③ 4/18 菜花の誕生日
「菜花ちゃん、大丈夫よ。ここは嫌なこと、悲しいことを温かく包んでくれる神社なの。ひとつ、ふたつの失敗は、気にしないで」
ひとつ、ふたつ。
菜花は頭の中で数えたが、失敗はひとつ、ふたつではない。みっつも、よっつも。
「大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。汚した場所への清掃はもちろん、弁償もいたしますので――」
「気にしなくていいのに、困ったわねぇ。それじゃ、司くんの話でもしようかしら。昨日、司くんから連絡をもらったとき、とっても驚いたわ。女が死んだ! どうすればいいって」
「へ?」
「薫さん、俺のことは関係ないでしょう!」
「だって殺人事件が起きたと思って、びっくりしたのよ。急いで駆けつけたら、菜花ちゃんは寝てるだけ。それなのに、司くんがあまりにも必死だったから、おかしくて」
「こいつが急にぐったりして、目を開けないから」
「それからね、菜花ちゃんをお風呂に入れるから、近くのコンビニで下着、買ってくるようにお願いしたら、メンズのボクサーパンツを買ってきたのよ。菜花ちゃん、かわいい女の子なのに」
「パッ、パンツッ!?」
ジャージの上から腰まわりを確認すると、下着に違和感がある。思わずパーカーをめくりあげて、ズボンに指をかけたが。
「余計なことは、言わないでください!」
司の大きな声に菜花はハッとする。
下着を確認するために、ズボンをおろしそうになっていた。ここでいきなり脱いだら、痴女。ボッと火がついたかのように顔を赤くしたが、菜花よりも恥じらいの色を濃くしたのは、司。耳たぶまで真っ赤に染まっている。
「……男の人でも、顔を真っ赤にするんだ」
なにも考えずに思ったことを口にした。すると澄んだ黒の瞳に、激しい怒りが浮かぶ。
「おまえは、いつまでここにいるんだ。早く、帰れ!」
「あああ、すみません。ごめんなさい、すぐ帰ります。……あの、わたしの服は?」
「あっ」
「あら、やだ。下着は洗濯中ね。スーツは朝一番のクリーニングに出しちゃったから、ごめんなさい。明日になるわ」
クリーニング。またひとつ、迷惑が増えた。
次から次へと永遠に続く迷惑に、菜花は再び目眩を起こす。
「本当にご迷惑をおかけしてすみません。このまま帰ります。この服は洗濯して返しますし、クリーニング代もきちんと払いますので」
「もういい。俺が車で送ってやる」
「え、でも」
「そうね。それがいいわ。司くん、お願い」
「待ってください。これ以上、ご迷惑は」
「誕生日なんだろ、今日。プレゼントの代わりに、迷惑もわがままも、全部聞いてやるよ」
菜花の胸が熱くなった。
実家を出てから、誰も菜花の誕生日を祝ってくれない。四月十八日は、いつも底なしの淋しさを突き付けてくる。子どもの頃はその日が待ち遠しくて、楽しい一日だったのに。でも、誕生日は自分だけの特別な日で、他人にとっては普通の一日だと気付いてからは、こだわるのをやめた。――やめたはずなのに、司のひと言は今日を特別な日として彩る。
不意に涙がこぼれそうになったけど、泣かないと決めていた。これ以上、やさしい人たちを困らせたくない菜花は、懸命に唇の両端を引きあげて、笑みらしきものを浮かべようとした。だが、うまくいかない。
「それじゃ、菜花ちゃんも司くんもよく聞いて。昨日のことは昨日でおしまい。今日はまだ手つかずの新しい一日でしょう。だから明るく、楽しく、笑っていられる方法を探しましょう。自然に笑えるまで、無理しないで。心が疲れちゃうわよ」
薫の声は美しい湧き水のように澄んで、菜花の心に染み渡る。「はい」と素直にうなずいて、無理に笑うのをやめた。
「よし、それじゃ送ってやるから、いくぞ」
「ありがとうございます」
ご厚意に感謝して甘えることにしたら、薫が「待ちなさい」とふたりを引き止めた。
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