。もう二度とご迷惑はおかけしませんからーッ」と、大声で叫んだ。
「まじめな女だな」
司は軽く手をふって、車を走らせる。だが、カーナビに指を置いた。マンションに住んでいるなら建物の名前だけでいいのに、部屋の番号までしっかり入力してある。
住所を入れろといったから素直に入力したのか、部屋番号まで教えて誘っているのか。視線を宙に漂わせて、司は笑う。
助手席の菜花は、ガチガチに緊張していた。最初に絡まれたときは酒癖の悪い女だったが、酔いが覚めれば小さな身体をさらに縮めて、何度も頭を下げるまじめな女。
『酒が本性を暴く』という文言があるが、昨夜の菜花は喜怒哀楽が素直で、酔いが覚めればただの不器用。ぎこちない姿を思い出すたびに、口もとが自然とほころぶ。
面白いものを発見したかのような面持ちで社務所に戻ると、薫が困った顔をして司をむかえた。
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